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(説教)「きょう」社会正義の追求と各人の貪欲の相対化への招くことば [説教]

10月18日福音記者聖ルカ日に、日本聖公会の聖餐式等において行われる福音朗読は、ルカによる福音書4章から抜粋された、「主イエスの生誕地ナザレの会堂で行われた教え」の物語です。概略は、以下の通りです。

迂遠かもしれませんが、この物語の前に、「悪魔から試みを受ける」という物語があり、これが会堂での教えと密接と考えるので、まずこれを紹介したいと思います。

主イエスは、ヨルダン川で洗礼を受けてから、霊の力によって荒れ野に派遣されました。主イエスは、四十日四十夜断食して飢えると、悪魔が近寄ってきました。悪魔は言います、「石をパンに変えてみたらどうか」と。これに対し、主イエスは、『人はパンのみのために生きているのではない』という聖書の言葉を引用して、悪魔の試みを斥けます。再び、悪魔がささやきました、「ここにあらゆる国々の支配権と栄華があり、これについての一切は私に委ねられている。もし私を拝むのなら、全部与えよう」と。これに対し、主イエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主のみに仕えよ』という御言葉がある」と言って、これも斥けます。さらに、悪魔はエルサレム神殿の端に主イエスを立たせ、言いました、「もし、お前が神の子ならば、ここから飛び降りたらどうか。なぜなら、聖書にはこうあるからだ。『神は、あなたを天使によって守る』と。これに対し、主イエスは「聖書には、『あなたの神である主を試してはならない』という命令がある」と答え、これも斥けます。

概略が長くなりましたが、この物語は、極めて重要な内容なので、深めていけたらと思います。これまで私は、ここで描かれる悪魔と自分は対立する敵であり、主イエスは自分を守ってくださっている味方だと思ってきました。しかし、以下に記す、「主の祈り」の反対概念を提示すると、自分には悪魔の試みに共通するものが、内在しているということに気付きました。ルカによる福音書11:2~4における主の祈りは、以下の通り(原文は、聖書協会『聖書 共同訳』)です。

父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも自分に負い目のある者を皆赦しますから。
私たちを試みに遭わせないでください。

悪魔が言った、「石をパンに変えたらどうか」という試みは、「日ごとの糧」に対応します。しかし、私自身の本音は、「一生分の財産を今日与えてほしい、それだったらどんなに楽であろう、石をパンに変える力があったら、それは十分に可能だ」という物欲が内在します。悪魔を拝むなら国々の権力と栄華を与えようという誘惑も、「御名が聖とされますように」と「御国が来ますように」とは、対立する概念です。しかし、「自分は有名になりたい、(実際に出版しており、その本が売れたらと何度考えたことか!)自分の支配がいつまでも続いてほしい(同居人の意見を入れず、独裁者でありたい!)という名誉欲、支配欲が付きまとっています。そして、悪魔は聖書さえ引用して、自己正当化を図ります。私が、自分に負い目のある者を赦さないという傲慢、誘惑はことごとく斥けているという自己満足感に浸っているというのは、気付かないところで蔓延しているのだと思います。

そこで、冒頭に移ります。それらの物欲、名誉欲、支配欲、傲慢、自己満足、自己正当化は霊の力によらなくては、侵入を防ぐことはできません。そして、次の物語、福音記者聖ルカ日に朗読される物語も主イエスは、「霊に満たされて」ガリラヤに帰還したとあります。これはすなわち、霊に満たされたイエスをキリストとしてお迎えすることなのです。キリストとは、油注がれた王のことを指しますが、目にみえない霊を、目に見えるようにしているのは油です。また、イエスは「ヤハウェは救い」という意味ですから、イエスはキリストであることの内容は、「ヤハウェが、預言者を通して、油を注いだ者は、霊的存在の王、すなわち、多くの人々の負い目を赦す救い主である」と言えます。ここで言う、預言者は洗礼者ヨハネであり、よって主イエスは、ヨルダン川で、彼から洗礼を受け、キリストとしての任職されたのです。

ガリラヤに帰還したのち、各地の会堂で、律法などについての教えを行い、「新しい権威ある教えだ」として、人々を驚かせます。また、教えだけでなく、ガリラヤのカファルナウムという都市では、悪霊に取りつかれた人を癒すなどの奇跡を行い、瞬く間に、称賛の声や、うわさが広がって行きます。こうして、生誕地ナザレの会堂に入って、イザヤ書の巻物が渡されます。そして、主イエスは、その中から以下のような御言葉を朗読します、「主の霊が私に臨んでいる。貧しい人(例えば、両眼が見えない乞食)に福音を知らせるために。すなわち主が私に油を注いだのは、彼のような人に解放と自由を告げるためである」と。主イエスは、続けて教えます、「この言葉は、きょう、あなたたちが耳にした時、その心を動かした」と。

この箇所は、ルカによる福音書にしかない物語です。やはり、「主の霊が私(預言者イザヤ)に臨んでいる」との御言葉が、三度目に出現します。そして、焦点は会堂の上席で聞いていた男性は、金持ちだったのではないかということです。なぜなら、この後に続く「ナザレで受け入れられない」という物語では、「あいつ(主イエス)はヨセフの息子ではないか」と軽蔑の眼差しで主イエスを見ており、誹謗の言葉を浴びせ、崖まで追い詰めて、突き落とそうとするからです。これは、悪魔の試みと軸を同じくすると思います。

朗読されたイザヤ書には、「目の見えない人に視力の回復を告げ」るということが書かれてありますが、社会経済的に、視覚障害者は、働き口がなく、乞食をして、そして時には餓死していました。そのような餓死という闇に、自由と解放を告げる福音が朗読されるのです。福音記者聖ルカは、金持ちには厳しいことで知られています。たとえば、「幸いである。貧しい人。神の国はあなたのもの」に対して、「災いだ。富裕な人。あなたたちはもう慰めを受けている」という裁きの言葉を記しています(ルカ6:20~26)。そのような社会経済的な面の強調も踏まえながら、ルカは「悔い改め」の必要性を説く人としても知られています。

主イエスによって朗読された、イザヤ書のことばは、社会正義(平等な分配など)の追求だけではなく、各人の貪欲の相対化へと突き動かす力があります。そして、それは遠い将来ではなく、「きょう」耳を傾けるときなのです。

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(説教)隣人を愛する具体的な実践の中に聖書を貫く憐れみが隠されている [説教]

10月29日、日本聖公会の聖餐式等で行われる、福音朗読は、マタイによる福音書22章から抜粋された、「最も重要なヘブライ語聖典のことば」です。その概要は、以下の通りです。

復活や天使などを否定するサドカイ派を、イエスが論駁したと聞いて、これらを信じているファリサイ派は、集まりました。そこで、律法の専門家が進み出て、主イエスを試そうとしました。そして、彼は主イエスに問います、「先生、最も重要な律法は何ですか?」と。そこで、主イエスは、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と答えます。続けて、主イエスは付け加えました、「もう一つ重要な律法がある。それは、『隣人を自分のように愛しなさい』という律法である。これらが、律法と預言者、諸書、すなわちヘブライ語聖典の柱である」と。

サドカイ派とファリサイ派は、歴史的かつ思想的に、復活や天使、霊などについて、対立していました。これは、ギリシャによる支配に激しく抵抗し、多くの殉教者を出したファリサイ派と、神殿貴族として安泰していたサドカイ派の政治的立場が影響していたと考えられます。つまり、ファリサイ派にとって、殉教者の復活や霊が消えてなくなってしまうのなら、死者の尊厳が著しく損なわれるし、彼らはその不撓不屈の聖人たちの精神を受け継いで、ローマ帝国の委任統治を信仰的・精神的に凌駕していくと自負していたのです。

しかし、サドカイ派が律法を軽視していたわけではありません。彼らが神殿で行う犠牲獣の奉献は、律法に基づかなくては成り立ちませんでした。ところが、主イエスが厳しく、サドカイ派を批判したのは、「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない」という預言者のことばだったのです。その逆に、彼らの考え方としては、「神が求めるのはいけにえであって憐れみではない」という非常に形骸化した祭祀でした。したがって、主イエスは彼らのことに対して、聖書を読んでいないのかと非難します。

これに対し、祭祀を行わず、殉教者の精神の基本である、偶像崇拝の禁止、すなわち十戒の冒頭を始めとして、聖書などの研究に熱心なファリサイ派がいたというのが、この問答の背景なのです。中でも、律法の専門家は、ヘブライ語聖典の隅々にまで、精通していたラビでした。そのラビが、主イエスのことを「ラビ(先生)」と持ち上げ、最も重要な「ことば」は何かと質問したのです。これに対し、「神なる主を愛しなさい」とまず返答しました。「最も」ですから、一つだけにしなければ答えにならないのに「隣人を自分だと思って愛しなさい」、これもまた重要なことばであると宣言するのです。ここに、主イエスの常套手段である、相手の質問にまともに答えないと姿勢が、また出てくるのですが、この返答は極めて大事な真理であると思います。

それは、この律法の順序を逆にすることによって、みえてくる事柄です。すなわち、隣人を自分だと思って愛することは、神である主=ヤハウェという固有名詞を持った神を愛することと同じであるということを指しているからです。神なる主は見えない存在です。その主を愛するということを短絡的に考えると、それは聖書に書かれてあることを一点の曇りなく、守るということに変換されがちです。しかし、聖典の精神とは、先述したように「憐れみ」または「慈しみ」にあります。すると、隣人に憐れみを持つこと、慈しみの心を持つことは、目にみえることであり、これがすなわち神である主を愛することであると私は強く主張します。

さて、仏教に「和顔愛語 先意承問」(『仏説無量寿経』所収)という言葉があります。私なりに、翻訳すると、相手に微笑みかけて(和顔)優しい(愛)言葉をかけ(語)つつ、相手の気持ち(意)を汲み取って(承)、先んじて(先)相手の立場を尊重する(問)ということになるかと思います。「愛する」とは何か、それはすなわち「負い目の赦し」ではないか、と、盛んに論じてきましたが、もっと具体的に、別の面から愛の実践を考えた時に、この言葉が念頭に入ってくるのです。

この問答に続いて、主イエスが、ファリサイ派に対して、逆質問をします、「ファリサイ派では、メシア(キリスト)をどう考えているのか?」と。これに対し、彼らは「ダビデの子である」と返答します。しかし、主イエスはヘブライ語聖典の「諸書」の一つである詩編110編1節を引用して、ダビデは、メシアを主と呼んでいるのだから、ダビデの子ではないと論理的に答えます。これは、なぜかと言うと、ヘブライ語聖典は、律法と預言者、諸書の三つに区分される考えがあり、ファリサイ派主導で90年代にそのことが正式決議されます。つまり、主イエスは、聖典全体を網羅するために、「律法と預言者全体」に加える形で、詩編という諸書を引用したのです。

それでは、聖書全部を読破しなければならないのかという発想が出てくるかもしれませんが、それは律法の専門家が取った立場と同じです。彼らは聖書に書いてあることに忠実でしたが、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽く」すという「こころ」に根差していなかった点があったのです。そして、それは隣人愛に現れます。隣人を愛する具体的な実践の中に、聖書を貫く、憐れみが隠されているのです。

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(説教)聖書と神の力を「知れば」信仰に死んでいる者も復活する [説教]

10月29日、日本聖公会の聖餐式では、福音朗読として、マタイによる福音書22章から抜粋された、「最も重要な掟」の物語が取り上げられますが、この聖書日課の冒頭に「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」とある通り、サドカイ派との「復活問答」の物語を読む勧奨があるので、これを読み解きたいと思います。「最も重要な掟」の物語は、次回取り上げます。

復活問答は、おおむね次のことが交わされています。
死人の復活を否定するサドカイ派の人々が、主イエスに質問しました、「先生、律法によれば、長男と結婚した妻が、子のないまま、夫を失った場合、次男がこの女性と再婚して、子を授かることを願います。ところが、次男も同様になり、これが七男まで及びました。それでは復活の時、この女性は誰の妻となるのでしょうか?七人とも彼女を妻としたのですから」と。これに対し、主イエスは、「あなたたちは、聖書と神の力を知らない生きた屍である。律法にはこうある、『私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と。神は死んでしまった者の神ではなく、生きている者の神なのである」と答えました。群衆は、このやり取りに驚嘆しました。

サドカイ派というのは、神殿で祭祀を行う貴族階級で、最高法院という議会の与党でした。使徒言行録によると、彼らは復活と天使と霊を否定していましたが、野党のファリサイ派はこれらを信じていたので、論争になることも多かったようです。したがって、復活問答の中心にある、復活の時には、夫になることも、妻になることもない。神の天使のようになるのだという主イエスの発言は、一つはサドカイ派の問いにストレートに答えている点で、もう一つは主イエスが天使について言及しているのであれば、紛糾して、それ以上の問答は深まらない危険性ということを加味すると、ここは、後の時代に挿入されたものだと考えます。

その前提で、「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というモーセに初めて顕現したヤハウェ神の自己紹介と、「神は、死んでしまった者の神ではなく、生きている者の神」である、という論理的にはよくつかみにくい、出エジプト記3章にある言葉の意味について考えてみたいと思います。念のため説明しますが、キリスト教徒、ユダヤ教徒などは、族長アブラハムを始祖としています。それはおよそ、5000年前のことで、アブラハムの息子がイサク、イサクの息子がヤコブとなりますから、彼らはとっくに死んでいます。モーセの時代は、確実なことは言えませんが、数百年後の話ということにします。この神の自己紹介は、何を意味しているのかと言うと、あなたモーセもアブラハム以来の系譜にある、神の子なのですという恵みのことばなのです。したがって、その系譜を自覚するならば、アブラハムたちは死んでしまったけれども生きている存在と言えます。

つまり、復活の時というのは、終末に来る、終わりの日の復活というよりも、この系譜を意識する時、彼らは復活しているということです。「死んでいるようで、実は信仰者の心の中で生きている」のです。これに対し、「生きているようで死んでいる」人もいます。これを、主イエスはサドカイ派に当てはめて風刺します。あなたたちは、聖書も神の力も知らないと、痛烈な言葉ですが、彼らは生ける屍に過ぎないと言っているのです。神殿貴族に対し、ここまでズバリ言う有様をみて、群衆は大いに心打たれました。日ごろ神殿などで威張っているサドカイ派を疎ましく思っていた群衆は、留飲を下げたことでしょう。

実は、この「死んでしまったアブラハム以来の系譜は、私たちの中で復活して、私たちは生かされている」ということに気付くのは容易ではありません。聖書全体を読むのも疲れますし、聖人たちの伝記を追うのも、なかなか厄介です。そのため、聖公会では、教会の暦に十二使徒や福音記者などの諸聖徒の記念日を配置して、彼らに適した聖書朗読が行われます。今月の日課では、本来ならば、福音記者聖ルカ日、使徒聖シモン・聖ユダ日があったのですが、これを飛ばしてしまいました。「最も重要な掟」の物語の次に取り上げたいと思います。

「死んでしまった者の神ではなく、生きている者の神」、これは非常に含蓄のある言葉です。先に、サドカイ派は、「生きているのに死んでいる」人々だと申しましたが、聖書と神の力知れば、息を吹き返すことができるということです。サドカイ派にも敗者復活戦はあると私は信じています。
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(説教)悪知恵を混乱させる暗喩(納税問答) [説教]

10月22日、日本聖公会の聖餐式で、福音朗読される箇所は、マタイによる福音書22章から抜粋された「納税問答」の物語です。おおむね、次のようなストーリーです。

ファイサイ派という潔癖主義者は、主イエスの言葉尻を捕えて、罠にはめようと画策していました。ヘロデ党という人々もこれに加勢しました。彼らは言いました、「先生ほど、公平で、真理を語る人はいません。だから、教えてください。神の御心として、ローマ皇帝に税金を納めるのは許されているのでしょうか?それとも許されていないのでしょうか?」と。主イエスは、彼らの悪意を見抜き、「ここに、硬貨を持ってきなさい」と命じました。彼らが、一万円に相当するデナリオン銀貨を差し出すと、主イエスは「そこに刻まれている肖像と銘は、誰のものか」と質問しました。「皇帝です」と彼らは答えます。主イエスは言います、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。

当時の政治情勢として、ユダヤ・サマリア地方はローマ帝国の統治下にありましたが、宗教的に妥協できない点も存在していました。その一つが、ローマ皇帝の肖像がついた硬貨を流通させることは、偶像崇拝に当たるのではないかという疑念でした。そのため、偶像崇拝に大反対のファリサイ派は、イエスが納税を認めれば、神を冒涜するというかどで非難できるし、イエスが納税を認めなければ、政治犯としてローマに引き渡す口実にできると悪知恵を働かせたのです。ヘロデ党というのは、ローマ寄りですから、イエスは納税を認めないだろうと踏んで、立ち会ったものと考えられます。

この落とし穴に気付いた主イエスは、彼らの質問にまともに答えません。納税は許されているのか否かというのが、彼らの質問なのですが、許諾とも拒否とも答えません。それに答えることなく、肖像と銘の刻まれた硬貨を持って来なさいと命じるのです。当時の皇帝は、初代のアウグストゥスです。顔の半分の肖像とローマ字で名前(アウグストゥス)と地位(皇帝、すなわちカエサル)が刻まれていました。ファリサイ派の心理としては、どうだったのでしょうか?しめた!十戒の冒頭にある偶像崇拝の禁止に照らして、納税すべきではないことを、イエスは主張すると思ったに違いありません。しかし、主イエスは罠にはまりませんでした。

「皇帝のものは、皇帝に返しなさい」というのは、単なる暗示でしかありません。皇帝のもの=税金とは限りませんし、また、返す=納税するとは限らないからです。例えば、ユダヤ・サマリア地方の領土を考えてみましょう。ローマ総督を置いているのですから、これは皇帝のものだとも言えます。しかし、統治を委任されていたヘロデ・アンティパスとフィリポ(二人は兄弟)のものとも言えます。このように解釈の捉え方が多様になってしまうので、ヘロデ党の立会人も困惑したのではないでしょうか。また、返すというのも、様々な意味があると思います。例えば、領土の全部または一部を返還するということを指すのなら、ヘロデ党は猛反対です。ここで、ファリサイ派とヘロデ党の間に亀裂が生じます。イエスを陥れるつもりが、自分たちの墓穴になってしまったのです。同じく、神のもの=偶像崇拝の禁止、とは限りませんし、返すも同様です。このように解釈に幅を持たせたことが、暗喩となり、相手を当惑させるのです。私が、喩えに正解はないと主張するのも、主イエスが暗喩の名手として、このように論敵を撃退しているからです。この物語の次は、「復活問答」です。主イエスがどのように相手を振り回すのかが楽しみです。
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(説教)「悔い改めにふさわしい実を結べ(洗礼者ヨハネのことば)」 [説教]

10月15日、日本聖公会の聖餐式で行われる、福音朗読はマタイによる福音書21章から抜粋された「大宴会の喩え」です。概略は、以下の通りです。

主イエスは、神の国を以下の通り、喩えを用いて、祭司長などに教えます、「ある王の息子の婚礼が開かれようとしていた。王は家来に命じて、あらかじめ招待していた人々のところに、宴会の用意がすっかり整ったことを告げさせた。ところが、人々は無視したばかりではなく、家来たちを侮辱して、挙句は殺すこともあった。王は言った、「招待していた者たちは、婚礼にふさわしくなかった」と。そこで、王は、家来を大通りに派遣して、婚礼に招待すると、会場は善人も悪人も入り混じって、いっぱいになった。さて、会場には、礼服を着ていない男性がいた。王は、「友よ、なぜふさわしい衣服を着てこなかったのだ?」と言って、嘆いた」と。

焦点は、この喩えで語られる神の国に「ふさわしい」とはどういうことかということです。これは、前段のあらかじめ招待していた人々に向けられます。それだけではなく、結末にある、礼服を着てこなかった男性に対しても投げかけられます。では、王にとって嘆かわしい、あらかじめ招待していた人々を、なぜ招待しているように描いているのかが問題として挙げられます。彼らは、王の呼びかけを無視し、農作業や商売に出かけ、家来を侮辱して殺します。まず、家来とは誰かについて考えてみましょう。これは、洗礼者ヨハネをはじめとした預言者のことを指していると考えます。マタイによる福音書の山上の説教には、義のために迫害された人々は幸いである、なぜなら真の預言者たちも同じように罵詈雑言を浴びて迫害されたからであるという記述があります。神のことばを預かった者は、民のために派遣され、迫害され、殺されるケースもありました。洗礼者ヨハネもその一人で、貴族間の酔狂のために斬首された記事が残っています。

では、あらかじめ招かれていた人々とは誰のことなのでしょうか。ここで「ふさわしい」というキーワードを頼りにしたいと思います。マタイによる福音書の冒頭では、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けていた民衆に混じって、ファリサイ派とサドカイ派の人々がやってきました。洗礼者ヨハネは、かなり厳しい言葉を、彼らに告げ、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と命じます。一見、ファリサイ派の人々が自発的にヨルダン川に現れたようですが、実はこの「ふさわしい実を結べ」が、この喩えで言う招待なのなのだと私は考えます。しかし、彼らは、心を入れ替えませんでした。したがって、言葉も、行動も、信じることもできませんでした。つまり、無視したのです。

日常のルーチンをこなし、都合の悪い預言者が現れると、侮辱し、殺しました。その中に預言者としての側面のある主イエスも含まれていたのです。また、「ふさわしい」とは、「価値のある」という意味もあります。悔い改めなかった彼らは、神の目には価値が下がってしまったのです。また、彼らを滅ぼすくだりがありますが、無視してもよい箇所だと思いますが、神の落胆をオバーに表現している箇所と捉えます。なぜなら、紀元70年以降のユダヤ戦争によって、祭司階級であるサドカイ派は滅びましたが、ファリサイ派はそうならず、90年代にヘブライ語聖典のリストアップ、すなわち旧約聖書の選定をリストアップしました。以降、ファリサイ派はユダヤ教の中心になっています。したがって、この部分を間違って読むと、ユダヤ人差別を助長するばかりでなく、絶滅を画策したナチの優生思想と結びついた歴史があります。きわめて取扱注意な箇所ですので、概要に入れませんでした。

そして、礼服を着ないまま宴会の席に着いていた男性のことです。これはおそらく、イスカリオテのユダを指しているのでしょう。主イエスが逮捕される時に、彼はユダに向かって、「友よ」と呼びかけていることが根拠です。ユダは、十二使徒として選ばれ、主の晩餐にも招待されました。しかし、彼は主イエスを裏切り、大祭司たちに引き渡します。彼もまた、主イエスによって選ばれた、「でし」の一人です。マタイによる福音書や使徒言行録では、悲惨な死を遂げたことになっていますが、マルコとヨハネによる福音書には、彼の最期については記述されていません。したがって、イスカリオテと思われる者の失礼は、私たち一人ひとりにも言えることなのです。宴会、すなわち聖餐式に招かれながら、ふさわしい心を身に着けていない、悔い改めにふさわしい実を結びかねている、私たちの現状も示しているのではないでしょうか。

それにもかかわらず、よい知らせがあります。聖餐式には、善人も悪人もともに食事・婚礼の席に着くよう招集されているのです。私たちが現状を心から悔い、言葉と行いを改めるとき、神の喜びは頂点に達するのではないでしょうか。いいえ、間違いなく、神は、私たちをよいと祝福してくださるのです。
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(説教)祭司長の受け止めが誤解であるのなら悪者を滅ぼすというのも誤解である [説教]

10月8日に、日本聖公会の聖餐式で、福音朗読されるのは、マタイによる福音書の21章から抜粋された、「ぶどう園の労働者の喩え」です。

前回も、主イエスは喩えを語っていますが、この朗読箇所が終わってもなお、別の喩えが続いています。主イエスが、これほどに喩えを用いて教えようとするのはなぜでしょうか?おそらく、神の国又は神の支配というものを、人間の言語で説明できるとしたら、もはやそれは神のものではないので、人間の言葉で比喩的に語る他ないという意図であると思います。したがって、喩えに結論があるとすれば、それは隠喩(メタファー)本来の趣旨とは異なるので、一旦除外するのが適切であると考えます。例えば、今回の喩えで言うと、「だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される。」(マタ21:43~44)は、福音記者が導いた結論に過ぎず、この部分はあくまで参考としたいと思います。

では、この喩えの概略を述べましょう。
聞き手は、祭司長や民の指導者、ファリサイ派です。
ある家の主人が、堅固なぶどう園を建設しました。遠方に用事ができたので、それを農夫たちに貸し、旅に出かけました。収穫の時期がやってきたので、主人は帰って来、収穫物を納入するように、使いの者を派遣したのですが、一人ひとりに暴力をふるい、最後の者は殺害する始末です。これには主人も手を焼いて、自分の息子だったら、迎え入れてくれるだろうと見込んで、送り出すのですが、彼までも殺され、ぶどう園の外に投げ捨てられてしまいます。(石垣を造り、見張りのやぐらを建て、要塞化したのが裏目に出たのです。)こう話して、主イエスは彼らに質問しました。「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうすると思うか?」。彼らは、「悪い農夫を滅ぼし、善良な農夫に任せるに違いない」と答えます。すると、主イエスは(以下原文)
「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。
これは主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』

という詩編の一節を暗唱します。

焦点は、この喩えが、暴力をふるい、殺人さえ犯す農夫たちであっても、主イエスが律法という「石垣」を復旧・復興することによって、悪人たちを悔い改めさせる招きとしてのものなのか否かです。例えば、各地にある城郭の石垣をイメージすると分かりやすいと思います。堅固な城のほとんどは、石垣を持っています。しかし、熊本城は、地震によって石垣も損傷してしまいました。したがって、完全復旧には何十年もの時間を要すると言われています。熊本地震で崩れた石垣の岩は、もう役に立たないかのように見えます。建築の専門家の目には、もはや不要なのですが、別の存在には、その岩を活用して、石垣を再建します。

これが、預言者イエスのなさろうとした「律法」の再建なのです。これはもはや、「主がなさったことで、人間の目には不思議なこと」です。では、そこまでするのはなぜでしょうか。悪人を救いたいからではありませんか。神から委託された聖書の言葉(律法、預言、詩編などの諸書)を、元の意図に復旧していくのが、神の意志です。これは悪人を含むすべての人のためのことであって、悪人を排除しても解決にはならないのだと思います。

祭司長たちに繰り返し喩えで勧告するのですが、彼らは誤解します。この喩えが、自分たちへの当てつけであると誤解して主イエスを捕えようとします。彼らの解釈が誤解であるのなら、悪い農夫を滅ぼすというのも誤解です。したがって、祭司長たちのような悪人をも救おうとしているのが神の意志であり、言葉であり、行動であると私は考えます。
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(説教)大衆受けを優先する心ではなく真理に目を向ける心を [説教]

10月1日、日本聖公会での福音朗読は、マタイによる福音書21章から抜粋された「ぶどう園での労働における、きょうだいの心と言葉と行動についての喩え」です。

聖公会には、『聖餐式聖書日課・特祷A・B・C年』が冊子化されており、旧約聖書などや使徒言行録及び使徒書、福音書のそれぞれの朗読個所が抜き出されていて、便利な反面、朗読箇所の前後関係を見落とすという欠点があります。以前の私は、この欠点のもとに、聖書を分析するあまり、解釈に行き詰って、苦悩する日々を送ってきました。数年前に、現在の教会に移り、嘱託奉仕していた執事の日課に拘束されない聖書朗読の実践に心打たれ、以来聖書を礼拝に持参して、開始前によく読むように努めてきました。また、私の尊敬する説教学の教授・司祭が、福音朗読の際、冊子を用いず、聖書ごと開くだけでなく、説教の際にも聖卓(祭壇)に聖書を置いて、そこに手を添えながら説教しているのも記憶に残っています。今は、インターネットの聖書本文検索というものがあり、便利ではありますが、安易になるという欠点もあるのでしょう。私の考え方としては、聖書の全体は本で読み、考えを深めるのを基礎にして、本文検索も有効利用するのが好ましいかと思います。

さて、冒頭の喩えについてです。この前に書かれていることについても重要なので、概略をたどって行きましょう。次のようなものです。
主イエスが、神殿の境内で集まった人々に教えていました。そこへ、祭司長や民の長老が主イエスに近寄ってきて、言いました。「お前は、誰からの許可を得て、こんなことをしているのだ?(神殿は、祭司長の管轄なのだから、当然自分の許可が必要だ。勝手なことをするな)」と。主イエスは「それに答える前に伺おう。洗礼者ヨハネは、誰に許可を得て教えていたのか。天の許しからか、人の許しからか」と言います。彼らは議論しました、「神からだと言えば、我々はヨハネを信じていないので、ナンセンスだし、人からだと答えれば、群衆はヨハネを信じていたので、自分たちに対する支持が減るので怖い。だから『分からない』と答えよう」。そう言うと、主イエスは「分からないなどという不誠実な返答では、ここで行っている許可が誰からのものなのか答える必要はない」と言いました。

「心が変われば、言葉が変わる、言葉が変われば、行動が変わる」という格言があります。上記の場合、イエスのことを格下であると思い込んでいた祭司長たちにすれば、「誰からの許可だ、勝手なことをするな」という高圧的な言葉が出てくるのは必然です。したがって、イエスが天からの許可を得ているなどということは微塵にも信じることはできませんでした。この思い込みと群衆に対する怖れが心であり、高圧的な言葉、信用できないという行動につながっていくのです。

では、喩えの本体を紹介したいと思います。
主イエスは、次の喩えを祭司長たちに投げかけます、「父が息子たちを呼び出しました。兄に対して、「今日、ぶどう園に言って働きなさい」と言います。ところが、兄は「いやです」と拒絶しました。しかし、思い直してぶどう園に行きました。弟にも同様に命じました。彼は「はい、お父さん」と言いましたが、その日のうちに行きませんでした。では、二人のきょうだいのうち、どちらが父の意向に沿っているとあなたたちは考えるか?」。彼らは答えます、「それは兄の方だ」と。

一見すると、当たり前の答えではないかと思いますが、先程の格言を応用すると、この喩えには含蓄があります。初めに兄は、父親の命令に背く心を持っていました。しかし、思い直しました。すると、言葉が変わります。「はい、お父さん」。これは、弟が言った言葉と同じです。父親の前ではなかったのかもしれませんが、思い直すということは、何かに言語化するものです。そして、言葉は実行に移されました。つまり、ぶどう園で働くという行動に変化したのです。これに対し、弟は口先だけで返事をしていました。心は、元々行く気などなかったのです。行く気がなければ、結果として行動は伴わないものです。焦点は、兄の言葉が変わったということと弟にもその日のうちに心が変われば、父の望みに答えられていたのではないかということです。

この後にも主イエスと祭司長のやり取りが続きます。
主イエスは、彼らに宣告します、「娼婦や徴税人の方が、あなたたちより神の国に優先して入る、いやすでに入っている。なぜなら、彼女らはヨハネを信じ、悔い改めたからである。しかし、あなたたちは信じようとしなかった。心は群衆の支持を失いたくないと怖れ、ヨハネの許可については「分からない」という不誠実な言葉を吐いている。結果、ヨハネが説いた正義の道を信じない」と。

こうして、多くの民衆が主イエスの教えを受け入れ、ことに娼婦や徴税人の中には、その職を離れて「でし」になり、自暴自棄の生活から生き甲斐を見出しました。しかし、この喩えには「今日、ぶどう園に行きなさい」との父の命令があったように、時間的な幅が示されていることに注目したいと思います。したがって、祭司長たちにもまだ時間的な猶予があることを示しています。そのためにはまず、群衆の支持を失いたくないという恐怖を乗り越えなくてはなりません。その心が大衆受けを優先するのではなく、「真理」に目を向けることが大切です。祭司長や民の長老たちとは、その逆でありましたが、この喩えを通して、兄のような成長を彼らに求めていたのが主イエスだったのだと思います。
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(説教)一面的なことに捕らわれている私を解放する存在 [説教]

きょうは、広島に原子爆弾が投下され、甚大な「犠牲者」を出した78回目の記念日です。
一般的に、第二次世界大戦の始まりは、1939年のナチ・ドイツによるポーランドへの侵攻とされていますが、1937年の日中全面戦争から始まったとも言えるのではないかと思います。つまり、日本軍のアジア諸国への侵略が、アメリカの原爆投下によって、終止符を打たれたとも言えます。なぜ、広島に原爆が投下されたのでしょうか。それは、そこが陸軍を送り出す拠点であり、また大本営を置かれたこともある「軍都」だったからです。これらの加害行為を抜きにして、原爆の被害のみを語ることは、どこか真実から目を背けているような気がします。

さて、9月29日は、日本聖公会の呼称で「聖ミカエルおよび諸天使の日」ですが、福音朗読される箇所は、ヨハネによる福音書1章から抜粋された「ナタナエルの召命」の物語です。前後を含めると、それはおおよそ次のようなものです。

ファリポという十二使徒の一人が、ナタナエルという人物に声をかけて、ガリラヤのナザレ出身のイエスこそ、キリストであると言いました。しかし、ナタナエルは真に受けず、「イエスに会おう」という誘いに応じませんでした。

ところが、主イエスが「でし」たちを引き連れて、ナタナエルのところに来、彼のことを「まことのイスラエル人だ」と称賛すると、彼は驚き、「どうして私のことを知っているのですか?」と問わずにはいられませんでした。主イエスは言いました、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木に座っているのを見た」と。すると、ナタナエルは、「あなたは、キリストです」と告白します。それをきいて、主イエスは、「座っていたことをみたと言ったから信じたのか。あなたたちは、もっと大きなことをみる」と言い、続けて「天が開け、神の天使が、私の上を昇り降りするのをみる」と言って結びます。

この後、ガリラヤのカナという地で、水をぶどう酒に変えるという奇跡を顕します。

この物語の焦点は、主イエスによるナタナエルの「発見」が、すでに神の天使の昇降である「最初の奇跡」であるか否かにあるのだと思います。一般的に、カナの婚礼が最初とされますが、ナタナエルが驚き、「あなたはキリストです」と宣言しているところは、まさに人間業とは言えない奇跡であると言えるのではないでしょうか。彼は、フィリポからイエスと面会するように勧められていましたが、主イエスの生地であるものの、辺境の村に過ぎない「ナザレから善い者が出るだろうか?」と言って、主イエスのことを軽んじます。しかし、主イエスの眼力がナタナエルを大きく変えるのです。

私たちの中に起こる「イエスはキリストである」という信仰もまた、自らの力でそれを見出したのではなく、実は主イエスが天から使いを出して、私たちを「発見」したことによると言えます。「ナザレから善い者が出るだろうか?」という疑念は、現代日本の中で、多くの人がキリスト教信仰に抱くつぶやきと言えます。特に近年のカルト宗教への注目もあってか、キリスト教とは「何か現世において、御利益があるから信じるのでしょう?」という質問をある人から受けました。現代人の多くは、科学的に証明されたものでなければ、信じることはできないが、快楽に身を任せることによって、死は確実に来るという厳粛な事実を忘却することができると、実は「信じている」のです。そして、「目に見えない」主イエスや諸天使、諸聖徒は迷信に過ぎないと疎んじている印象を、その人から感じました。

さて、私は双極性障害という慢性疾患を持っています。躁状態では、人生がばら色のように感じ、希望にあふれ、精力的に活動できますが、うつ状態の時は、その逆で、人生は苦しみの連続であり、意味があるとは思えず、自殺のことばかり考え、憂鬱な気分を抱えて布団の上で悶々としています。今朝、NHKの番組の一つである『あの人に会いたい』という故人の業績などを短くまとめた番組をみました。そこで、こんな言葉に出会いました、「決して絶望せず、しかも決して過度の希望をもたず、日々の仕事を」全力で取り組む(広島原爆病院初代院長であった重藤文夫氏の言葉)。双極性障害の浮き沈みもまた、過度の絶望と過度の希望を往来しているものです。しかし、諸天使もまた、私や障害者の上にはしごをかけて、往復しているのではないでしょうか。それを発見する時、いいえ主イエスとそれから派遣される天使によって、私たち一人ひとりが発見される時、一面的なことに捕らわれていることから解放させてもらうと言えるのではないでしょうか。その点に目を向け、歴史における、日々の人間関係における加害と被害の両面をよくみつつ、犠牲者の鎮魂を行う、そんな78年目の記念日としたいと思います。
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(説教)因果応報をよりどころとする仏教とは根本的に異なるところ [説教]

9月24日、日本聖公会の聖餐式で福音朗読される箇所は、マタイによる福音書20章から抜粋された、「ぶどう園の労働者の喩え」です。概略は、以下の通りですが、私が「抜粋された」と書いているのは、該当箇所の前後関係をよむことで、思わぬことを発見し、視野狭窄を防ぐことを示したいからです。

したがって、この喩えの前に、どんなやり取りがあったかをたどってみましょう。
ある金持ちの青年が、主イエスに「永遠の命を得るためにはどんな善いことをしたらよいのですか?」と尋ねます。(中略)最後に、主イエスは答えます、「持ち物を売って、貧しい人々に与えなさい。そして、私に従いなさい」と。ところが、青年は金を惜しんでしまったので、即答できず、苦悩しながら帰って行きました。主イエスは、「でし」たちに言いました。「金持ちが神の国に入るのは、なんと難しいことか。彼らが、神の国に入るよりもラクダが針の穴を通る方が、まだ易しい」と。弟子たちは、「それでは、誰が救われることができるのでしょうか」と驚きました。主イエスは彼らを見つめて、「それは人にはできないが、神にはできる」とまともに答えませんでした。(中略)

さて、この対話の焦点は、話題が「永遠の命を得ること」にあることです。一見、青年は金を惜しんで去って行き、その様を喩えると、「金持ちが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通る方が易しい」、つまり不可能だと主イエスは宣告します。当時の社会通念は、金持ちである程、神の祝福に恵まれているのであり、貧乏人はさげすまれている傾向でした。例えば、アブラハムは、多くの財産を持っていましたし、ヨブ記の主人公であるヨブも大変な財産家でした。しかし、金持ちも死を免れることはできません。永遠の命を得るにはどうすれば善なのかを助言してもらうために、青年は主イエスのもとに近寄ってきたのです。

結局、完全な方法としては、持ち物をすっかり売り払い、貧しい人に施して、自分の弟子になりなさいということでした。カルト宗教なども、このようなことを要求することが多いので、この箇所は注意して読む必要があります。実は、これもあくまで比喩的なもので、真に受けると危険です。なぜなら、主イエスは「人にはできない」と言っているからです。しかし、神の助けがあれば、つまり聖霊が働ければ、内容をよく理解して適切に金持ちから貧者に分配することができるということを、「人にはできないが、神にはできる」と言っているのです。ですから、青年が悩みつつ去って行ったことは重要です。主イエスの言葉をうのみにして、過激な行動に出るのではなく、この出会いを糧にして、再出発しようとしていたのではないでしょうか。

前置きが長くなりましたので、ぶどう園の労働者の喩えは必要最小限にとどめたいと思います。それはおおよそ、このようなものです。ぶどう園には三種類の労働者がいました。早朝から働いている者。正午から働いている者。夕方四時から一時間だけ働いた者。この三者ですが、彼らはぶどう園の同じ主人から雇われたという点は共通していました。夕方五時になり、労働は終わって、日当を渡す時がやってきました。主人は、少ない労働時間だった者から列に並ばせると、日当一万円ほどの銀貨が支給されました。これを見て、早朝から働いていた者は、もっともらえるものだと思い込み、進んでいくと、なんと同じ銀貨なのです。これには、主人に不平不満が爆発しました。ところが、主人は、どの労働者に対しても契約の際、銀貨一枚の報酬という約束をしていたのだから、そうするのが自分の意向なのだと宣言します。

この喩えは、まともに考えると、不公平としか言いようがありません。しかし、問題は永遠の命という、「性質の問題」と「銀貨という数量」とを並べて混同するところに、誤解が生じやすい典型的な例です。では、主イエス自身が誤解していたという訳ではなく、この喩えを通して、聖霊を得るというのは人間の感覚をはるかに超えている事柄、つまり神の国の事態を「でし」たちに熟慮してもらいたいという意図で語っているのだと私は考えます。つまり、主イエスのもとで、奉仕した時間が長ければ長いほど、そして少なければ少ないほど、与えられる聖霊の質に変化があることは、決してあり得ないということを強調しているのです。質のことを言いたいのに、銀貨という数量と比較しているから、不公平に映りますが、聖霊の分与はキャリアには拠らず、まったく平等だということを喩えているのではないでしょうか。

これは、ルカによる福音書の「放蕩息子の喩え」における兄の不平とも共通するところです。生前分与をしてもらって、豪遊した果て、何もかも失い、豚小屋で働いていた弟でしたが、父親の農園で一労働者として雇ってもらおうということを発見し、帰還します。そして、父親に歓待されるのですが、そのあまりにも豪華すぎる歓迎に、兄は父親に不平を漏らします。「自分が友達と宴会を催そうとしたときには、お父さんはヤギ一匹くれなかったのに、あの不浄で、お調子者の弟のためには、牛を屠って、肉を提供しています。あんまりではないですか」と。しかし、父親は兄をなだめます、「お前は、この農園で自分と一緒だった。そして、平安だった。あいつは死線をさまよっていたのだ。お前と一緒にいたこと自体がよいことなのだから、きょうのところは大目に見てやれ」と。

私たちは、何も生き甲斐や使命感のない時に、生きる意欲を失います。神との関係において、例えば教会歴、信仰歴が長いからと言って、それに則った恵みがある訳ではありません。そこが、因果応報をよりどころとする仏教とは根本的に異なる、キリスト教の特質なのです。

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(説教)強がる偽善者への皮肉 [説教]

9月21日は、日本聖公会の呼び名で福音記者使徒聖マタイ日という祝日です。この日に朗読される、福音朗読はマタイによる福音書9章から抜粋された「徴税人マタイの召命」の物語です。その概略は以下の通りです。

マタイという徴税人が職場に座っていましたが、それを主イエスがみて、「私に従いなさい」と呼びかけると、彼はすぐに立ち上がって、弟子になりました。彼こそ、十二使徒のひとりである徴税人マタイです。伝説では、このマタイが福音書の一つを執筆したということで、福音記者と呼ばれています。

さて、主イエスがある人の家で食事の席に着いていた時のことです。そこには娼婦や徴税人(罪人は隠語)が大勢集まっていましたが、ファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネの「でし」たちも招かれていました。しかし、ファリサイ派やヨハネの「でし」は、「不浄な」娼婦や徴税人と食事を取るのを拒んでいたようです。そして、主イエスの「でし」たちに「なぜ、あなたたちの先生は、娼婦や徴税人と食事をするのか?」と詰問しました。主イエスは、その様子をきいて、言われました。「預言者の『神が求めるものは、慈しみであって「いけにえ」ではない』という言葉をきいたことがないのか。私が来たのは、『正しい人』を招くことに優って、まずは『罪人』を招くためである」と。

まず、この概略には私の解釈が混入していることを断らせてもらいます。原文には、「ファリサイ派の人々やヨハネの「でし」たちも招かれて」いたとはありません。おそらく、「『正しい人々」を招くのではなく」と主イエスが宣言していることによるのでしょう。それでしたら、なぜファリサイ派は同席して、主イエスの「でし」に質問していることになるのでしょうか?勝手に侵入してきたのでしょうか?また、この概略に続いて、「その時」ヨハネの弟子たちも、主イエスに「ファリサイ派は努めて断食をしているのに(自分たちもそうしているのに)、あなたの「でし」たちは、なぜ断食しないのですか?」という非難をしました。したがって、「その時」、「誰かの家で」、主イエスと「でし」たち、娼婦と徴税人、ファリサイ派の人々とヨハネの「でし」たちは、同じ空間にいたのです。

次に、ファリサイ派たちは、自分は善人で悪人である娼婦と徴税人とは一線が異なっているので、食事をとろうとしませんでした。「断食」という言葉が出てくるのは、そのためです。せっかく、尊敬するイエスが食卓に招いてくれたのに、拒否するのは失礼だから、我々「穢れのない者」は、今断食中なので、食べられませんと言い訳をしていたと考えられます。

さて、私はあえて「善人」と「悪人」という言葉を用いました。なぜなら、マタイによる福音書には、次の言葉があるためでもあります。すなわち、「神は、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、善人にも悪人にも雨を降らせてくださる」というものです。この言葉は、善人と悪人には明確な線引きはなく、それをするのは人間の勝手な解釈であって、そもそも善人や悪人を明確に区別するのは、ナンセンスであるということなのです。したがって、ファリサイ派やヨハネの「でし」たちは、今の時期は断食を行っているというふりをして、自分たちを正当化するのは、実は偽善者と言って差し支えないでしょう。主イエスが「丈夫な者に医者はいらない、いるのは病人だ」という、当然ですが、「善人」の強がりを風刺する格言を発したのは、このような偽善者に対する皮肉だったのです。

ヨハネの「でし」たちの断食に対する問いかけに対し、主イエスは、次の比喩を言います。「花婿が一緒にいる間、婚礼に集まった客人が断食するだろうか?」と。これも痛烈な皮肉です。あなたたちファリサイ派やヨハネの「でし」たちは、食事に箸をつけようとしない、こんなに興ざめなことはあるだろうかという暗示です。続けて言いました、「花婿が取り去られる時が来る。来たら、私の「でし」たちは、断食することになる」と。しかし、福音書には「でし」たちがそうしたという記事は残っていません。したがって、主イエスが処刑された後、「でし」たちは、まったく生まれ変わる、それは断食にもまさるというニュアンスだと私は理解します。

本来、朗読個所は「罪人を招くために来たのである」で終わりますが、主イエスが娼婦や徴税人に心を砕く一方、ファリサイ派やヨハネの「でし」たちも招き、その問いかけに暗喩で答えるというのも、とても大事なことなので、あえて付け加えさせてもらいました。

話が飛躍するかもしれませんが、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という主イエスの言葉は、鎌倉仏教の一つである浄土真宗における、親鸞上人(聖人)の説いた、「悪人正機(又は悪人正客)」と通ずるものがあると考えます。親鸞は、『歎異抄』の中で、次の言葉を残しています、「『善人』が救われるというのなら、『悪人』こそは、なおさら極楽に往生する」と。まじめな人は大半、自分のことを悪人であると自覚しないものです。「こんなにまじめに生きているのだから、極楽に往生するのは間違いない。なのに、親鸞上人はなぜ悪人こそが救われると言うのだろうか?」という言葉をきいたことがあります。実は、『悪人』とは、「自分は、どうしようもない悪(犯罪ではなく、根源的な背き)の内を生きている者である」というような内省ができる者を指しており、偽善者は表面的な行いをもって、自分のことを是とするのだから、この悪人正機は理解できないのだと私は考えています。

「神が求めるのは、慈しみであって、『いけにえ』ではない」における「いけにえ」もそのような文脈での偽善であり、形骸化した律法理解(例えば断食もその一つ)への警告であり、むしろ罪人(娼婦や徴税人)の内省の中に、神の原点に回帰する可能性を示しています。

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