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(奨励)盲人バルティマイの視力回復と復活の光 [奨励]

2024年11月24日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書11章から抜粋された「エルサレムでの歓迎」の物語です。この物語から何を学べるのでしょうか。

主イエス一行のエルサレム入りは、直前の盲人バルティマイの視力回復と密接な関係があります。彼は、生まれつき目が見えなかった訳ではなく、人生半ばにして、全盲になりました。これは、南ユダ王国が、バビロニア帝国によって滅ぼされましたが、主イエスの到来によって、王国が回復するという期待を反映しています。また、視力の回復は、再び光をみるということです。

これは、誰も乗ったことのない子ろばと関係があると思います。誰も乗ったことのないということは、主イエスが初めて乗ったということです。初めてということの内に、天地創造の初めである「光あれ」ということの暗示があります。また、バルティマイが、上着を脱いで、喜び躍ったという描写はエルサレムの市民が一行を大歓迎したことの前触れとなっています。主イエスが子ろばに上着を掛けたのも、その意味があります。

なぜ子ろばだったのでしょうか。馬ではない理由はあるのでしょうか。子に対しては、父という存在を想い起こします。「父」という言葉はエルサレムの物語に集中しています。ゲッセマネの園での「アッバ、父よという」祈りと子ろばとの関係は通じるものがあるのです。市民は、主イエスの到来が政治的解放であると待望していました。しかし、そこでの意義は過ち、罪の赦しであり、永遠の命に道を拓くということです。

同じ11章に次の言葉があります。「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。王が家来の多額の借金を棒引きしたのに対し、その家来は同僚から少額の借金を取り立てようとしたという譬えや、マルコの夜福音書には登場しない「主の祈り」と通じるところがあります。

最後に、もう一度バルティマイの奇跡の意義についてですが、二人の匿名の弟子と関係があると思います。前述の通り、ペトロを首根っことしたツリーを十二人の使徒プラス三人とするならば、二人は男女を表し、バルティマイは社会的弱者を象徴しています。これは教会全体を示しています。それにとどまらず、聖餐式文では「天の全会衆」を加え、この「ホサナ」を歌い唱えます。エルサレム入りは、主イエスの肉体の回復、復活、教会の礼拝を意味しているのです。
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