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(奨励)今(日)こそ私たちが誘われる喜びの世界の接近 [奨励]

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2024年12月25日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書2章から抜粋された「主イエス誕生」の物語です。

日本では、クリスマス前日を「クリスマスイヴ」と呼んでいるようですが、正しくは「クリスマス前夕」を指します。ルカの降誕物語には、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」とありますが、なぜ「今」ではないのかについて考えてみたいと思います。

そのことを比較するとき、シメオンの賛歌の「主よ、今こそあなたはお言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉があります。これは、シメオンが乳幼児主イエスを腕に抱き取ったときの感激を表しています。また、主イエスとともに十字架に付けられた罪人に対しては、「あなたは、今日私とともに楽園にいる」と言います。まもなく、処刑死するのに「今日」と言うのはちぐはぐなように見えますが、シメオンも罪人も主イエスとの距離がとても近いという点で共通しています。

その意味では、今日も今も同じであると言ってよいでしょう。今ダビデの町に主イエスが生まれた、この今こそ待望していた救い主が登場したという臨場感が湧いてきます。今日と言う言葉は他にもあります。故郷のナザレでイザヤ書の朗読をしたとき、「今日、あなたがたがこの言葉を耳にしたとき、この言葉は実現した」と主イエスは宣言します。内容は、キリストの誕生と社会的弱者の解放を表していますが、ナザレでは受け入れられません。

詩編95に「今日、神の声をきくなら、心を頑なにしてはならない」という言葉がありますが、これも今神の言葉をきいたときに、それを素直に受け入れるか否かという心が問われるのです。また、主の祈りでは、「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」とありますが、この前後が内面的なことを言っているのに、急に物質的な求めになるのは、奇異に感じます。私見では、ここで言う「糧」は、神の言葉、そして必ずしも聖書の言葉ではなく、新たな気付きを与えられる啓示の言葉であると思います。それは、今という臨場感であるのとともに、今日こそは御言葉をくださいというスパンでもあると言ってもよいでしょう。

ユダヤ教では、一日の始まりは日没後です。主イエスは夜間に産まれていますから、それは一日の終わりではなく、始まりです。天地創造の初めは、「光あれ」でした。主イエスの誕生は、闇を引き裂く物理的な光であるだけではなく、永遠の栄光、私たちが誘われる喜びの世界の接近なのです。
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(奨励)福音書の冒頭に来るのは「洗礼者ヨハネの福音の初め」である [奨励]

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2024年12月22日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書1章から抜粋された「マリアの賛歌」の物語です。

マリアの賛歌の後半は、裁きの言葉で満ちており、女性の言葉としては違和感があります。しかし、これを洗礼者ヨハネのものだとするならば、受け入れやすくなるのではないでしょうか。

思い上がる者を追い散らし
権力ある者をその座から引き降ろし

という箇所は、ヘロデ・アンティパスのことを想い起こします。彼は結局、悲惨な死を遂げることが使徒言行録に記されてあります。

また、主イエスに随伴した女性の中に、ヘロデの家令クザの妻ヨハナがいますが、ヘロデの身内から主に従う者が出ていたことは、洗礼者ヨハネの影響が大きかったことをうかがわせる記事となっています。マグダラのマリアやスサンナとともに、ヨハナが持ち物を出し合ったという表現からすると、彼女たちが資産家の出身であることも暗示しており、マリアの賛歌の

富める者を何も持たせずに追い払い

に反応したことをうかがわせるものです。このことも、ヨハネの影響によるものだと私は考えます。

マグダラのマリアが、罪深い女で娼婦だったという俗説がありますが、彼女が金持ちだったとすると、そのようなことはありえず、七つの悪霊を追い出してもらったという記事も精神障害を指すのではなく、夫や財産を投げ出す覚悟を示しているのだと思います。このように、マリアの賛歌をヨハネによるものだと想定すると、別の光景が浮かび上がります。

今から後、いつの世の人も
私を幸いな女と言うでしょう
の女を下僕であるヨハネと置き換えると、非業の死を遂げたヨハネですが、彼の業績は、永く残っている事実と符合します。

ヘロデの家令のクザの妻ヨハナは、主イエスの復活の証人の一人となっており、ヘロデ王の地位や振る舞いとは対照的です。このように、女性の「でし」たちの召命を具体的に記述しているのは、ルカのみです。

マリアの賛歌が洗礼者ヨハネのものだとすると、ザカリアの賛歌も彼によるものだと想定できます。両者に共通するのは、「アブラハム」に対する言及です。神とアブラハムの契約に当たって、割礼がしるしとなりましたが、これが洗礼に代わったことは、キリスト教を普遍的なものに大きく変えたことからすると、ヨハネの功績を称える表現とも言えます。

これらは仮説に過ぎませんが、ルカ3:18にヨハネが「民衆に福音を告げ知らせた」とありますが、その内容が何であったかを想像するとき、賛歌などはいろいろな素材を提供していると思います。

マルコの書き出しが「神の子イエス・キリストの福音の初め」の直後にヨハネの物語が続く意味では、「洗礼者ヨハネの福音の初め」と言って差し支えないのです。
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(奨励)社会的弱者に対する洗礼者ヨハネの眼差し [奨励]

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2024年12月15日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書3章から抜粋された「洗礼者ヨハネとの問答」です。

きょう、聖餐式で行われた福音朗読の中で「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」という言葉がありました。これはマタイの箇所なのですが、ルカでは「徴税人と罪人」という表現になっています。すなわち、娼婦は罪人という「隠語」になっているのがギリギリなのですが、マタイのような道徳重視の福音書としては、異例の表現となっています。

さて、洗礼者ヨハネのもとに徴税人や兵士が集まってきて、差し迫った神の怒りから免れるためにはどうすればよいかと質問します。これに対し、法に触れるようなことは避け、規定の収入で満足しなさいという至極当然の答えが返ってきますが、逆に言えば、決まりが守られていないのが現実だったということです。私は、徴税人や兵士だけではなく、娼婦もヨハネのもとに来ていたと考えます。しかし、娼婦のような社会的弱者に今の収入で満足しなさいでは福音になりません。

彼女たちにとっては、ヨハネを通した、神の言葉のみがすべてだったのです。では、ヨハネはどのような福音を語っていたのでしょうか。具体的には残されていませんが、主イエスが語った説教の中に、共通するものがあると考えます。例えば、
「貧しい人々は、幸いである
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は幸いである
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである
あなたがたは笑うようになる。」
というようなことを語っていたとしたら、娼婦にとって、慰めの言葉であったと思います。

では、娼婦は、どのような境遇にあった人々なのでしょうか。夫と結婚して、幼子に恵まれたものの、夫が病気や戦争などで他界し、シングルマザーとして生きて行く他なくなってしまったとします。当時は、女性が職業を持って自立することは難しく、売春をして暮らしを立てる他ありませんでした。望んでそうしているのではなく、泣く泣くやっていることなのですが、世間からは、口にするのもおぞましい存在でした。

彼女たちにとって、今泣いている人々は幸いである、神の国はあなたがたのものであると、ヨハネのような尊敬すべき宗教指導者から語られた言葉は、どんなに救いであったことでしょう。マタイは、祭司長たちよりも、娼婦たちのほうが、ヨハネが示した正義に忠実であったと記しています。そのことからも、ヨハネの周囲には、多くの娼婦が集まっており、預言者は彼女たちを蔑むことは決してなかったということです。

とかく、ヨハネは厳しい人物として描かれていますが、実は社会的弱者に対する眼差しは優しいものであったことを、マタイの異例の表現から知ることができます。
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(奨励)幼児洗礼で洗礼が形骸化してしまった中での堅信の学びの重要性 [奨励]

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2024年12月8日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書3章から抜粋された「悔い改めの洗礼の準備」についての御言葉です。

主イエスの公生涯の始まりの前に、洗礼者ヨハネの登場があります。もし、彼の活動がなく、悔い改めの洗礼がなかったら、キリスト教は、ごく限られた範囲にしか及ばなかった可能性が大いにあります。ルカのみが、引用されているイザヤ書の末尾に「人は皆、神の救いを見る」を加えているのは、その意図があるのです。また、イザヤ書で大事な言葉は、「主の道を備えよ」です。

洗礼や堅信の前に、使徒信経や主の祈り、十戒を学ぶのはそのためです。旧約聖書に始まるこの物語と福音書の末尾は、つながりがあります。こうあります、「私についてモーセの律法と預言の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」。詩編が出てくるのは、諸書の代表だからです。つまり、旧約聖書全体が真理であるということです。したがって、十戒を学ぶことは、とても重要なことです。特に、ロシアによるウクライナ侵攻の中にある現在、「殺してはならない」という戒めは現代的意義があります。

さて、「悔い改めの洗礼」とあることから、「幼児洗礼」の是非について、考えたいと思います。悔い改めとありますから、本来知性のある年代が洗礼の対象になります。しかし、旧約聖書では、割礼が契約のしるしとなっており、ユダヤ教では、生後八日目に割礼を施す慣例ができました。キリスト教もこれに倣ったものと言えます。しかし、前述の通り、信仰には準備が必要です。私は幼児洗礼の意義に重きを置きません。ここで、大事になってくるのが堅信であり、十戒を学ぶことです。

十戒はしてはならないことの羅列のようですが、実は自分を後回しにしなさいとの神の招きです。例えば、第一戒に「私の他に神々があってはならない」とありますが、これは他宗教の否定というよりも、自分を神にしてはならないということなのです。これは名誉欲と関係があります。例えば、会社の社長になったとして、机に自分の職名と氏名を刻んだネームプレートを置くのを見たことがあると思います。

これが、名誉欲の一つの例であり、刻んだ像というのは、ネームプレートのことなのです。それ自体は、悪いことではないことかもしれませんが、社長なき後に、誰がそれを引き継ぐかで、社内に骨肉の争いが生じれば、それは唯一神を否定し、偶像崇拝に陥っているということになります。したがって、十戒は自分のこととして捉えないと、単なる教条主義になります。このように、悔い改めの堅信(洗礼)のための学びは、幼児洗礼によって、洗礼が形骸化してしまった現代の教会で重要な位置を占めるのです。

つまり、洗礼者ヨハネではなく、「堅信者ヨハネ」なのです。
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