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(奨励)幼児洗礼で洗礼が形骸化してしまった中での堅信の学びの重要性 [奨励]

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2024年12月8日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書3章から抜粋された「悔い改めの洗礼の準備」についての御言葉です。

主イエスの公生涯の始まりの前に、洗礼者ヨハネの登場があります。もし、彼の活動がなく、悔い改めの洗礼がなかったら、キリスト教は、ごく限られた範囲にしか及ばなかった可能性が大いにあります。ルカのみが、引用されているイザヤ書の末尾に「人は皆、神の救いを見る」を加えているのは、その意図があるのです。また、イザヤ書で大事な言葉は、「主の道を備えよ」です。

洗礼や堅信の前に、使徒信経や主の祈り、十戒を学ぶのはそのためです。旧約聖書に始まるこの物語と福音書の末尾は、つながりがあります。こうあります、「私についてモーセの律法と預言の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」。詩編が出てくるのは、諸書の代表だからです。つまり、旧約聖書全体が真理であるということです。したがって、十戒を学ぶことは、とても重要なことです。特に、ロシアによるウクライナ侵攻の中にある現在、「殺してはならない」という戒めは現代的意義があります。

さて、「悔い改めの洗礼」とあることから、「幼児洗礼」の是非について、考えたいと思います。悔い改めとありますから、本来知性のある年代が洗礼の対象になります。しかし、旧約聖書では、割礼が契約のしるしとなっており、ユダヤ教では、生後八日目に割礼を施す慣例ができました。キリスト教もこれに倣ったものと言えます。しかし、前述の通り、信仰には準備が必要です。私は幼児洗礼の意義に重きを置きません。ここで、大事になってくるのが堅信であり、十戒を学ぶことです。

十戒はしてはならないことの羅列のようですが、実は自分を後回しにしなさいとの神の招きです。例えば、第一戒に「私の他に神々があってはならない」とありますが、これは他宗教の否定というよりも、自分を神にしてはならないということなのです。これは名誉欲と関係があります。例えば、会社の社長になったとして、机に自分の職名と氏名を刻んだネームプレートを置くのを見たことがあると思います。

これが、名誉欲の一つの例であり、刻んだ像というのは、ネームプレートのことなのです。それ自体は、悪いことではないことかもしれませんが、社長なき後に、誰がそれを引き継ぐかで、社内に骨肉の争いが生じれば、それは唯一神を否定し、偶像崇拝に陥っているということになります。したがって、十戒は自分のこととして捉えないと、単なる教条主義になります。このように、悔い改めの堅信(洗礼)のための学びは、幼児洗礼によって、洗礼が形骸化してしまった現代の教会で重要な位置を占めるのです。

つまり、洗礼者ヨハネではなく、「堅信者ヨハネ」なのです。
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