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キリスト教の祈りは商売繁盛ではないのはなぜか [説教]

以下は、小説『祈り』における、フィクションとしての「説教」です。

兄弟姉妹の皆さん、本日朗読されましたのは、ヨハネによる福音書15:1~8でしたが、9~17も朗読したいと思います。

そう言って、神父は1節から17節までを朗読した。

この中で中心になるのは、9節の「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい」であると私は考えます。

なぜなら、1節から8節までは、「私はまことのぶどうの木」、「私の父は農夫である」、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」、

「あなたがたが豊かに実を結び」に表されている通り、直喩で語られているからです。

直喩とは、喩えるものが「○〇のようだ」または「〇〇に似ている」ということを示しており、

例えば、「私は(あたかも)ぶどうの木(のようである)、あなたがたは(あたかも)その枝(のようである)」とすることで、

キリストと自分の関係を豊かにイメージするための手法なのです。

これに対し、隠喩又は暗喩というものがあります。

例えば、「豚に真珠を与えてはならない」という言葉がありますが、物の値打ちの分からない豚に高価な真珠を与えても無意味であるという解釈がある一方、

真理の価値が分からない人(豚のような人)に学問という装飾を施しても、相交差しないなどという、様々な解釈が成り立つものです。

さて、カネもうけに多大な関心を注ぐ私たちがいるのなら、「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」

という8節の言葉は、興味を起こします。

望むものを何でも願ったら、カネもうけも含まれるのか、キリスト教はそのようなことも祈願していいのか、という疑念が生じます。

ただし、「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば」という条件が付いています。

これは一言にすると、「キリストの愛にとどまる」ということを指します。

では、愛とは何でしょうか?

マルコによる福音書では、もっとも重要な言葉(掟)として、「神を全身全霊で愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」の二つであるキリストは述べています。

そして、後者はマザーテレサが端的に言っている通り、「愛することは赦すこと」です。

ここでまた、主の祈りの負い目の赦し合いの重要性を繰り返します。

最近、恩師と久しぶりに会いましたが、自己主張が激しく、精神的には30年前と何も変わっていないと落胆しました。

怒りがこみ上げ、飲酒しないと気分が悪くて仕方がないという状態まで追い詰められました。

転機は、自分にはまだ会うべき恩師がいるということに気付き、すぐにホテルを予約したということでした。

先の恩師のことを考えても、どうすることもできませんし、新しい出会いのことを考えれば、ワクワクするものがあります。

そして、いつの間に先の恩師のことは忘れる、すなわち赦せるのです。

これが、9節の「私の愛にとどまりなさい」の意味することであると思います。

こうして、でしたちに「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令が繰り返されます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありますが、「自分の命を捨てる」というのは比喩です。

これもまた、日常において、自分の憎しみを後回しにし、かわすことによって、友の負い目を赦すことなのです。

これは完全な和解を意味するとは限りません。

友の負い目を適当にかわすことだけで十分なのです。

また、本日朗読されたイザヤ書41:17~20についても考えてみましょう。

18節と19節は、直喩で描かれています。

19節の「私は荒れ野の中に杉やアカシヤ/ミルトスや松の木を植え/荒れ地に糸杉、にれ、つげの木を共に植える」

のとおり、福音書の「ぶどうの木」を連想させます。

しかし、そうするのは「主である私」であることを見逃してはなりません。

「荒れ野」とは、「苦しむ人や貧しい人」の渇きの喩えなのです。

再び福音書に戻りますと、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」というキリストの言葉が目に留まります。

そして、繰り返し「私の名によって願うなら、父がなんでも与えてくださるように」という言葉が出てきます。

この「何でも」というのは、キリストによる私の選びによるものであって、私がキリストを利用するということではないのです。

ですから、キリスト教の祈りは、商売繁盛などではないのです。

お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ、

あなたは、私たち一人ひとりを選んで愛の実践を求めておられます。

どうか、愛とは赦しであると体得して、赦しの行いを創意工夫することができますように。

そして、苦しむ人や貧しい人々の訴えをきき、

自分を後回しにして、悩む人々の癒し人となれますようにお導きください。

この祈りを私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。

アーメン

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私たちの名が主によって呼ばれているという祝福 [説教]

以下は、小説『祈り』における、フィクションとしての「説教」です。

兄弟姉妹の皆さん、本日朗読されました聖書のうち、ヨハネによる福音書10:1~10の二つの喩えのうち、一つ目の「羊の囲いのたとえ」(1~5)を取り上げたいと思います。

本文は以下の通りです。

①よくよく言っておく。

②羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。

③門から入る者が羊飼いである。

④門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。

⑤羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

⑥自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。

⑦羊はその声を知っているので、付いて行く。

⑧しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。

⑨その人の声を知らないからである。

①~⑨の中心は、単純に順番をたどると⑥です。

そこで、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」を主体に、そして私の体験を織り込んで、御一緒に考えていきたいと思います。

また、旧約聖書の朗読個所がネヘミヤ記9:6~15なので、この中心も9:7の

あなたこそ神である主。/あなたはアブラムを選び/カルデアのウルから導き出し/その名をアブラハムとされました。

と考えるので、共通するのは信仰者の名を呼ぶ神、キリストということになります。

さて、きのうは私の堅信記念日でした。

1996年のことですから27年間経過したことになります。

洗礼は、日本基督教団狛江教会においてでしたが、日本聖公会に移籍し、堅信を持ちまして正式に転入しました。

教名は、アタナシオですが、これは自ら選んだもので、373年に逝去したアレクサンドリアのアタナシオスにちなんだものです。

なぜ、聖公会などには教名があるのでしょうか?

それは、端的に言うと、信仰の始祖アブラハム以来の伝承であるからだと思います。

例えば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、‥‥アタナシオの神と言えるからです。

それが、およそどのくらいの期間、どの程度の世代なのか計算してみました。

イスラエル大使館のホームページによると、ユダヤ教の歴史は、およそ4000年であると記されてあります。

これは、旧約聖書を聖典とし、肉体的に割礼を施していませんが、「心に割礼を刻んでいるキリスト教徒」にとっても同じ歴史であると考えます。

それを前提にして、二十歳の男女夫妻に初子が恵まれ、これを一世代とすると、4000年間÷20歳=200、つまり現代は、およそ200世代目になります。

したがって、上記の通り、アブラハムの神は、この私に至ってアタナシオ浦川愼二の神でもあるのです。

そして、羊飼いであるイエス・キリストはきょうも、いえ堅信記念日を迎えたきょうこそ、「アタナシオ」と呼んでいるのです。

羊飼いは、自分の羊の名を呼んで囲いから出すと、先頭に立って導き出すとあります。

その目的は、羊に牧草を食べさせ、囲いに出入りさせることと、強盗から守ることです。

この牧草に当たるのが、聖餐式・ミサに相当する場合、

その中心は、感謝聖別祈祷又は奉献文です。

そして、中核は制定語というよりも、むしろ救済史にあります。

創造、受肉、死、復活、昇天、再臨がそれにあたります。

すると、順番として、復活が中心になり、そこからキリスト教信仰を肉づけるのが、適当ではないでしょうか。

墓に葬られて、イエス・キリストの遺体を探して途方に暮れていたマグダラのマリアに彼は呼びかけます。

「マリア」

すると、彼女はハッと気付いて、呼びかけている人が復活の主であることを悟りました。

そして、彼は彼女にキリストが復活したことをでしに告げよと命じます。

これは彼女を使徒、遣われた者に任命したことになります。

使徒が女性であれば、女性主教、女性司祭は肯定されることになります。

きょうもキリストは、私の名を呼び、罪の赦しへと招いてくださいます。

人の罪(負債)と私の罪(負債)の赦し、そして何よりそれらをはるかに上回る祝福。

その祝福があって、マリアは目が開かれたのです。

イエスを殺害した者たちへの憎しみ。

イエスを丁重に葬りたいと思って、駆け付けたのに、遺体が行方不明だという落胆。

園丁だとばかり思っていた人物が、自分の周りをウロウロしていることへの苛立ち。

これらのマイナス感情を相殺するに余りある祝福が、一言の呼び名で払拭、一変したのです。

「私の名前がキリストによって呼ばれている」

罪の赦しへと招いてくださり、先頭に立って導いてくださるところに、私たちの信仰を確かなものにしていく鍵があるのです。

思想・信条は大事であると思います。

しかし、それを優先しては、神の本質である赦しはあり得ません。

それは盗人または強盗に過ぎません。



お祈りします。

天におられる父よ、

あなたは、私たち一人ひとりの名を呼んで、養ってくださいます。

どうか、この復活節に、信仰を確かなものにしてください。

そして、人の負い目を自分の負い目より小さなものとし、

あなたの大いなる祝福を願う者とさせてくださいますように。

この祈りを私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。

アーメン

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キリストの恵みを慕い求める(Ⅰペト2:2)喜び [説教]

以下は、小説『祈り』における、フィクションとしての「説教」です。

兄弟姉妹の皆さん、本日朗読されました聖書のうち、ペトロの手紙一2:19~25の「奴隷に対する命令」(18節を含む)とキリストの模範を取り上げたいと思います。

朗読個所としては、「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、気難しい主人にも従いなさい」という18節が読み上げられませんでしたが、

19節以下は、これを前提としているので、無視することはできません。

朗読個所には、「苦痛」、「苦しみ」、「苦しみを受け」という言葉が三回繰り返されています。

ペトロの手紙一を通読しましても、これに類する言葉が全部で18回繰り返されています。

ただし、そのうち6回はキリストの苦難ですから注意しましょう。

今回の聖書の中心は、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたから」であると私は考えます。

したがって、人間が味わう苦痛や苦しみがメインではなく、キリストの苦難に倣いなさいという勧告ということになります。

しかし、冒頭申し上げた「奴隷に対する命令」、朗読個所の前に当たる「為政者に対する服従の求め」、「妻の夫に対する服従の求め」のような、

およそキリストの苦難とは無関係な命令が出てくるのは違和感があります。

なぜなら、支配者たちはこのような「聖句」を盾にして、黒人奴隷への差別や男女差別、政治的抑圧を自己正当化してきたからです。

では、キリストが味わってきた苦難とは何なのでしょうか?

一言にすれば、人をいかに赦すかということにあると思います。

論敵であったファリサイ派や律法学者たち、サドカイ派などの祭司たち、そして何よりも自らの「でし」たち、

彼らすべてを赦したのだから、全人類の救い主なのです。

赦すというと、主の祈りの「私たちが人の負い目を赦しましたように/私たちの負い目をお赦しください」が念頭に浮かびます。

ここで負い目と訳されている言葉は、「負債」であるとも翻訳できます。

つまり、罪の赦しとは金銭勘定でとらえた方が、楽であり、喜びであるというキリストの計らいなのです。

例えば、赦し難い何かが身の回りに起こったとしましょう。

それは苦しく、つらい体験だったとします。

しかし、一億円に相当する負債の赦し、すなわち借金免除・債権放棄をする見返りに、

神から百億円に相当するあなた自身の負い目が赦されるのだとしたら、皆さんは喜んで借金を免除するのではないでしょうか。

単純に考えれば、九十九億円の収益になるからです。

しかし、一億円は大金です。

これを失うのは、苦しくて仕方がありません。

だからなかなか手放せないのです。

では、キリストはなぜ、人類の罪を赦せるのでしょうか?

それは、死から復活して、天に昇り、父なる神と一つになれる・なっているという報いがあるからです。

ですから、私たちも金額にこだわるのではなく、天の王の王子にされること、王女にされることを慰めとして、喜んで人の負い目、罪を赦しましょう。

これが、きょうの箇所の「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うこと」なのです。

主の祈りにも「御心が天に行われる通り、地にも行われるように」とあります。

キリストの模範とは、実は昇天のことを念頭にすべきなのです。

さて、冒頭に奴隷に対する命令を看過してはならないと申し上げました。

曲解すれば、支配者たちの横暴も赦すべきではないかということになりかねません。

罪の赦しが差別を助長するのなら、それはキリスト教ではありません。

では、何を基準として、赦しを考えたらよいのでしょうか?

私は祝宴、パーティーを共にできるのかというところにあると思います。

我々が平等論者ならば、差別主義者と宴会を共にすることは難しいでしょう。

ですから、キリストの苦難を模範とするのなら、あえて批判する必要が出てきます。

皆が同じ祝宴につくのは、一層の辛抱と時間が必要です。

しかし、神が善であるように、私たちも善を求めて、キリストと共に苦しむのです。

きょうの箇所は、「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のもとへ立ち帰ったのです」と結んでいます。

始めに「召し使いたち」とあったのが、魂を有するすべての人に向けた喜びの知らせ、すなわち福音として語られるのです。

お祈りします。

天におられる父よ、

あなたは互いの負い目を赦し合い、差別をなくし、ともに祝宴を囲めるように招いてくださいます。

どうか、キリストの恵みを慕い求める(Ⅰペト2:2)喜びに引き入れてください。

(原文)

Give us grace to follow in his steps;

そして、罪赦された神の養子として、あなたの愛の内に歩めますように。

この祈りを私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。

アーメン
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仮想説教ステファノの殉教 [説教]

以下は、小説『祈り』における、フィクションとしての「説教」です。

兄弟姉妹の皆さん、本日朗読されました聖書のうち、使徒言行録のステファノの殉教を取り上げたいと思います。

全体は、四つに分かれています。

一つ目は、七人の執事の選出、

二つ目は、ステファノの説教 その一、

三つ目は、ステファノの説教 その二、

四つ目が殉教です。

二つ目のその一は、省略可能となっていますが、長文とはいえ、全部を朗読していただきました。

不思議なのは、使徒たちが聖書の言葉に専念したいとの理由で、執事たちを選任したというのに、使徒顔負けの説教をステファノがやってしまうという一種の皮肉となっている点です。

執事選出に当たって、霊と知恵に満たされた者が条件でしたから、ステファノの知恵は説教を語るのに十分な要件を満たしているのだとお考えになる方もいるかもしれません。

しかし、私の考えは別で、ステファノが宣べ伝えたのは、その二のみで、これだけでも石打の刑に処せられうる大胆な告発でした。

そのおおよその内容は、聖霊に逆らうユダヤ人は、預言者たちを打ち殺してきた、その中には洗礼者ヨハネも含まれますが、先祖たちばかりではなく、今のあなたたちユダヤ人もイエス・キリストを殺すに至ったというものです。

そして、ステファノは命を落とします。

絶命前に「イエスよ、私の霊を受けてください」と叫びます。

イエス・キリストは、死に、復活し、昇天した、贖い主であり、救い主であり、王であるから、神としてステファノは呼んでいるのです。

ルカによる福音書では、キリストも「父よ、私の霊をあなたの手に委ねます」と言って絶命していますから、子なるイエス・キリストと父なる神は一つなのです。

さて、説教のその一についてですが、これは一言で言うと、イスラエルの救済史の要約に当たります。

アブラハム、イサク、ヤコブの族長たち。

ヤコブの末息子ヨセフのエジプトでの活躍。

ヤコブとその子どもたちのエジプト避難。

モーセのエジプトでの働き。

ヨシュアらによる約束の地への移住。

ダビデ王の即位。

この中で中心となるのは、意外なことにモーセのエジプト人殺しと、ヘブライ人の仲裁の失敗です。

その一の説教は、先に申し上げた通り、聖書の言葉に仕える使徒たちがまとめたと考えたらつじつまが合いますが、

その中で、モーセの汚点とも言える欠点を要約したのはなぜでしょうか。

それは、使徒たちの働きが、民衆への宣教であり、摩擦の回避であったからだと思います。

エルサレムにおける教会は、まだ萌芽したばかりの小さな群れです。

そこで大事なのは、対内的にも対外的にも和解をもたらすことが重要だったのです。

いいえ、これは現代でも同じことです。

最後に、この物語においてサウロという人物が初めて登場します。

後の使徒パウロのことです。

パウロは、偽証人の上着を預かった、つまり彼らがステファノに石を投げやすい格好をするには上着が邪魔だったということですが、殺害に加担していることを描いているのです。

先のモーセの汚点と同様、使徒パウロの後ろ暗さも、聖書は描いているのは注目に値します。

ステファノが殉教して表舞台から去り、パウロが交代するように姿を現します。

ステファノが異邦人キリスト教徒だったのに対し、パウロは異邦人ユダヤ教徒であって、後の物語で劇的に改心します。

私たちがきょう学びたいのは、新しいことをすることに臆してはならないということです。

会社や学校などでは新しい年度になり、挑戦したいことがたくさん出てきていると思います。

しかし、やってみると、難しい、続かない、お金がないなどの困難が生じ始め、座礁してしまうことがあります。

そういう時には、ステファノの第二の説教、短いけれど臆することのない強烈な心を思い出してください。

そして、何度も、何度も挑戦してください。

挫折しても挫折しても、追いかければよいのです。

お祈りします。

復活の主よ、

あなたはキリストの弟子たちに、臆することのない生き生きとした希望を与えてくださいます。

(原文)

Risen Christ,

you filled your disciples with boldness and fresh hope;

どうか、この春に歩み始めた私たちが、その歩みにつまずいている時も、あなたの優しい翼のもとで守ってください。

そして、折が来たら、翼から出て、周囲の人を勇気づけることができますように。

この祈りを私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。

アーメン

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キリストの復活に鼓舞されて単純素朴な生き方に招かれる祈り [小説]

四月二十五日火曜日

午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。

「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」

神父は答えた。

「そうしましょう。

「今日は、『誘惑に陥らせないでください/悪からお救いください』についてイメージを膨らませましょう。

では、テーマを明らかにするために漢字の成り立ちや意味については、順不同に解説することにします」

「分かりました」

「陥らせないでくださいの中には、否定詞『不』が含まれているので、これも入れましょう。

これは、元来たっぷりと膨らんだ花のガクの象形文字です」

「それは、知りませんでした。なぜ、否定詞になったのでしょうか?」

「不と否が似ているように、両者には共通の音があり、次第に『不』の元の意味が失われて、両方とも否定詞になったのです」

「花のガクの象形を持ってきた理由は何ですか?」

「私は、花と言うと、マタイによる福音書の山上の説教にある、次の言葉を想い起します。

まきもせず、紡ぎもせず、野の花(ユリ)がどのように育つかをみよ。

栄華を極めたソロモン王(紀元前一千年頃)さえ、これほどに着飾っていなかった」

「ソロモン王の時にエルサレム神殿は完成したはずでしたね。

それ以上に野の花は精緻であると」

「その通りです。

百合のような球根の花は、何も手を加えないでも、いつの間か茎をのばし、葉を広げ、つぼみを付けて花を咲かせます。

このことをよく観察すると、神の偉大な業に比べると、

人為的な着飾りや経済的な繁栄というものに思い煩うのが、非常に小さいことに気付きます。

実際、ソロモン王の死後、統一されていたイスラエル王国は、南北に分裂してしまいました」

「ダビデ王が偉大な政治家でありましたが、それは二代続いただけだったのですね」

「その通りです。

また、陥とは、土の穴に落ちるという意味であり、惑とは心が狭い枠に囲まれるということを示していますから、歴史はそのことを指しています。

このようなことからもキリストは、素朴な生き方を選びなさいと推奨しているのです。

また、悪とは、押し下げられて心がくぼむという意味があります。

狭い枠の中に落ちるという意味では、陥や惑と共通するところがありますが、

旧約聖書における、悪とは典型的な例として、賄賂があります。

その中でも、賄賂による不正な裁判が最悪と言えるでしょう。

道義上、正義なのに、カネによって判決が覆される。

そのため、金持ちが優遇され、貧しいものが不当な思いをする。

このような正義(ヘブライ語でツェーダカ―)を踏みにじる行為を預言者たちは告発しています。

告発されているということは、逆に言えば、蔓延していたということです。

古今東西共通する悪と言えます」

「政治家の汚職は後を絶ちませんよね。

東京五輪・パラリンピックのことについても大きな問題となっています」

「そうですね。

救は、引き締めて食い止めることを表していますから、悪の反対で、正義を行うことになります。

これは、孤児の保護のところで指摘したとおり、社会的弱者に目を留め、救いの手を差し伸べることです。

誘は、自分が先に立って、後に続く人を言葉で取り込むことを表しています。

良い意味もありますし、悪い意味もあるのでしょう」

「社会的弱者の保護補強を誘引するのならよいのですが」

「その通りです。

補強と言えば、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。

「キリストの復活の命を証しする勇気を与えてください(意訳)。

原文は、Strengthen us to proclaim your risen life.です。

キリストの命を証しするとは、自分がキリスト教徒であることをカミングアウトすることという意味より、

花の生態を観察することによって得られるものとして、単純で素朴、かつ思い煩うことがないという率直な生き方を選ぶということにあります。

しかし、これとは逆の誘惑も多いことが現実です。

そのような時、復活の主が『思い煩うな』と言ってきかせているように、私たちの限界を補う意味で、力づけをしてくださいます。

古い生き方を脱ぎ捨て、新しい生き方を選ぶとき、私たちは復活のキリストを着ているのです」

「個人的にも社会的にも正義を貫く勇気が私たちに求められており、復活の主は支援してくださるのですね」

身体介護も自分でできることは自分でしないと、支援者に依存し、体力を失うことにつながるが、

精神的なことも、自分で考えるべきところは自分でカバーし、不足するところは助けてもらうことが大事だと悠人は思った。

「私から、お祈りさせてもらってもよろしいでしょうか?」

「もちろんです。

お願いします」

「天におられる私たちの父よ。

あなたは独り子を通して、知恵と思慮を与えてくださいます。

主の祈りの学びを通して多くの恵みをいただき感謝します。

どうか、悪に染まることなく、あなたの正義の道を歩ませてください。

正野神父の健康が守られますように。

この願い、主イエス・キリストによってお願いします。

アーメン」

主の祈りの一連の学びが終わり、悠人は満足して帰って行った。
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キリストの愛の中で私たちを新しい命へと育む祈り [小説]

四月二十四日月曜日

午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。

「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」

神父は答えた。

「そうしましょう。

今日は、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください/私たちが人の罪を赦したように私たちの罪をお赦しください』についてイメージを膨らませましょう。

「では、テーマを明らかにするために漢字の成り立ちや意味については、順不同に解説することにします」

「分かりました」

「『人』は、元来身近な同族や隣人仲間を指していましたが、仁という漢字とも同系で、これは儒教の最高の徳を表しています。

漢和字典では、『孔子は、その範囲を「四海同胞」というところまで拡大し、広く隣人愛の心を仁(ヒューマニズム)と名づけた』と解説しています。

この範囲は、こんにち人類・地球規模になっており、環境問題、食糧問題、人口問題などを世界で共有しています。

隣人愛については、マルコによる福音書で、もっとも重要な掟(言葉)として物語化されています。

ある律法学者が、(旧約)聖書の中で何が生活の根幹をなしているのか、主イエスに質問しました。

これに対し主イエスは、

神を全身全霊で愛すること

隣人を自分だと思って愛すること

だと答えました。

律法学者は、その見事な応答に感服、同意し、これらはあらゆる供え物や生贄にまさると答えました。

ただし、この二つの言葉は車の両輪のようなもので、神を愛することは、すなわち隣人を愛すること、逆もまたしかりなのです。

それを日々の生活の中で実践していくことが重要であって、観念の世界ではないことに注意を払うことが必要です」

「レジ袋が有料化になりました。

これも環境問題から派生した生活の実践であり、私たちは神との関連の中で意識しているのですね」

「その通りです。

次に与とは、実は二人が両手で一緒に物を持ち上げるという意味なのです。

もともとは、與という文字で、これを簡略化したものです。

イメージとして、米俵を二人で抱えることを想像してみましょう。

糧とは重さや分量を量って用いる主食・米ですから、これが適切であると思います。

つまり、与えるというのは、上の立場の人が下の立場の人に与えるというよりも、

漢字の世界観では対等な二人の共同作業であることがうかがえます。

先程の隣人愛と重なると思いませんか?」

「隣人を自分自身だとイメージして、その人を愛する」

「その通りです。

次に罪とは、悪事のために法の網にかかった人という意味があります。

しかし、これは犯罪者のことを言っているので、私たちが呼んでいる罪は道義的なものです。

そして、これは自己中心に凝り固まった、心のとげであり、憎しみがその代表であるとも言えます」

「ヘイト・スピーチやSNS上の誹謗中傷が問題になっていますね」

「そうです。

そのようなものから解き放たれるのが赦しです。

赦は、ゆるむ、伸びる、解き放つことを表しています。

以前、罪を負債ととらえて、数値化する喩えを述べましたが、憶えていますか?」

「はい。

赦しがたい相手に百万円の貸しがあったとして、それを帳消しにしたら、

神から一億円に相当する自分の負債を赦される、トータルで九千九百万円の利益が出る、

そう考えるのなら、赦しがたい相手や事柄も、ハードルが下がるということでしたね」

「その通りです。

きょう、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。

「キリストの愛の中で、私たちを新しい命へと育んでください(意訳)。

原文は、Raise us to new life in your loveです。

新しい命というのは、個人的な面もあるのでしょうが、基本的には対人関係におけるものです。

相手をまず赦せば、それは神への愛と重なります。

神は赦した人を愛して、大きな喜びが与え、憎しみから解き放ちます。

それがキリストからいただいている教育なのです。

キリストが赦すという模範を示されたから、それに倣う愛の実践ができるのです」

「憎しみを抱いて、心のとげが生じてもそれを乗り越える希望があるのですね」

「その通りです。

さらに、日とは、人に寄り添った温かさを与えることを表しています。

毎は、次々と生じる事物を一つひとつ繰り返すという意味があります。

一人ひとり、一つひとつのことを欲張りせず、毎日の目標に邁進していく、これが教育の要です。

今とは、逃すことなくとらえた時間のことを示していますが、物事には決定的な時というものがあります。

赦すべき時に赦さなければ、憎しみのとげは人々を苦しめるでしょう」

「時宜を捕えて、着実に継続していく、これがキリストから与えられている教育であり、訓練なのですね」

そう言って、悠人はこれまで受けた学校教育のことを思って、帰って行った。
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地球規模のことも含めた心の目を開く信仰と祈り [小説]

四月二十三日復活節第三主日

午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。

「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」

神父は答えた。

「そうしましょう。

今日は、『御国が来ますように/御心が天に行われる通り地にも行われますように』についてイメージを膨らませましょう。

「まず、漢字を確認します。

御とは、凸凹をならして平らにすることを表しています。

国は、國とも書き、一定区域を統治するという意味があります」

「御には、そういう意味があるのですか。

デコボコというと、洗礼者ヨハネの登場を想い起しますが」

「そうですね。

この漢字は、敬意を表すものですが、元の意味をたどっていくと、面白い発見になるかもしれませんね。

御国の到来は、いきなり出現するのではありますが、心の備えというのが大事です。

きのう、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。

「私たちの信仰の視界を広げてください(意訳)。

原文は、Open the eyes of our faithです。

宗教というと、内面の問題とばかり受け止められがちですが、きのうの孤児のことのように、社会的なテーマも含まれています。

洗礼者ヨハネの登場もその文脈で考えるべきです。

ルカによる福音書には、ヨハネのもとに軍人や徴税人が来訪していたことが描かれています。

彼らは、恫喝やごまかしによって、金を搾取していた背景がありました」

「個人の魂の救済ばかりでなく、社会正義の問題にも目を向けるべきだということですね」

「その通りです。

続けて、来とは元は小麦のことを表す象形文字です。

古代中国に周という國があったのですが、私の使っている漢和辞典(藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社)によると、

『西北中国に定着した周の人たちは、中央アジアから小麦の種が到来してから勃興したので、神のもたらした結構な穀物だと信じて大切にした』とあります。

小麦というと、小麦粉で作るパンのことが思い浮かびますね。

ルカによる福音書にはこんな喩えがあります。

真夜中に隣の家の人が訪ねてきました。

来客があり、接待したいのでパンを三つ貸してほしいというのです。

しかし、当人としては子どもも眠っているし、無理だと断るのですが、隣人はしつこくお願いします。

根負けして、パンを提供したという喩えです」

「新しい穀物は、国のありようを変えるのですね。

日本も稲作が始まって、弥生時代になりました。

その喩えと周時代の小麦とのつながりは何ですか?」

「周の人たちが、小麦は神のもたらした穀物だと認識していたことにあります。

喩えで言っているパンは聖霊のことであることが、最後まで読むと分かります。

その意味で喩えと言えるのか判別しにくいのですが、父親だったら子どもがパンを欲しがっているのに石を与えるであろうかという反語が出てきます。

執拗に願えば、神はよいもの、大切にしたい聖霊を与えてくださるのです。

それが御国の到来であり、繰り返し祈ることが求められているのです。

先程の信仰の視野を広げてほしいという祈りに表れていますが、聖霊の働きとはそういうことも含まれているのです」

「父親が、子どもにパンではなく石を与えることは考えられないように、父なる神は聖霊を送ると」

「では先に進めて。

心とは、心臓の象形文字で血液を血管のすみずみまで行き渡らせる心臓の働きのことを示しています。

行とは、直進をなして進むという意味です。

また、〇〇しますようにという言葉は、文語にすると『請い願い奉る』とありますから、

請と願も調べてみました。

請とは、澄んだ目をまともに向けて応対することという意味があります。

願は、生真面目に考えることを表しています」

「まじめな人の眼差しと言ったところでしょうか?」

「その通りですね。

そのような人は、人の機微をよく読み、丁寧に接する誠実な人なのでしょう。

御心が天に行われる通り地にも行われますようにという祈りは、小さな事ばかりではなく、

地球規模のことも視野に入れなくてはならない時代になってきました。

ますます、心の目をよく開く信仰が求められているのです」

「心の目ですか。

きょうも有難うございました」

そう言って、悠人は明日からの生活を思った。
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神の存在は社会的弱者を保護することの必要性を訴えている [小説]

四月二十二日土曜日

午後二時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。

「きょうから主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」

神父は答えた。

「そうしましょう。

今日は、『天におられる私達の父よ/御名が聖とされますように』についてイメージを膨らませましょう。

「まず、漢字を確認します。

天とは、高く平らに広がるさまを表しています。

次に『おられる』を存在するという漢字に置き換えてみます。

存の中には、『子』という文字がありますが、これは孤児を意味しており、彼らをいたわり落ち着けるのがその意味であるとのことです。

在は、土でふさいで水流を切り止め、進行を防ぐという意味があります」

「神は孤児ではありませんから、父の保護の対象が孤児だという考えですか?」

「その通りです。

また、これは単なる理念ではなく、具体的に聖書の中で規定されてあることです。

申命記には次の言葉があります。

「あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。

だから寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(10:17~19)

孤児と寡婦、寄留者は社会的弱者であり、かつての自分たちが寄留者出身であったのだから、衣類や食料、住居などの生活支援を行うべきであるとの命令です。

現代では、これらに加えて教育の充実が求められます。

水流の進行を防ぐということの中に、社会的偏見や差別から、孤児などを守っていく努力が必要であるということでしょう」

「『偉大で畏るべき神』というところに、父という語感がぴったりだと思いますが」

「父とは、手に斧をもって何かを打っているという成り立ちがあります。

外敵から家族を守るという意味では、肯定的な意味となるでしょう。

父なる神とは、傲慢なものを挫き、弱者を助ける力強い存在なのです。

私とは、収穫物を細分化して、自分の分だけ抱え込むという意味があります。

また、達には羊の出産のようにすらすらと通すという意味が元々ですから、

孤児が社会的支援を受けて自立し、スムーズに社会で活躍していくというメッセージとも言えます」

「面白いですね。

では、『御名が聖とされますように』の漢字には、どのような成り立ちがあるのですか?

名とは、薄暗い闇の中で自分の存在を声で告げるという意味があり、

聖もまた、率直に口頭で述べるという意味がありますから、

孤児が、教育的支援を得て、自分の意見を持てるように成長していく意味合いが出てくるのではないでしょうか」

「確か、神の子とされるというのは神の養子とされるというのが適切でありましたね」

「孤児の中には養子縁組されるケースもあるでしょう。

しかし、神の養子にされるというのは、本来罪人であったこの私がキリストの贖いによって解放されたという喜びの大きさが含まれています。

また、ガラテヤの信徒への手紙における『共同の相続人』とは、

私たちもまた、独り子であるイエス・キリストと同等の愛を受けることができるという感謝の念が込められていると言えましょう。

その意味で、先程の偏り見ることのない神という表現にあったように、孤児であってもそうでなくとも、神は等しく愛を注がれる慈しみ深い方なのです」

「分かりました。

主の祈りから、孤児の社会的保護のことが出てくるとは思いませんでした」

「では、最後に祈りましょう。

いと高きところにおられる父よ。

あなたは、身寄りのない孤児や寡婦などに適切な支援をするように

私たちを導いてくださいます。

どうか、彼らのことも意識の外に置くことなく、

尊厳と自立が発揮されるように祈り願うものとさせてください。

あなたの独り子イエス・キリストのみ名によって祈ります。

アーメン」

悠人は、自分を取り巻く社会の問題を発見した思いで帰路について行った。

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主の祈りには誘惑や悪をたしなめる警句がある [小説]

四月二十一日金曜日

午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。

お茶を飲んで談笑していたが、悠人が尋ねた。

「きょうは、主の祈りの『誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい』という祈りの結びになりますね。

神父は、悠人の目を見て、微笑んだ。

「以前描いた、主の祈りのパートをみてみましょう」

そう言って、ホワイトボードの文と番号を指さした。

「天におられるわたしたちの父よ(第一パート)
み名が聖とされますように(第一パート)
み国が来ますように(第二パート)
み心が天に行われるとおり/地にも行われますように(第二パート)
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください(第三パート)
わたしたちの罪をおゆるしください/わたしたちも人をゆるします(第三パート)
わたしたちを誘惑におちいらせず(第四パート)
悪からお救いください(第四パート)

きょうは、第四パートに係ることです。

この問題も、罪の赦しとのつながりで、考察するのが適当でしょう。

考え方としては次の通りとなります。

A私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
B私たちが人の負い目を赦したように/私たちの負い目もお赦しください
C私たちを誘惑に陥らせないでください/悪からお救い下さい

Bを軸にして、Aという正の方向を奨励し、Cという負の方向を遠ざけよという構造となっています」

「私たちがもし百万円の負債を赦す度量があったとすれば、早晩九千九百万円の収入が入ってくるという、あの負い目の赦しの秘訣ですね」

「その通りです。

神の国の喩えとして、こんな喩えがマタイによる福音書にはあります。

ある王が重臣を持っていたのですが、彼のせいで国の損失一億円を出してしまいました。

しかし、王はその負債を全額免除しました。

ところが、この重臣は一万円の貸しのある他の家臣を捕えて、返済を求め、応じないと懲らしめる始末でした。

これをきいた王は、激怒し、重臣を牢に入れました。

王が巨額の債務を棒引きしたように、重臣もまた、家来の少額の借金を免除すべきだったという喩えです」

「けしからんやつですね、その重臣は」

「しかし、恩を仇で返すという言葉があるように、我が身が受けてきたことへの感謝を忘れて、

相手の欠点をほじくり返すというのが、私たちの日常ではないでしょうか?」

「う~ん、そうですね。

親に対しては大いにありうることだと思います。

親が赦してくれたように、自分も親や相手を赦さないといけないのですね」

「そういう意味で、悪からお救い下さいや誘惑に陥らせないでくださいは、これらを禁じる意味が強いのです。

また、すぐに祈りをあきらめる誘惑を諫める内容となっています」

「神父、どうも有難うございました。

主の祈りを漢字を使って、読み込む学びを続けますか?」

「やりましょう。

何かの発見につながればよいですね。

ではお祈りします。

恵み深い父なる神

あなたはみ名によって私たちを神の養子としてくださいます。

しかし、これ幸いあなたへの祈りを怠り、すぐにあきらめてしまう私たちの現実があります。

どうか聖霊を降し、御国の誉れを表す者とならせてください。

家族にあっても、赦し赦される関係が築けますように。

ことに、川崎悠人さんのご家族の内に、祝福が豊かにありますように。

悪を遠ざけ、誘惑に負けないように見守ってください。

この願いを尊き主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン」

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主の祈りには罪の赦しを好循環させる連鎖がある [小説]

四月二十日木曜日

午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。

お茶を飲んで談笑していたが、悠人が尋ねた。

「きのうの負い目の赦しについて考えてみましたが、日曜日の聖餐式で朗読された福音書の言葉が気にかかりました」

そう言って、悠人は聖書を取り出した。

「読み上げます。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。
そう言って、手と脇腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。
『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。
誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』
(聖書協会『聖書 共同訳』ヨハネによる福音書20:19~23)

『誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される』というのは、赦しがキリストから弟子に託されたという意味で分かったとしても、

『誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』というのは横暴ではありませんか?」

神父は、腕を組みしばらく沈黙した。

「以前描いた、主の祈りのパートをみてみましょう」

きのうは、負い目の赦しのことをお話ししましたね。

私たちが人の負い目を赦したように

私たちの負い目をお赦しください

このことをもう一度踏まえたうえで、まず『誰でも』というのは、『押しなべて』という意味ではなく、具体化するというのが大事なことです。

例えば、

弟子であるあなたがたが、Aの罪(負い目)を赦したとしたら、

あなた方の罪は赦される。

AがBの罪を赦したとしたら、

Aは赦される。

よって、でしたちが、Aの罪(負い目)を赦したとしたら、Aは赦される。(ただし、AがBの罪を赦すのが条件)

BがCの・・・・・・・・(連鎖)

これに対し、

弟子であるあなたがたが、Aの罪(負い目)を赦さないとしたら、

弟子の罪も赦されない。

弟子には『課題として』残る。

『Aの罪をあなたがたが赦さなければ、『それは』赦されないまま、つまりAの罪を赦すことについて「課題が」残る』ということを言っているのです。

つまり、この箇所は弟子(使徒)たちの権威の横暴を謳っているのではなく、秩序のことを言っているのです」

「弟子が、Aを赦さないとしたら、弟子も赦されない。

Aを赦すことについて、課題が残るということですね」

「人は誰でも不利益になることは始めようとしません。

だから、イエス・キリストの贖いは尊いのです。

ご自分から肉体を死に引き渡し、父なる神に復活させられて、裏切って逃走した弟子たちの負い目を赦しました。

負い目を赦したことを『平和』と呼んでいるのです。

平和の連鎖を私たちの真の願いとしなくてはなりません」

「人々が他者の欠点を大目に見れば、そこには平和の連鎖が訪れるのですね」

そう言って、得心したように悠人は帰って行った。
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