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(聖書研究)父なる神は教会を見捨てなかったのは歴史が証明している [聖書研究]

再度、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言う主イエス絶命の言葉について、マルコによる福音書から考えたいと思います。まず、「わが神」とは他の箇所では、どのように呼ばれているのかを確認します。ゲッセマネの園で、主イエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります」(14:36)と神の名を呼んでいます。「何でもおできになる」は、「十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:30)と言う通行人の愚弄の言葉とは対照的ですが、全能の父の子なのに、なぜ十字架に付けられたまま絶命し、悲痛な言葉を発した者として、(「読者」(13:14)を意識して)描いているのでしょうか。それは、ペトロを首根っことする教会が、主イエスを否定した、つまりイエスはキリストではないということを決定的に告げてしまったことから始まります。

「なぜ私を」の「私」を教会に置き換えてみたいと思います。「父よ、なぜ私の教会をお見捨てになったのですか」と言う絶望的な叫びです。実際、ペトロは雲隠れし、主イエスの墓に行こうともしませんでした。それでも「白い衣を着た若者」(16:5)は、(変容の記事(9:1~13)と重ねると、これが復活の主イエスであることが分かりますが、)「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」(16:7)と女性たちに命じます。

主の晩餐の直後にも「しかし、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(14:28)とも宣言していますから、ガリラヤで復活の主に会見することは確かな約束でありました。ペトロやヤコブ、ヨハネ、アンデレと言った主要な弟子が漁師であったことを考えると、かつては捨てた網を取って、所在無げに漁をしていたことが想像できます。しかし、それ以上のことを膨らませても、あまり意味はないでしょう。ただし、マタイと同様に、マルコもまた、原点への回帰をテーマとしていたのならば、それは教会に関する四つの譬えに収斂すると思います。

種を蒔く人の喩え、灯と秤の喩え、成長する種の喩え、からし種の譬え、これらはいずれも教会の成長のことを物語っており、出発はガリラヤの漁師であった四人の弟子からだったのです。したがって、主イエスの絶命の言葉は、父なる神よ、なぜ教会をお見捨てになったのですか、そしてどうやって「すべてを建て直す」(9:12)のですかという深い配慮と言えるのです。そして、成長する種の喩えのところで言及されている、実を鎌で刈り入れるとの比喩に意味が出てきます。エルサレムでは分散していた弟子が、ガリラヤで再結集し、収穫の時が来たことを予示します。「時は満ち、神の国は近づいた」(1:15)とはその刈り入れのことであり、「イエスはキリストである」ことを否定したペトロを立ち直らせることが教会の再出発だったのです。父なる神は教会を見捨てなかったのです。それは歴史が証明しています。
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(問題提起)聖書における推奨(善)と禁止(悪) [聖書研究]

ヘブライ語聖典(旧約聖書)とギリシャ語聖典(新約聖書)では、何を善(推奨)とし、何を悪(禁止)としているのか、参考までに整理してみました。思い切って意訳を試みました。皆様のご意見をお待ちしています。
禁止とは、つまり人から絶対に奪ってはならないということです。敷衍すると、
傲慢、戦争、拷問、自爆テロ、特殊詐欺などは完全に否定されます。
推奨とは、つまり、まず人に思いやりを与えなさいということです。その逆は怠慢です。敷衍すると、
お金をかけなくてもできる、例えば挨拶する、道を譲るなどの施与があります。
慈善事業とそれに対する寄付があります。

十戒の禁止規定(出エ20、本質を取って意訳、後尾の番号は節)
私をおいてほかに神々があってはならない3
すなわち、自分自身を神にしてはならない
さらに言い換えれば、自分自身を客観視する智慧を持て
自分のために彫像を造ってはならない4
→同上
「あなたの神」の名を虚しく唱えてはならない7
人命を奪ってはならない13
すなわち戦争をしてはならない
併せて、自殺してはならない(新設、13と12と関連して、自分の命は父母を通して神からいただいたものだから)
人の夫妻と不倫してはならない14
人の物を盗んではならない15
人の物を奪うために共謀してはならない16
人の物を奪うと心で欲してはならない17

十戒の推奨規定(意訳)
安息日、すなわち自分を客観視する時を聖とするためにこれを覚えよ8
あなたの父と母を敬え12
併せて、自殺してはならない(新設、13と12と関連して、自分の命は父母を通して神からいただいたものだから)

その他の推奨規定(意訳)
聞け、すべての人よ。「私たちの神」は自己絶対化に抗う主である、と。
すなわち、自分自身を神にしてはならない
さらに言い換えれば、自分を客観視する智慧を持て
心を尽くし、魂を尽くし、言葉を尽くして「あなたの神」を尊びなさい(申6:4〜5)
隣人を自分だと思って何事も行いなさい(レビ19:18、ロマ13:8)

私が喜ぶのは不断の思いやりと自分を客観視することであって、形式ではない(ホセ6:6)

人から思いやりを受けたいのなら、まず、あなたがたは人に思いやりを与えなさい。これこそ律法と預言者である(マタ7:12)

律法の中で最も重要なのは、公正、不断の思いやり、誠実である(マタ23:23)
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(試論)死後の裁判と判決(神の国かゲヘナか) [聖書研究]

誰も死後のことは分かりません。しかし、主イエスが残したマルコによる福音書13:1~13の、いわゆる「小黙示録」を読むことなどによって、手がかりを得ることは可能だと私は考えます。そして、これを少しでも明らかにすることは、地上において、何が神に喜ばれるのか否かをめぐる、私たち一人ひとりの生きる意味に係わってくると思いますので、参考にしていただけたら幸いです。

聖書の引用と略号は、『聖書共同訳』によります。
◆死ぬときの心がけ
(人に惑わされないように気をつけなさい)マコ13:5
(慌ててはいけない)マコ13:7
■法律
神と隣人に対する
してはならなかった点=禁止事項(十戒の前半と後半)
しなければならなかった点=推奨事項(十戒の中盤)、(最も重要な掟)
「わたしたちは、してはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣り人に対して多くの罪を犯しています。(聖公会の懺悔を参考)
◆裁判
◎裁判に臨む心がけ(自分のことに気をつけていなさい)マコ13:9
◎場所(地方法院に引き渡され)13:9
〇キリスト=裁判長(王の前に立たされて)13:9
●告訴
〇検事=天使長(連れて行かれ、引き渡されたとき)13:11
(日本聖公会の懺悔=「天の全会衆(中略)の前に、わたしは、(中略)多くの罪を犯しています」を参考)
●被告人の冒頭陳述など
〇聖霊(ヨハネによる福音書に頻出する「別の弁護者)つまり、弁護士)
罪の告白
(あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ)マコ13:11
(証しをすることになる)マコ13:9
●被告人質問(兄弟は兄弟を、父は子を引き渡し、子は親に反抗して死なせるだろう)
●判決
無罪なら神の国(最期まで耐え忍ぶなら救われる)へ マコ13:13
有罪ならゲヘナ(陰府(「よみ」と読む)、別訳では地獄)へ
ゲヘナについての出典
・もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つの目になって神の国に入るほうがよい。(マコ9: 47)
・ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない。(マコ9:8)
・しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。(マタ5:22)
・体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタ10:28)
・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いゲヘナの子にしてしまう。(マタ23:15)
・蛇よ、毒蛇の子らよ、どうしてあなたがたはゲヘナの裁きを免れることができようか。(マタ23:33)
・誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。(ルカ12:5)
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(推理)「イエスの愛しておられた弟子」(ヨハ21:20)とはラザロである [聖書研究]

12月27日は、日本聖公会の呼び名で「福音記者使徒聖ヨハネ日」ですが、この日の聖餐式等で行われる福音朗読は、ヨハネによる福音書21章から抜粋された、ペトロと「イエスが愛していたあの弟子」をめぐって、聖公会等では、その人物こそ福音記者ヨハネである、と見做しています。しかし、私はベタニアでよみがえらされ、その後随伴したラザロであると探求してみたいと思います。

焦点は、歴史的・一般的にこの弟子は、ゼベダイの子ヨハネであると信じられてきましたが、彼のような初期の弟子について、匿名であるのは疑問ではないかということです。21章をたどって行くと、復活した主イエスは、七人の弟子にティベリアス湖(ガリラヤ湖)畔で顕現したと記述されています。弟子のリストは、ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイのヤコブ、ゼベダイの子ヨハネ、それに他の二人の弟子とされています。この「七」という数字は、使徒言行録における「七人の執事の選出」などにみられるように象徴的な数字で、実際とは言えないものと考えますが、なぜ「他の二人の弟子」という暗示を付け加えているのか、また13章以降に登場する「主の愛しておられたあの弟子」(21:7)とは、いったい誰のことなのか、追及してみると、以下のような仮説に至りました。

まず、当日朗読される箇所は、21:19以降で、ペトロの殉教がほのめかされてあります。それに対し、「イエスの愛しておられた弟子」は、ペトロにとって、どういう最期を遂げるのかが気がかりだという描写です。つまり、ペトロは殉教しますが、対してこの弟子は殉教しないという構成になっていると考えます。すると、ゼベダイの子ヤコブは除外されます。なぜなら、彼は暗殺されるからです(使徒言行録12:2)。すると、ゼベダイの子ヨハネと他の二人の弟子が「匿名の弟子」ということになりますが、ヨハネを匿名にするのは、ゼベダイのヤコブと同様、彼らは「初期の弟子」なので、わざわざ名を隠す理由はないと考えます。

さて、「イエスの愛しておられた弟子」という表現が初めて出てくるのは、13:23の「イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者が席に着いていた」です。これは、過越祭における、主の晩餐(いわゆる「最後の晩餐」)の描写ですが、他の福音書の記録からすると、十二使徒のみであって、ラザロは該当しないのでは、という疑念が生じます。ところが、ヨハネによる福音書では、十二人という限定はありません。そして、この前に、「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた」という主の晩餐における情景と酷似した描写があります(12:1~2)。

では、主イエスにとって、ラザロはどう思われていたのかを調べてみたいと思います。11:5には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書かれていますし、涙を流したイエスに対し、ユダヤ人は、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったという客観的描写もあります。このように、エルサレム近郊のベタニアという地に、マルタとマリア、ラザロというきょうだいの「家」があり、主イエスは頻繁に通っていたこと、およびユダヤ人の襲撃という危険を冒してでも、ラザロの病気を治癒するために旅立ったという記事(11:5~16)があることも、主イエスの三きょうだいに対する愛情は大きかったと言えます。

次に、主イエスの母の扶養を委託された弟子もラザロではないかという推論です。その理由は、「この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」という記述があるからです。自分の家とは、ベタニアの三きょうだいの家ではないか、なぜなら高価な香油を用意できるほど、裕福な家であるからという根拠です。しかし、ユダヤ人から付け狙われていたラザロが、主イエスの刑場にいたというよりも、避難した可能性が高いことを考えると、いささか脆弱な根拠とも言えます。

次に、主イエスの墓に遺体がないという報知を、マグダラのマリアから受けて、ペトロとこの弟子が、墓まで走って行ったという記事があります。このような重大事を匿名にするのは、ペトロとの関係性が高いことを意味しています。ここで、21章の「他の弟子」とはペトロの兄であるアンデレのことであり、すなわち彼こそ「イエスの愛しておられた弟子」ではないかとの可能性が浮上します。しかし、10節には、この弟子が「家に帰って行った」とありますから、エルサレム近郊のベタニアに家を持っていたのは、アンデレではなく、ラザロであったという推論に戻って行きます。

最後に、21章の大漁の奇跡の後のやり取りです。この弟子はペトロと関係の深い人物であることは確実です。なぜなら、主の晩餐において、主イエスのことをユダヤ人に引き渡すのは誰かを尋ねさせる合図をしたのはペトロであり、このことが、追想されています。ペトロは、主イエスからペトロの死に方が殉教であり、対して、この弟子はどうなるのか質問します。これは、ラザロが蘇生されたのを受け、この人は、もはや死なないのではないか、という最も問いかけとも言えますし、死なないという噂になったこととも結びつきます。しかし、主イエスの関心は、ペトロが殉教するまで従うということでした。そして、この弟子はペトロよりも格上ではなく、「ペトロに付いて来」た、とある通り(21:20)、ペトロの随伴者であったと考えられます。

このような推論から、主イエスが愛していたあの弟子とは、蘇生されたベタニアのラザロであり、その第一の役割は、主イエスから託された母マリアの扶養にあったと考えます。
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神が提示する正義は社会的不公正を拒絶すること [聖書研究]

四月二日日曜日復活前主日

今日は小説ではなく、聖書研究をしたくなりました。

該当箇所は、日本聖公会聖餐式聖書日課第一朗読(旧約聖書)箇所は

イザヤ書45:21-25ですが、聖書協会の単元に基づき、45:14ー25とします。

結論から先に申し上げます。

キーセンテンスは、「私は主、義を語り、正しいことを告げるものである。45:19c」と私は抽出しました。

そして、キーワードは繰り返し出てくる「(正)義」です。

理由は、

45:14-25をみると、19節と20節の間には隙間があり、19節cこそ全体の折り目になるからです。

さらに確認したい方は、句点ごとに番号を振ると、20節aがちょうど中央になりますので、そうしてみてください。

この単元には「義」、「正しいこと」、「正しき」、「正義」という類語が繰り返されます(おそらく、ヘブライ語で「ツェーダカー」)。

キーセンテンスと比較すると、45:23b-cの「私の口から正義の言葉が出たら/その言葉は取り消されることはない。」に対応すると考えます。

すると、「正義」とは何かという素朴な問いかけが生まれます。

この問いをめぐって、イザヤ書66章すべてを通読しなければならないのでしょうか?

私は推定してみました。

イザヤ書は66章からなるので、その中間の33章あたりに「正義」を具体的に示す手掛かりはあるのではないか、と。

結論を言うと、ありました。

神の恵みの先行を前提とすると、

33:10の「主は言われる。/いま私は立ち上がる。/今、私は自らを高くし/今、私は身を起こす。」

に対応して、

33:15の「正義によって歩み/正しいことを語り/虐げによる利益を拒み/手を振って賄賂を取らず/耳を塞いで流血の謀を聞かず/目を閉じて悪を見ない者」

が人間の応答になると考えます。

この節は、「虐げ」以降を裏返すと、それが「不正」であることを物語っています。

すなわち、

虐げによる利益を(平気で)好むこと→経済的不正

手を振ることなく(平気で)賄賂を取ること→政治的不正

耳ざとく(平気で)流血の謀を聞くこと→武力的不正

目のあたりに(平気で)悪を見ること→宗教的不正

このような社会的不公正を拒絶するのが、少なくともイザヤ書における「正義」であると考えます。

そして、このような不公正は、地球規模の格差社会という形で蔓延しています。

私は、精神障害者の一人ですが、文筆をすることで、「輝いている」生涯を送っているのなら、このような不公正と闘っているのだと自負しています。

イザヤ書32:17に「正義が造り出すのは平和。/正義が生み出すものは/とこしえに至る静けさと信頼である。」とあります。

神が提示するのは、正義による平和であり、平和は静寂と信仰を呼び覚ますものであることを痛感することができました。

やはり、「ペンは剣より強い」のです。

以上です。
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