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祈りという種まき [奨励]

6月16日(聖霊降臨後第4主日)、日本聖公会の福音朗読は、マコ4:26~34です。

この箇所では、「成長する種」と「からし種」の譬えが、神の国の隠喩として語られます。

まず、「神の国」というのは、私のイメージとしては「命の門」として捉えています。何かの領域を示すというよりも、神の世界に入る前の、通過点とでもいうものでしょうか。主イエスがなんと喩えようか苦心しているのに、これが適切なのかどうか分かりませんが、日本聖公会横浜教区の「祈りのしおり」によれば、そのように信仰を言い表しています。

そして、共同訳の「地はおのずから実を結ばせるのであり」の「おのずから」という表現は、誤解を生みやすいものです。なぜなら、信仰者の努力を放棄させかねないからです。

私が参考にした英語訳(NRSV)では、ここはwouldとなっており、可能性を示しています。例えば、ひたち海浜公園のネモフィラは秋に種まきをするものですが、あの光景は「種まき」という莫大な努力によってなされることを忘れてはなりません。パウロも手紙の中で、「パウロが種をまき、アポロが水を注いだ」と記していますが、「種をまく」というだけでも、パウロの苦労がしのばれる表現として注目に値します。

したがって、神の国という「命の門」は、人の膨大な努力の上で開かれる可能性を秘めているのです。私たちキリスト教徒はもっと祈りましょう。イエスはキリストであると、公私ともに祈りましょう。そうすれば、人知を超えた(からし種から始まって、空の鳥が巣をつくるような)「成果」が与えられるのです。

私は、そう信じています。

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