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一足早いスズランを [随筆]

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ヨーロッパでは、5月にスズランを渡すと、相手は幸せになるという風習があるとのこと

一足早く、あなたに
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(奨励)加害者は厳罰を与えられ被害者の涙は拭われる [随筆]

きょう、イザヤ書24章を読んでいたところ、5節に

彼らが律法に背き、掟から逸脱し/永遠の契約を破ったからだ。

という文言が目に入ってきました。これは「全地の裁き」というパラグラフの中にあり、「律法」、「掟」という単語から、「十戒」を想い起します。そして、十戒には、「殺してはならない」の次に、「姦淫してはならない」が続きますが、その理由は何かという疑問がわいてきました。後者は、「不倫してはならない」とも翻訳できますが、それは平時のことであって、戦時には当てはまりません。戦勝軍は、間違いなく敗戦国の女性を凌辱します。最悪の場合には、凌辱した女性を殺します。これが、「殺してはならない」、「姦淫してはならない(凌辱してはならない)」を規定する時代背景ではないのかというのが私の問題意識です。

しかし、殺されてしまった女性に救いはあるのでしょうか。たとえ、遺族に謝罪や賠償があっても、彼女の命は戻ってきません。この先が宗教の役割です。イザヤ書25章7~8節の「主の山における祝宴」は、彼女の霊魂が、慰められることを次の文言が言い表しています。

主はこの山で
すべての民の顔を覆うベールと
すべての国民にかぶせられている覆いを破り
死を永遠に呑み込んでくださる。
主なる神はすべての顔から涙を拭い
その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。
確かに、主は語られた。

凌辱された女性は、その恥ずかしさに耐えかねて、自らの顔姿を覆いで隠したくなるものです。夜ごと、悔しさに枕を濡らした涙を拭われ、慰めていただく希望が、死後のことですが、宗教にはあるのです。なぜなら、神は「死を永遠に呑み込んでくださる」からです。そして、宗教には暴虐者の裁きをも表現しています。

その日になると、主は罰する。
天上では天上の軍勢を
大地の上では大地の王たちを。
彼らは、囚人が地下牢に集められるように
集められ
牢獄に閉じ込められ
長い月日がたった後、罰せられる。(24章21~22)

大地の王とは、戦争遂行者のことを指していると考えます。そして、戦争犯罪にかかわるすべての者の責任は、彼が負うものです。しかし、末端で女性を暴行し、殺人を起こした者にも同様に罰せられます。こうして、地上の加害者は罰せられ、被害者は天上の祝宴に招かれます。これは、預言者の「まぼろし」を描いたものですが、地上での不条理を、死後、公平にすることを暗示しています。

日本聖公会の聖職者が、預言者などの裁きを避けているのは、日本が加害者の側にあるので、自分たちにとっては分が悪いことも一因にあると思います。ジャニー喜多川による性加害問題が大きく扱われていますが、以上の考えを当てはめれば、彼は今頃大変な罰に遭っていることになります。そしていつか、被害者の涙も拭われるのです。そう信じています。
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(随筆)因果応報の仏教との訣別 [随筆]

私の家族や親類は、長らく浄土真宗本願寺派や大谷派との関わりを持ってきたとは言え、キリスト教徒の立場から、彼らについて苦言をするのは筋違いかとは思います。しかし、あまりにもひどい話なので、一言申し上げます。それは、因果応報と前世についてです。

菊谷隆太氏のことについては、YouTubeチャンネルで教えられることがあり、私の記事の中で、実名を挙げたこともありましたが、昨日見た動画はまことにひどい内容でした。それは、因果応報と前世や来世との密接な関係を講義したものであり、仏教の基本である因・縁・果の縁を全く無視したものでありました。現世の果は、前世の因によるものもあり、前々世の因も含まれる場合もあるというのです。これでは、過去のことばかりに目が向き、結果、前世占い(師)に関心が向くのではないかと危惧しています。来世の浄土を語るべき講師にとっては致命的とも言える誤りであり、私には「迷信」であるとしか映りません。

さて、私の父はすい臓がんで60歳にして他界しており、兄は40歳にして自殺しました。それにもかかわらず、母が前世を気にしているのが我慢なりませんでした。父や兄の早逝は、特に自殺した兄は、前世の何事かが原因で、そのような悲劇を招いたとでもいうのでしょうか。そのようなことを気にするより、来世での幸福を願うのが、家族としての務めではないでしょうか。私の説得に、前世の存在については、撤回したものの、私をひどく傷つけたことに対する謝罪の言葉はありません。

前世などという迷信を信じる背景には、因果応報の過剰なまでの強調があると思います。例えば、兄が熱心な浄土真宗の門徒だったとして、40歳で自殺したなどということは、因果律では説明がつきません。しかし、職場や仕事内容という縁を丹念に探れば、それも致し方なかったという結論が出てきます。実際、兄は労災認定をされており、十分な社会的判断がなされているのです。母までが、そのいきさつを理解せず、勝手な思い込みで前世などという迷信を肯定していた無神経であること、そして労災認定にどれほど私が尽力し、どれだけ傷ついたかをいまだに理解していないことに愕然としました。

人生、過去のことは変えられません。しかし、未来のことは変えられます。前世や前々世のことを気にする暇があったら、他宗教の勉強でもしたらいかがでしょうか。菊谷氏のキリスト教に対する理解は乏しいところがあります。例えば、ハルマゲドン、すなわち「世界最終戦争」などというものを信じているキリスト教徒はごくわずかです。死後の審判についても「最後の審判」などという聖書には存在しない言葉を不用意に用いながら、説明していることに違和感がありました。浄土真宗には、死後の審判について触れていないようです。この点、キリスト教から学んではいかがでしょうか。

ずいぶん以前の話ですが、兄の葬儀等をした大谷派の住職から因果応報は、どの宗派も同じ教義だと教えられました。どうやらそれは正しかったようです。残念ではありますが、そのような仏教とは付き合う暇がありません。親類との縁だけを大切にし、それ以外のことは係わらないことにします。仏教よ去らば。訣別します。
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(随筆)宗教的指導層の支配欲による食欲や性欲の規制を相対化する [随筆]

次の主日の聖餐式等の特祷には、「どうか主の豊かな恵みによって、すべての害あるものから守ってください」とありますが、「害あるもの」とは具体的に何を指すのでしょうか。

ペトロの手紙一と二を読むと、それは放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、偶像崇拝、昼間から享楽にふける、その目は姦淫の相手を求める、だまし事にふけって騒ぐ、心の定まらない人を誘惑するなどが悪徳として挙げられていますが、これは主として食欲や性欲に関することであり、偶像崇拝の禁止や集団に勧誘することは後回しになっています。これは、手紙の著者が支配者であり、食欲や性欲などを規制することによって、自らの権力欲を満たすことに繋がっています。そのため、領民は為政者に、使用人は主人に、妻は夫に服従することをよしとしているのです。

したがって、「害のあるもの」は食欲や性欲の規制に集中するのには気を付けなくてはなりません。かえって、それは宗教的な指導層の支配欲を満たすためのものであるかもしれないのです。仏教では、人間の欲を五つに大別して、食欲、財欲、名誉欲、性欲、睡眠欲としていますが、その中心は三番目(二番目が性欲ではない)の名誉欲であることを喝破しています。主の祈りが、「御名が聖とされますように」に始まるのも、高い地位を入れて、部下を多く持ちたいという権力欲と支配欲を相対化するためなのです。特祷が「世々に生き支配しておられる」で結ばれているのは、神の国とは神の絶対的支配であることによります。

私は、鬱状態になると少しでも気分を爽快にするために炭酸飲料に手を出し、昨日は三リットルも飲んでしまいました。アイスコーヒーにのめり込んでいるのも気がかりです。しかし、断酒は二か月続いているし、喫煙やギャンブルには興味がありません。発刊した書籍が売れて、印税が入ってくれればと思うことはありますが、それは滅多にないことです。和服も着なくなりました。これは全部自分で決めたことです。食欲や性欲に、権力層が、とくに宗教的支配層が介入することには注意しなくてはなりません。伝統的に継承された特祷にその残滓が見受けられるのは残念です。

ペトロの手紙の著者に限らず、多くの著者は支配者の視点で書かれています。パウロもまた、女性の発言や身なりについて規制しようとしました。為政者に対しても迎合的です。これは、公会の支配、被支配関係を明確に区別し、階級化することによって、権力関係を明確にするためです。公会は、ペトロを首根っことした、上方に広がる陣形でしたが、それが教皇政治に変わることによって、逆転してしまいました。しかし、公会は、神の生きている不変の言葉によって新たに生まれ変わることを通して、民主的な組織に改革することが求められています。聖公会の女性主教、女性司祭の問題は、その試金石です。
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(随筆)きょうだいを憎む殺人ではなく忍耐強く地上での平和を祈り続ける [随筆]

先の記事で聖書を後ろから読むことの意義を説明しました。今回は、ユダの手紙とヨハネによる手紙一~三を読んで、中心テーマである「きょうだいを憎む」ことからの脱却と、聖餐式で「平和の挨拶」を聖餐の冒頭でするのはなぜかについて考えてみたいと思います。

きょうだいを憎む心から、カインがアベルを殺したように殺人に発展し、国家間レベルになると、戦争や紛争に拡大します。ロシアによるウクライナ侵攻や北朝鮮の軍拡は、すべて憎しみの心から生じています。公会の中でも、反目しあっている現実があります。殺人とまではいきませんが、反目は憎しみへと深刻化することもあります。そこから脱却する第一歩は、口先ではなく真心から祈ることです。懺悔を挟んで代祷の次に、平和の挨拶があるのはそのためです。

先日配られたアッシジのフランシスの「平和の祈り」を牧師は、このように翻訳していました。「許すことによって赦され」、すなわち英語では同じforgiveを使い分けているのです。ゆるしには、二通りあります。反目している相手のことを受け入れること(許すこと)、分裂している相手に与えること(赦すこと)です。国家宗教であるロシア正教会とウクライナ正教会は、後者がクリスマスを12月25日に固定するということによって決定的に分裂してしまいました。ロシア正教会は、表立って侵攻に反対していません。しかし、反目し分裂しているはざまで、私たちは「主の平和」、「神の国の到来」、「キリストの来臨」を、すでにかなえられていると確信して、平和の挨拶をかわします。ユダの手紙では、貧しいきょうだいを助けることが推奨されています。与えることによって分裂は癒されるのです。

私は、一つ前の教会で聖職候補生の時には、親しく聖書のことを語り合えたのに、聖職に叙任されると、教会の運営に忙殺され、説教や礼拝の順序、駐車場の取り扱い、そして何より主日の夕の礼拝をなおざりにされたことに絶望して、今の教会に移りました。嘱託をしていた執事は聖書のことに勉強熱心でしたが、理解が難しいことになると、意見が分かれてしまい、また礼拝後の茶話会もあまり意味がないのではないかと苦痛でした。しかし、今は茶話会がそう苦痛ではありません。なぜなら、世間話をしていた方が、公会は分裂しないからです。難しい話をしてしまうと、かえって公会は反目し、対立を生み出すものです。

ヨハネの手紙一には、結論として次の言葉があります。「何事でも神の御心にかなうことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことはすでにかなえられたと知るのです」と。御心にかなうことは、すぐにかなうとは限りません。地上では忍耐強く平和を祈り続け、天上では御心の内に「平和」が実現することをわたしたちは信じているのです。
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(随筆)新約聖書を頭から読むのではなく最後の黙示録から読むことの意義 [随筆]

洗礼堅信式冒頭の詩編として、34編と107編のいずれかを選ぶことになっていますが、
34編には次の言葉が見受けられます。
苦しむ者が主に叫ぶと、神は聞き/悩みの中から救い出してくださった
神を畏れる人の周りには、主のみ使いは人を敷き/彼らを救い出してくださる
107編には、次の節があります。
彼らが苦しみの中から主に助けを求めると/主は悩みから彼らを救い出された
主は正しい道に彼らを導き/住むべき町へ伴われた

洗礼は、個人的苦悩を知る者が受ける儀礼です。したがって、基本的には幼児洗礼は認められるものではありません。しかし、親たちが幼児を信仰に導き、公会に伴うならば、つまり堅信に至るように努力するならば、それは肯定されるのだと、これらの詩編は物語っています。具体的な数字は分かりませんが、日本聖公会横浜教区の「堅信率」が少ないという記事を読んだことがあります。幼児洗礼を受けた者が、堅信に至った人数が目にみえて少なくなっているということです。

私は、公会でヨハネの黙示録に関する連続講座を開くことを提案します。なぜなら、詩編と黙示録の間には共通点があり、黙示録における「ハルマゲドン」(メギドの平野)と「最後の審判」(キリストの来臨)は、知ってはいるけれど誤解に満ちているからです。そして、黙示録は悔い改めへと導くからです。その例として、詩編1編と黙示録の共通点を上げてみましょう。

ヨハネの黙示録と詩編1編の間には、共通点があると思います。その点、私たちの現実からの悔い改めの促しがあることの重要性が浮かび上がってきます。なぜなら、悔い改めの言葉は、黙示録においても繰り返し表現され、キーワードとなっているからです。では、まず詩編1編を日本聖公会の『祈祷書』から引用します。

幸せな人、それは神に逆らう者の謀りごとに歩まず/罪人の道に立たず、あざける者とともに座らない人
主のおきてを喜び/そのおきてを昼も夜も思う人
流れのほとりに植えられた木のように/時が来れば実を結び
葉もしおれることがなく/この人は何をしてもすべては実る
神に逆らう者は審きに耐えられず/罪人は神に従う者の集いに耐えられない
神に従う者の道は神に守られ/神に逆らう者の道は滅びに至る

次に、黙示録のキーワードを詩編に対応させますと、神に逆らう者は、獣や竜(楽園でエヴァを誘惑した蛇を大型化したもの)、大淫婦、悪魔などの姿を取っています。謀りごとが、戦争の共謀や冒瀆、あざけりに表れています。集いに耐えられないが、昼も夜も平安がなく、裁きに遭い戦争に敗北することで、滅びに至ります。しかし、神に従う者である天使や義人は、たとえ義によって迫害されて、涙を流しても、神に守られ、涙をぬぐわれます。そして、地上での行いに応じて報われ、天上で永遠の命を与えられます。

また、共通の比喩もあります。川のほとりに植えられた木は、毎月実る木(楽園の命の木)、そして川に流れる水は、命の水です。裁判権に関しては、二十四人の長老が、十二使徒からさらに委託されて(枝分かれして)いると黙示録は考えています。玉座に座る小羊については前述の通りです。

私は今回、黙示録の中心テーマは何かという観点から全体を読み進めてみました。そこには、地上での苦難の慰めと裁きに基づく悔い改めが強調されていることが分かります。新約聖書を頭から読むのではなく、最後から読むというのも意義があると思います。
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(随筆)今日私が聖餐式に出席する尊い使命 [随筆]

今日は、第三主日で、司式・説教はA司祭兼管理牧師である。先月は、早目に聖堂に入り、準備していたら、先にいらしていた牧師が私に「元気ですか?」と声掛けをして下さった。おそらく、礼拝出席名簿を御覧になって、私が最近ボチボチ礼拝に出席しているのを確認した上でのことだろう。

葬儀の話題で、私が食い込んだとき、そもそも司式者を誰にするかということから始まるのですよと言われたとき、この牧師は私の葬送式を司式する気がないのだなと直感した。これまで、田澤牧師と疎遠であったことの付けである。

B執事と懇意にしてきたが、嘱託を辞するに当たり、今後は一信徒として関わっていきたいと印刷物に書いておられたが、執事は聖別されているので、そういうことは神学的に是認されないのである。この見識には、がっかりしたが、代わりに牧師が気に掛けてくださり始めている(当然のことだが、吉田司祭のような聖職者もいる)のには希望がある。

さて、聖餐式の聖別祷の際には、跪くことに決めた。聖餐には、福音の面が主だが、終わりの日の裁きの先取りがある。終わりの日とは「最後の審判」のことで、そのようなものはない、終わりの日は迷信だと思ってきたが、ヨハネを読むと、大事であることが分かる。

聖霊を信じることと、体の復活との関係がよく分からなかった。体は有限だが、復活も肉体を前提としているのだと思うが、これは体の脱落、すなわち昇天のことを指しているのだと今気付いた。しかし、私が与えられる聖体と聖血は、無限の「いのち」と有限のパンとぶどう酒が同居したクリスマスのキリスト、洗礼を受けたキリスト、油を受けたキリスト、肉体が死んだキリスト(有限と無限が拮抗)、復活して顕現したキリストである。

聖餐は、父(聖なる父、永遠にいます全能の神よ)と息子イエス・キリストが一つ(父と一体の生きた(活きている)み゙言です)であるように、神と私たち一人ひとりが神と一つ、すなわち「いよいよみ゙国(Kingdom無限の領域)の世継ぎであることを明らかにしてくださ」ったことなのである。

そのことを「記念」する(思い起こす)とき、私たち一人ひとりの霊魂は聖なる変化を遂げる(聖化)。聖霊とは、その働きであり、別物がある訳ではない(エホバの証人と同じ?)。つまり、父と息子の間に生まれたきょうだいが教会(公会)である。聖餐が共同で行なわれる(聖餐式)のが聖なる公会、聖徒の交わりの先取りである。

そこには、罪の許しがあり、天国(み゙国)に入門するという、永遠の命への招きがある。招きの中には、裁きが含まれる。だから、聖別祷のときに跪くのである。これは秘義であり、秘密結社の行いであるので、いたずらに、公開することは必要ない。

教会の人数が少なくなっても、落胆する必要はない。なぜなら、礼拝は天国に入門している人々と共にする大なるもの(天の全会衆)であり、地上の人数の必要はあくまで地上の公会を維持するため(それはそれで有用なのだが)に過ぎないからである。

若者もいずれ、年齢を重ね、死を考えるだろう、そのときまで、公会を何とか維持していく必要がある。私の尊い使命(独尊)は、そこにある。だから、今日私は聖餐式に出席する(裁きの座に向かい合う)のである。
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(随筆)キリストの犠牲とは審査手数料を全額免除するようなものである [随筆]

2024年3月3日は、日本聖公会の呼び名で「大斎節第三主日」と言いますが、この日に行われる福音朗読は、ヨハネによる福音書2章から抜粋された「新しい犠牲」についての物語です。概要は以下の通りです。

エルサレム神殿の境内には、牛や羊が通行していたほか、鳩の取引をして犠牲祭儀の準備がなされていました。そこへ、主イエスが介入し、牛や羊を追い払っただけでなく、鳩の行商人の台をもひっくり返し、口論となりました。

この主イエスの「暴力」について、どのように捉えたらよいのでしょうか。一言にすれば、犠牲祭儀を不要とし、「天国」への新しい「許可証」を制定した物語と言えます。これを、教会における洗礼式と自動販売機の設置許可に喩えて説明しましょう。図解できないのはご容赦ください。

例えば、私浦川愼二が天国、すなわち「神の国」に入国したいとします。キリスト教会では、洗礼式を受けていることを前提としていますから、洗礼を受けたという許可証を入国の際に必要であるとします。許可証を得るには、牧師への申請が必要です。これが「洗礼志願」に当たります。これが例えば、ショッピングモール内に業者が自動販売機を設置したいという手続きと比較してみたいと思います。業者の目的は、モール内という「天国」のような空間に販売機を据え置くことです。そのためには、モール運営者に設置許可の申請書を提出しなくてはなりません。これが、前述の洗礼志願に当たります。次に、運営者では書面審査や面接をする必要があるので、審査手数料一万円を徴収するとします。これが、物語の概要で言う牛や羊、鳩と言った生贄と対応します。

ところが、運営会社が一方的に手数料を全額免除するとします。そのようなことをすれば、審査業務や人件費を会社が負わなくてはなりません。それが、キリストの犠牲であり、全額免除すると言うことは生贄をもはや必要としない、すなわち犠牲が生贄に取って代わるということです。洗礼の場合は、牧師に志願した後、祈りや学びと言った事前準備を行います。これが運営者の審査や面接に当たります。そして、洗礼式を受けます。教会の戸籍には、正式に浦川愼二の名前が記され、入国の許可証となります。運営会社による業者への自動販売機の設置許可証の交付がこれに当たります。浦川愼二の死後、洗礼を受けたことによる入国許可証があったとして、これを陰府の門で提示し、神の国という無限の世界へ入国することができます。これはすべて、キリストが犠牲になったという、手数料の全額免除と同じようなことが行われた結果です。

主イエスが、神殿の境内で「乱暴」を働いたのは、生贄に執着する民と犠牲祭儀を通じて私腹を肥やしている祭司階級を非難するためでした。このことをめぐって、二度目でのエルサレム入りでは、石打の刑に処せられようとします。この行為は命がけのことだったのです。
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(随筆)洗礼と堅信は陰府の門での裁判への備え [随筆]

マタイによる福音書の山上の説教の一つに「誓ってはならない」という御言葉がありますが、何を意味しているのかよく分かりませんでした。先程思索したところ、これは死後の門前(すなわち神の国と地獄の関所)で行われる裁判(マタ19:28~30、マコ10:30b、ルカ22:29~30)を前にして、生前に心と言葉、行い、習慣、つまり人生を改めなさいという勧告であることに気付きました。この言葉の文末には、「然りには然り」、「否には否」と言いなさいとありますが、ここだけ文語で表現されており、何を言いたいのか判然としません。これは、快楽主義に対しては、敢然とノーを言いなさいという命令であると考えます。

例えば、私は飲酒によって、多大な浪費をしていたにもかかわらず、これを欲望に忠実な必要事であると開き直っていましたが、その悪徳(例えば、泥酔による記憶喪失)にようやく気付きました。つまり、「NoにはNo」と言いなさいということなのです。判決は、無罪か有罪の二つに一つなのですから、偽証は効きませんし、死後の世界なのですから、地上の人と口裏合わせすることもできません。そして、善に対してはYesと言わなくてはなりません。しかも、お金のかからない善、例えば、人に微笑みかけて優しい言葉をかける、進んでごみを拾うなど善徳はたくさんあるはずです。

さて、ヨハネによる福音書の20:22~23に描かれている「罪の赦しの権能」の委任は、この世の裁きではなく、むしろ死後の裁きであるとの確信に至りました。なぜなら、マタイ・ルカ両福音書でも陰府(よみ、前述の関所のこと)の裁きの王権を使徒たちに委任しているとの上掲した箇所と突合すると物事が明瞭になるからです。

また、マタイの文末には、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という御言葉がありますが、これは命あるもの、いつ命を失うことになるのか分からない、例えばコロナ感染症で子どもが親より早く死亡することなど、このような番狂わせは十分ありうるという事実を述べているのです。したがって、命あるものは、死後の裁きを熟慮して、裁判に備える必要が出てきます。洗礼と堅信は陰府の門での裁判への備えなのです。
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宣教の最前線は一人ひとりの祈りの内にある [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式の内、分餐語と陪餐後の感謝、祝福、派遣について考察してみたいと思います。

式文は、以下の通りです。

司祭 あなたのために与えられた主イエス・キリストの体 アーメン
司祭 あなたのために流された主イエス・キリストの血 アーメン

司祭 祈りましょう。
一同 永遠にいます全能の神よ、この聖奠(せいてん)にあずかった者を、み子イエス・キリストの尊い体と血をもって、養ってくださることを感謝します。主はこれによって、わたしたちがみ子の体のえだであり、み国の世継ぎであることをいよいよ明らかにしてくださいました。天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として献げます。どうか、聖霊によってわたしたちをこの世に遣わし、み旨を行う者とならせてください。
栄光は世々に限りなく、父と子と聖霊にありますように。アーメン

主教又は司祭 父と子と聖霊なる全能の神の恵みが常に皆さんとともにありますように。

執事又は司祭 ハレルヤ、主とともに行きましょう。
会衆 ハレルヤ、主のみ名によって アーメン

6月5日に逝去した伯母の葬儀に出席するため、母と二人で長崎県佐世保市を訪ねたのは、翌日のことでした。

そこから離れる際、父のきょうだいの亡き長兄、つまり伯父の自宅に寄ったのですが、何より驚いたのは伯母の娘である「いとこ」が伯父の月命日に僧侶を呼んで、月命日の法要を、その自宅で営んでいるということでした。

これは、長兄の自宅で同居していた私の祖母の信心が影響しているはずであると思います。

祖母は、僧侶がいる寺の創建に係わり、熱心な門徒でした。亡き伯母もそれを受け継ぎ、いとこもそれに忠実なのです。

私は、その姿に仏教でいう「布教」の最前線をみたような気がしました。

さて、分餐の言葉は「あなたのために与えられた・流された」という二人称単数であって、複数ではありません。

礼拝が解散されれば、信徒はそれぞれの生活に向き合います。

ある主教の言葉ですが、「宣教は日本聖公会や〇〇教会によるものではなく、行き着くところ一人ひとりなのである」というのを具体的なエピソードを通じて講演なさっていました。

私もまた、朝の祈りを日課とし、具体的なお名前を挙げて、聖霊による支えと導きを捧げています。

自分が創作した賛美歌を歌い、主の祈りも歌います。

朝、大地震もなく目覚めることができた、高齢の母と朝の挨拶ができた、これらは私が思っている以上の恵みに他なりません。

そして今日、友人に葉書の返事をしました。

判読できないような手紙は送らないでほしいと依頼したのですが、ちゃんと大きな字で書き送ってくれました。

何度も強調してきたとおり、キリスト教の根本教理は負い目の赦しです。

具体的な隣人の負い目を赦すとき、赦せない時、私たち一人ひとりの前に父なる神おられます。

祈りとは、主イエス・キリストが教えられた通りの「主の祈り」を生きることなのです。
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