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(説教)肉体性が聖霊に変容する時 [説教]

次の日曜日は、日本聖公会で「主イエス変容の日」と呼ばれ、主日に優先される祝日となっていますが、ルカによる福音書の9章から抜粋して、この物語が朗読されます。その概略は、次の通りです。

主イエスは、ペトロとヤコブ、ヨハネだけを連れて、祈るためにある山に登って行きました。すると、栄光に輝いたモーセとエリヤが顕れ、イエスの顔も栄光を放っていました。もちろん、弟子たちはモーセやエリヤの姿かたちを知らないのですから、これは事実ではなく寓話です。そして、三人は主イエスの最後について、話し合っていました。その間、ペトロと仲間たちは、眠ってしまって、目が覚めると、ペトロが「私たちがここにいることは素晴らしいことです。三人のために仮小屋を作りましょう」と提案します。すると、二人は消えてしまい、主イエスのみが立っていました。そして、雲の中からこうきこえました、「これは私の息子、私が選んだ者、これにきけ」。ペトロたちは、怖くて、この出来事を誰にも話しませんでした。

この物語の焦点を、ペトロが提案した、主イエスとモーセ、エリヤのための各自三つの仮小屋についてとしたいと思います。仮小屋とは、英語で言いますとテントです。遊牧民は、定住せず、各地でテントを張り、生活します。古代イスラエルでも羊などを放牧するために仮小屋を作っていました。また、出エジプト後の荒れ野の四十年は、まさにテントによる放浪でした。ここに、出エジプトの指導者であり預言者であるモーセの存在と物語での登場が描かれています。

さて、ヨハネによる福音書に「御言葉は人となり、私たちの間に住まわれた」という御言葉がありますが、「住まわれた」は直訳すると、「テント(仮小屋又は天幕)を張った」となります。したがって、ペトロがテント張りに言及したのは、あながち間違いではなく、この素晴らしい情景をみて、三人と留まっていたい、宣教の旅を続けたいという態度と言ってよいでしょう。しかし、二人の預言者は、死者ですから消えて居なくなりました。特に、エリヤについては、列王記下においても、弟子であるエリシャの前で昇天していくという記事があり、他の預言者には見られない特徴があります。ちなみに、この変容物語の前に、主イエスが、弟子たちに対し「あなたたちは自分のことを何者だと思っているのか?」という質問をしますが、人々の噂として、「エリヤの再来であると言う者もいます」と答える者がいます。それだけエリヤは尊敬されたのであり、イエスの処刑の時も兵士が主イエスの絶命の言葉についてエリヤを呼んでいると勘違いするくらいです。

ここで、話の焦点をテントの開設からエリヤの昇天に移したいと思います。エリヤは、弟子たちや民間の人々から偉大なる預言者として尊敬されていました。それだけ彼の語る言葉には力強さがあり、到底思い付きでものを言っているわけではないと人々が思っていたからでしょう。何より、一番弟子のエリシャが、昇天前のエリヤにあなたの二倍の霊の力をくださいと懇願する程でした。霊の力とは、すなわち御言葉です。冒頭、御言葉は人となり、私たちの間に天幕を張ったと申し上げましたが、御言葉とは、すなわち聖霊なのです。主イエスとは、御言葉である神が、自分の息子として、人間と同じ形にして、私たちの間に一時的な滞在をする真の神であり、真の人だったのです。

モーセとエリヤ、主イエスが話していたのは、主イエスの「最後」のことについてでした。別訳では「最期」というように、絶命のこととして考える解釈がありますが、私は昇天を最後の出来事であると捉えています。教会教父のアタナシオスやアウグスチヌスは、「神が受肉されたのは、人を神にするためであった」と明快に解説しています。つまり、御言葉は人となり私たちの間に天幕を張ったという神の最初の行為は、私たちを神(の子)にするために最後の行為として、昇天させるということで完結します。私はこれを、「肉体はロゴス(聖霊)となり、父の元へ昇り帰還させる」というキリストの昇天と私たち一人ひとりの昇天とを重ねて黙想しています。受肉の旅は、昇天によって最後となり、そのことを三人は話し合っていたのではないでしょうか。

最後に、ペトロの提案は心情的には純粋であったものの、このような昇天の理解によれば、三人の昇天を否定することになります。私たちの人間的な思いは、ペトロに代表されますが、私たちが神の子とされる昇天の意義を一層深める招きがあります。フランスにある超教派の男子修道会テゼの、あるブラザーは、「短く読み、ゆっくり考える」ことを座右の銘にしていると言います。奇跡物語では、癒された人々に対し、群衆へ言いふらしてはならないという沈黙命令があり、ペトロたちはこれに従って沈黙した、あるいは彼らは怖くて沈黙したという意味でもあったのかもしれません。しかし、沈黙するということは、じっくり考えていくという、積極的な備えの面もあります。このことを心に刻んで、説教の結びとしたいと思います。

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(説教)私を「良い真珠」として見つけ出したときイエス・キリストを償いとする神 [説教]

本日、日本聖公会で読まれましたマタイによる福音書13章は、「からし種の喩え」、「パン種の喩え」、「宝の喩え」、「良い真珠の喩え」などについて語られているものです。

まず、「喩え」とはどんな特色があるのでしょうか。そして、なぜイエス・キリストは群衆に対して喩えを用いて語っていたのでしょうか。

マタイが好んで使う「天の国」とは、死んだ後の世界ではなく、今地上で出現する「神の国」のことです。あるいは、「神の支配」とも言います。主の祈りに「御国が来ますように」という一節がありますが、これとは正反対のことを祈っているのが、実は私たちの本音と言えます。つまり、この私独りこそ、家族の中で一番偉い者、この私社長こそ、会社で一番偉い者、それを維持し、縄張りを拡張していくのが支配欲の実際ではないでしょうか。今、中古車買い取りと販売を行っているビッグモーターという会社の不正が報じられています。あれ程卑怯な経営陣ではなくても、私たちにもどこかの単位で独裁者になりたいという欲求は内在しているのです。

これに対し、イエスをキリストとする、イエスを王とする、真の支配者とするというのが、神の国、神の支配です。

したがって、本音としての私が支配者であると思っていながら、いや違います、イエスこそが王なのですと言われると、心穏やかにはなりません。直接こう指摘されるよりも、喩えであれこれ考える方がかえって考えが深まる、こういう意図もイエス・キリストにはあったのではないでしょうか。そのため、群衆は教養がなかったから、喩えを採用したのだ、喩えは生活に密着しているから想像しやすいのだというのは、そういう面もあったとは思いますが、喩えで神の国を語る一番の意図は、支配欲から生じているのだということを指摘したいと思います。

では、喩えの本体を振り返ってみましょう。冒頭に挙げました四つの喩えには基本パターンがあります。まず、原始又は主語が明示されていることです。
からし種では人、パン種では女性、宝でも人、良い真珠では商人
次に何をどうしているのかということです。
からし種では種を取って、蒔く。パン種では種を取って、小麦粉に混ぜる。
宝では宝を見つけて隠す。良い真珠でも発見して売り物に出かける。
次に種はどうなっていくのかについてです。
からし種はこの世で一番小さい種だとされていたのに、ぐんぐん伸びて枝を張り、木になって、鳥が巣を作るほどになるといいます。
パン種を入れた小麦粉は、やがて全体が膨らむとあります。しかし、三サトンの小麦粉(一サトン約12.8リットルで1リットル当たり900gとする)という単位は、6枚切り食パン(一斤:約240gの小麦粉を必要とする)にすると、およそ150袋分に膨れるという試算になります。
宝では人が発見した喜びのあまり、市場に行って自分の持ち物をすっかり売り払って換金します。そして、宝を隠しておいた畑ごと購入します。
良い真珠でも商人は換金して、この質の良い高価な真珠を買います。
いずれの話も、かなりオーバーで、現実的な人にはつまらない話かもしれません。むしろ、先ほど言った支配欲の強い人には、興味深い喩えに聞こえるのかもしれないでしょう。

最後に時間についてです。からし種では種から大きな木になるまで、おそらく10年前後の時間がかかると想定しましょう。パン種でも約13リットルもの小麦粉なのだから、それをパン種で均一に混ぜるというのは相当な労力と時間がかかります。それを一人の女性がするのです。宝も良い真珠もそれを見つけるには、約束された期間というのはありません。一生に一回というチャンスとして語られているのでしょう。しかし、これこそ四つの喩えを解く鍵があると言えます。神の国は、いつ来るか定めがある訳ではありませんし、気が遠いほどの時間を想定したスケールがあるのだということです。

では、元に戻って、原始となった主人公とは誰なのかということです。人だったり、女性だったり、商人だったりしました。実は彼らはすべて、神のことを言っているのです。神が行い、神が主人公なのです。では、からし種などは何なのか。これは聖霊なのです。10年前後かかってでも私たち一人ひとりの信仰を成長させてくださる聖霊の導き、これが神の忍耐であり、祝福となっていきます。祝福とは、私たちの存在が神によって、聖霊を通して、イエス・キリストの粘り強い執り成しによって、「良い」と言われることです。喩えの最後に良い真珠が出てくるのは、そのことと符合するのでしょう。しかし、何という恵みでしょうか。イエス・キリストが私を宝として、良い真珠として見つけ出してくださったとき、喜びのあまり、全財産を換金してくださるのです。ここに、主イエスの十字架の死という犠牲が隠されていると私は考えます。私たちを大きく祝福するために、神はその独り息子さえ惜しまなかったのです。

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(説教)見せかけの成果に引きずられる愚かな「でし」 [説教]

きょう、聖公会で朗読する福音書は、「種蒔きの喩え」と呼ばれている箇所です。後段の「喩えを用いる理由」は、あたかもキリストが「聴衆」を蔑視して、喩えを用いたかの「説明」となっていますが、そもそもキリストは群集に「多くのことを」喩えを用いて語っていました。説教のような平叙文ではなかったのは、群集を愛することを動機として、喩えの方が「適切」であるとキリスト自身が判断していたはずです。
さて、喩えの本体は、おおよそ次のようなものです。種を蒔く人がやって来て、当時の種蒔きがそうであったように、ばら撒きました。あるものは道端に落ち、鳥が食べてしまいました。あるものは石だらけのところに落ち、結局焼けて無くなってしまいました。あるものは茨に塞がれ、実を結びませんでした。あるものは「良い」土壌に落ち、多くの実を結びました、という喩えです。
マルコによる福音書には、喩えの解釈が掲載されてありますが、私にはその内容は「優生思想」的な発想があり、福音とは受け取れないのではないかと悩んできました。すなわち、種とはみ言葉であり、それを受け取る能力にしたがって、実=祝福は大きいというものです。きょう、教会に向かう車中、ひらめきが与えられました。それは、マルコの優生思想を根底からくつがえすものです。
それは、何倍もの実を結んだ事例は、キリストの関心外であるとのベースから解釈するものです。むしろ、鳥についばまれてしまった種、焼け滅んでしまった種、茨に邪魔されてしまった種の方にこそ、キリストの関心と愛は注がれていると解釈する方が、福音であると考えます。
では、「種」とは何を描こうとしているのでしょうか。思いつくのは、それが「命の原始」であるということです。幼くして、ヘロデ大王から虐殺されたおびただしい男の嬰児の物語がマタイの冒頭にあります。鳥に食べられる種とは、このような存在を指すのではないでしょうか?石の上で焼き滅びる種も同様で、土が浅いから芽を出すが、根も浅いので、実を結びません。これは、嬰児ではないものの、若くして虐待されつつ死んだ若者を想起します。最後に種の成長を妨げた茨ですが、処刑されるキリストが無理やりかぶらされた茨の冠を惹起します。処刑される人の肉体的苦痛のシンボルだと言ってよいでしょう。
すると、多くの(百倍、六十倍、三十倍、そもそも何に対して?)というのが、私腹を肥やす悪党どもというように私には映り、まったく評価が逆転してしまいます。能力的に秀でた者を賞賛し、不慮に虐殺された嬰児や青年、キリストのように苦難を担う人を貶めるのならば、これは優生思想と言って差し支えありません。
つまり、マタイが述べているように、でしたちがなぜ群集に喩えを用いて語るのかとキリストに質問したことは事実であったとしても、「あなたがたには天の国の秘義を知ることが許されているが、あの人たちには許されていない」などと、キリストがお答えになったのは到底考えられないことです(私は聖書の原理主義者ではないので、こういう箇所は無視します)。
何倍もの実を結んだという、見せかけの成果に引きずられ、理不尽に命を奪われたり、迫害される痛み=苦難を無視するのならば、キリストが担う十字架を模範にして、キリストに従う真のでし=キリスト教徒、クリスチャンとは言えないのではないでしょうか。


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