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主イエスが罪人を「贖う」ことと信仰者の「想起」という救済の両面性 [論説]

キリスト教の根本教理の中に「贖罪」がありますが、この言葉は正しくは「贖罪人」です。例えば、「汚名を挽回する」という誤った表現がありますが、主イエスは「罪」という概念を選び取って買い取る、すなわち「贖う」のではなく、「罪人」としての人間をまるごと選び抜いて、ご自分のものとするのが贖いであり、言い換えれば贖罪人ということになるのが私の主張です。
では、贖罪人とはどのようなことを指すのか考えていきましょう。ここであるイメージを用います。最近問題になった、ホストクラブに多大な借金を背負わされ、風俗店で働かされることになった女性を事例にします。この女性に仕組まれた構図こそ、「贖罪人」のイメージにぴたりとあてはまるケースだからです。しかし、彼女が罪人であると言いたいのではなく、構図そのものが「贖う」という意味を明確にする目的です。まず、彼女は風俗店に押し込められることになり、不本意な労働を強いられています。その労働から逃れようとすれば、風俗店と結託している暴力団に逃亡を妨害されます。つまり、彼女は監禁され、強制労働をさせられているのです。
ここで、主イエスの「贖い」が登場します。主イエスは「奴隷の家」である風俗店から彼女を救い出すべく行動を「起こす」とします。しかし、救出には暴力団と闘わなくてはなりません。主イエスは風俗店に乗り込み、かろうじて彼女を逃すことに成功しますが、暴力団のピストルの弾丸により、失血死します。このような様を「血による贖い」と言います。主イエスの十字架の血による贖い、しかも、ただひとたびの完全なそれによって、実はキリスト教徒一人ひとりは「奴隷の家」(ここで言う「風俗店」)から解放されているのです。
しかし、奴隷の家はどこか別のところにあるのではなく、実は自分の中にあるというのがキリスト教の奥深さであるとともに、ややこしいところです。そこで、自分の中の罪とは何かを具体的にみていきましょう。聖公会の『祈祷書』に「嘆願」というものが収録されています。そこには、「心の迷い、高慢、虚栄、偽善、ねたみ、憎しみ、恨み、またすべての無慈悲」及び「不品行」が列挙されています。これらの思い、言葉、行いと言えますが、「不品行」については、同性愛などのように、時代と共にその概念が変わっていくことに注意を払いたいと考えます。
つまり、心の迷い以下は、自分の心に巣食う奴隷の家であり、ここから逃れるためには自分の力では決してできることではなく、主イエスの命を懸けた起動により、完成されたと信じているのが私たちキリスト教徒なのです。これは、主イエスの失血死に留まりません。この罪人の贖いは、主イエスの死からの復活により、新しい「いのち」と一体化することにも及びます。
復活の教理もまた、説明を要することです。これは、神秘としか言いようのないことですが、あるイメージを用います。人間は死ねば、身を横たえますが、復活とはここから「立ち上がる」ことを意味しています。聖餐式の前に「チャリス」という盃に「パテン」という受け皿が乗っかっていますが、パテンには聖別される前の種なしパン(ホースト)が、置かれてあります。すなわち、聖餐式の前には「失血死した」ホーストが横たえられています。これが、感謝聖別祈祷により、会衆に向かって縦方向に顕示(エレヴェーション)されます。これが「復活」を示しているのですが、注意しなくてはならないのは、聖餐式において主イエスの死と復活が繰り返されているのではないということです。
ここで、会衆による想い「起こす」という救いに向けての行動が求められます。先に、私たちの救いは主イエスによるほかないと述べましたが、それは出発点であって、終点に至るには会衆の「想起」なしにはあり得ないのです。つまり、主イエスが行動を「起こしている」という信仰と、主イエスを想起するという信仰の両面性があって初めて成立することだからです。その前提として、私たちは「心の迷い」などの罪を負っているという自覚と、主イエスの起動による回復、そして復活のからだとの一体化、これらが目に視える形で行われるのが聖餐式なのです。

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(自説)奇跡物語の伝承には旧約聖書の構成が反映されている [論説]

前回に引き続き、旧約聖書の預言者の物語について考察したいと思いますが、元に戻って、まずエリヤについて取り上げたいと思います。概要は次の通りです。

未亡人にパン菓子をもてなされたエリヤでしたが、彼女の家に招じ入れられます。そこには女性の主人がいて、宿泊などのもてなしを受けます。二階には、ベッドがあって、エリヤはそこで寝泊まりすることになりました。女性の主人ですから、彼女もまた未亡人です。そして、幼少の息子がいたのですが、息子は病気にかかり、死んでしまいます。エリヤは、彼女が抱えていた子どもを引き取り、二階に上がって、ベッドに子どもを寝かします。そして、繰り返し体を密着させて祈ったところ、子どもは命を取り戻すのです。

この物語も、ヤイロの娘の復活のように預言者を家に迎え入れたというのが大きな焦点となります。むしろ、ヤイロの物語は、このエリヤの物語を踏襲していると言ってよいでしょう。また、主イエスが言った、「狐には穴があり、鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」という放浪者の嘆きと預言者エリヤの日常が重なるところもあると思います。エリヤが、子どもを自分のベッドに連れて行ったのは、預言者をもてなすしるしであるベッドが、神に対するものであったということを示すためだと考えられます。

また、エリヤが子どもに対し、繰り返し身を重ねたのは、律法の根幹である「心を尽くし、魂を尽くし、思いをつくし、力を尽くして主なる神を愛しなさい」という精神を実行している描写ですし、隣人愛の実践であるとも言えます。そして、子どもが復活し、女性に子どもを渡したというのは、ルカによる福音書のナインの未亡人の息子が復活させられた物語とも重なります。むしろ、新約聖書の物語は、このエリヤの物語を下敷きに描かれたと言っても過言ではありません。女性の主人にとって、息子を失うというのは、夫に先立たれているという意味で悲劇の連続であるのです。

再び、ナアマンの物語に戻りますが、これもまた、主イエスの癒しをほうふつさせるところがあります。癒しを求めて単身、主イエスの元に来た病人は、主イエスの治癒を固く信じて「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と宣言します。主イエスは、彼の体に触れ、「清くなれ」と言葉を発すると、患部はたちまち治ります。体に触れるという点が、ナアマンとは決定的に異なりますが、前述の通り、将軍が自分の権勢を誇示していたのに対し、この病人は無名の一途な男性であったところに対照があります。

新約聖書の奇跡物語には、事実が基底にあるのですが、物語を構成するうえで、旧約聖書を参考にしたり、コントランスを付けたりしていることがうかがえます。これは、物語を伝承していくうえで、記憶に残りやすい工夫と言えるでしょう。治癒奇跡、復活奇跡は実際あったことと信じていますが、ストーリー上の脚色は否めないと思います。
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(自説)悔い改めた不正な管理人は教会の債務を大幅に減額する決意をした [論説]

10月から始まる横浜教区の「信徒神学校」では、ルカ16章の「不正な管理人の譬え」を取り上げる予定です。なかなか、解読するのが困難な譬えの一つですが、読解してみたいと思います。

その前に、19章における徴税人の首領(頭)ザアカイの物語の結末を思い出したいと思います。なぜなら、不正な管理人とは、徴税人の首領のことを指す可能性が高いからです。ザアカイは、こう言います。「財産の半分を貧しい人々に施します、だまし取ったものは、四倍にして賠償します」と。この貧しい者の中に、死後の「永遠の住まい」に通じている教会の存在が見え隠れしていると考えます。

不正な管理人が、徴税人の首領だとすると、ローマ帝国の税金、例えば通行税を領民から取り立てます。そして、帝国の国庫に納入するわけですが、実際は全額ではなく、一部を横領していたことが、ザアカイの告白の中に見受けられます。「無駄遣いをしている」との告げ口は、公金を横領していたことを物語っています。この時、彼は不正な富で、「富に仕えていた」と言えます。したがって、譬えにおける「金持ち」はローマ帝国ということになります。帝国としては、そのような不正は許されないので、正式な会計報告を求め、不正があれば、彼を解任するはずです。

不正を働いていた徴税人の首領は、解任する前に庇護してくれる「友達」を作ろうとします。「家に迎えてくれる」というのが、家の教会です。教会も首領から、オリーブ油や小麦を借財していました。そこで、彼は職権を利用して、借金の一部を免除します。そうすれば、教会は首領に恩義を感じて暖かく彼を迎えるからです。そして、彼は解任され、職を失うのとともに、教会に迎え入れられます。この時から、彼は「神に仕える」立場に逆転しました。そして、死後永遠の住まいに迎え入れられることを約束されるのです。このような彼の振る舞いを主イエスは「賢いやり方」と称賛したのです。

主イエスの一般に対する「ごく小さなことに忠実な者は大きなことにも忠実である」とは、「忠実な」という訳語が「信仰」と同じなので、ごく小さな信仰がある者は、大きな信仰がある者と同じである、ということです。これに対し、ごく小さな不信仰しかない者は、大きな不信仰がある者と同じであると言って、不正な管理人(徴税人の首領)を大きな信仰がある者と同定しているのです。この譬えは、見失われた羊の譬え、見失われた銀貨の譬え、見失われた(放蕩)息子の譬えに続くものです。オリーブ油や小麦を借りていたのが、教会だとしたら、彼もまた劇的な改心を遂げたことになります。したがって、私はこの譬えを「見失った管理人(徴税人の首領)の譬え」と名付けたいと思います。

もし、そうならば告げ口をしたのは誰かという問題が出てきます。なぜなら、この譬えの呼び水となっているからです。この「密告者」こそ、主イエスと言えるのではないでしょうか。主イエスとの出会いがあって初めて、彼が悔い改めたからこそ、教会の債務を大幅に減額する決意をしたからです。
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(自説)教会で高い地位にいる者は社会的弱者に現世も来世も仕えるべき存在 [論説]

先の記事で、ペトロとヤコブ、ヨハネ、アンデレ、(フィリポ)が、最初の弟子なので一番偉い存在とみなされがちですが、実はこれが逆ピラミッド型に転倒するということを主張しました。このことを、ぶどう園の労働者の譬えを通じて説明したいと思います。この譬えの概要は、今日の状況(日当一万円)を当てはめると、以下のようになります。

ぶどう園の雇用者がいます。彼は日当一万円の契約で前日に労働者たちを集め、翌朝五時から働いてもらうことにしました。午後十二時になると、再び労働者を集め、同じ契約で働いてもらうことにしました。午後四時になると、さらに労働者を集め、同じ条件で働いてもらうことになりました。午後五時に労働は終了し、日当を支給することになって、短時間の労働者を先頭にして、長時間労働者は最後列に並んでもらいました。短時間労働者に日当一万円が支給されたのを見て、長時間労働者は自分がもっと多く支給されるだろうと目論んだのですが、実際は一万円だったので、それは不公平だと雇用主に抗議しました。しかし、雇用主は、どの労働者とも日当一万円で契約したのだから、自分がしたいようにしたいのだと宣言しました。文末には、「このように、後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」と結んでいます。

これは、日当一万円というのが、「二人または三人が私の名によって集まるところには私もそこにいる」という実質は、あとさき関係なく変わらないということです。むしろ、先にいた12人の使徒たちは、新参の教会入会者や徴税人や罪人(マタイ21:31)、一人の子ども(マルコ9:36~37)に象徴される社会的弱者に仕える存在でなくてはならないのです。ローマ・カトリック教会では、使徒ペトロの後継者である教皇を頂点にして、新来会者が末席となっているようですが、聖書に基づけば、教皇は首根っこで一番仕える者にならなくてはならないのです。

マルコ10:31やマタイ19:30においては、「来るべき世」における裁きの権能についても言及されています。ここにおいても「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」という転倒が起こります。これはおそらく、偽善を戒めるものなのでしょう。ルカ13:30においても、四方八方から集められる神の国の祝宴に招かれる客についても同じことが言われています。これはキリスト教発祥の地であるイスラエルが一番末席になり、遠くの異邦人が優等席に着くという転倒を意味するのでしょう。

私も、始めはペトロを頂点とするツリーを描いていました。しかし、ペトロというギリシャ語の翻訳は「岩」であることを考えると、それは重量的に下方に位置しなくてはなりません。彼は裁きの座において、首座ではありますが、社会的弱者に現世も来世も仕えるべき存在であると、改めて気づいたところです。また、文末の言葉は、譬えの結論になるので、無視してよいと考えてきましたが、重要な文言であることを発見しました。
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(自説)教会の基礎単位と成長による「満足」と更なる成長 [論説]

昨日、「五千人の給食」の物語について、ふと着想が与えられました。私が解読したのは以下の通りです。

まず、一をペトロとします。それを二別れして、二をヤコブ、三をヨハネ、ヤコブから二別れして、四をアンデレ、五をフィリポとします。この先がキリストを信じている人とします。そして、これが五つのパンの意味するところです。ヨハネから二別れするのは、キリストを信じない人たちとします。これが二つの魚の意味するところです。この5人を700倍にすると、3500人になります。また、2人を700倍にすると、1400人になります。700というのはラッキーセブンというように神の恵みを表す象徴的な数字です。

3500人と1400人を足すと、4900人になります。5000人まであと100人です。この100人を3500人に足すと、3600人になります。これを12で割ると、300人になります。12使徒が、使徒を首座とする一教会だとすると、一教会300人の教会が12設立されたことになります。他方、1400人は、キリストを信じないグループになりますが、割合にしたら、71パーセントの人が信じたことになりますから、異教徒がいても、それで満足、すなわち「満腹」しなさいという教えなのです。

もう一つの意味としては、「二人または三人が私の名によって、集まるところには私もそこにいる」という御言葉と、キリストを信じる人の基本形が五人であることです。5人を二つに割ると、3人と2人に分かれます。これが、キリストを信じるもう一つの基本形であり、五つのパンの意味するところとなります。五番目のフィリポに、主イエスが食料はどれほどあるかと尋ねたのも、彼が12人の使徒の内、五番目の弟子だからです。私の名によってとは、「イエス・キリストの名によって」という意味ですから、二人の組、または三人の組という最小の単位が集まるところには、主イエスが臨在し、その数は3600人の数に成長していく力を持っているという物語なのです。

日本聖公会の教区は現在11あります。それぞれの主教座聖堂の信徒の人数が又は教区の信徒の数が、300人ほどあれば、それで満足してもよいということになります。日本聖公会の信徒の数は、統計上48500人でこれをはるかに上回ります。最初の宣教者(後の初代主教)ウィリアムズの頃は、二人または三人という小規模な人数だったかもしれません。それが、4000人近くに成長したのだとすれば、それでいったん満足し、その成長を確認して、さらなる成長を目指すことが求められるのです。そして、初代主教からの枝分かれはトッポダウンではなく、ボトムアップの逆ピラミッド型であるということを忘れてはなりません。

所属教会の朝の祈りで執事と私の二人でささげる礼拝の冒頭に、執事が好んで用いたみ言葉は、「二人または三人が私の名によって集まるところには‥‥」でした。これが、教会の基礎単位であり、そこに主イエスはいると私たちは信じているのです。
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(自説)詩編を省略せず全体を唱える必要性は内面的現実を直視することにある [論説]

日本聖公会の聖餐式等では、旧約聖書等の朗読(第一朗読)の後に、詩編を交唱することになっていますが、怒りや裁きを含む内容については、省略してもよいことになっています。これについて、他教派の人に自分ではよく分かっていないにもかかわらず、不用意に言ってしまったところ、批難の目を向けられてしまいました。また、ある牧師補(執事)にその理由を尋ねたところ、「新しく教会に来た人が驚くから」という説明を受けました。

果たして、それは正しいのでしょうか。朝の礼拝で用いられる詩編95編を例に考えてみたいと思います。普段は、1節~7節のみを用いて、8節~11節を省略します(ただし、大斎節中は全節唱えます)。しかし、普段通りであったら、綺麗ごとの羅列に終始し、現実を直視しない結果、公会は成長しないのではないかと危惧するのが私の考えです。では、省略されている部分を具体的にみてみましょう。

8 今日、神の声を聞くなら、メリバのあのときのように
  マッサの荒れ野の日のように、心をかたくなにしてはならない

これは、今日主イエスの声(ことば)を聞いても、きかない頑なさの現実を示しています。

9 あのとき、あなたがたの先祖たちは
  わたしの業をみたが、わたしを試しこころみた

これも私たちは、主イエスの恵みの業をみても、自分を頂点と考える現実を指します。

10 四十年の間わたしを悩ませた民に言った
  「彼らは心の迷った民、わたしの道を知らない」

これも長期にわたって主イエスを悩ませる、心が定まらない公会の現実を描写しています。

11 わたしは怒って誓った
  「彼らをわたしの安息に入らせない」

今日、主イエスの声を聞いても、自分の欲望を満たすことに執着するなどする公会の現実を私たちは直視する必要があります。その現実に対し、まず主イエスは、激しい感情を向けます。例えば、「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ12:51)など)ということばを上げることができます。常に、悔い改めの必要性を説いているのが、この詩編の全体の意図であり、現実とは逆のことである、主イエスのことばをきくことに「今日」集中することが、教会を成長させるのです。

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(自説)絶命の言葉と幕の割裂は教会の再スタートに繋がる転機 [論説]

主イエスの絶命の言葉について考えてみました。マルコとマタイは、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶望的表現であるのに対し、ルカは「主よ、私の霊をみ手に委ねます」とあり、ヨハネは「成し遂げられた」というように肯定的表現です。マルコとマタイが絶望的なのはどういう意味があるのでしょうか。

それは、マルコとマタイがガリラヤでの再会を予め約束しているのに対し、ルカとヨハネには、それがないことと関係があります。ただし、マルコは墓で「白い衣(主イエスの変容と同じ表現)を着た若者」が現れたものの、三人の女性と会話をした記録がない、つまり16章8節で終わっているので、以下の立証を困難にしているのですが、ヨハネの大漁の奇跡を適用することで、何らかの手掛かりとしたいと思います。

ガリラヤでの復活顕現とは、マタイでは主イエスと十二使徒との山における会見ですが、これは「山上の説教」という原点に回帰することを強調しています。おそらく、マルコも同じ原点回帰という文脈ならば、四人(と他の三人)の弟子にガリラヤ湖畔で会見したという物語上の想定ができると考えます。

この想像をさらに拡大すると、マルコの場合、最初の弟子はペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人でしたが、もし、マルコで主イエスが湖で顕現したのが、ヨハネの大漁の奇跡と同様の七名だった場合、五人目と六人目、七人目は匿名であったこととします。すると、前述の通り、五人目には男性が、六人目には女性が、七人目には社会的弱者を当てはめることが出来るツリーになります。つまり、マルコにおいても、マタイと同様の原点回帰があるのです。それは、きっと再成長する教会の描写なのでしょう。底本が失われてしまったのが悔やまれます。

ただし、主イエスの絶命の言葉が絶望的であったのはなぜかという問いかけには、もう少し踏み込む必要があります。なぜなら、原点回帰だけではない、他の背景があると考えるからです。これは、エルサレムをどのように位置付けるかにかかっています。ルカ~使徒行伝は、宣教の開始地点を徹底してエルサレムに定めています。ヨハネは、一見エルサレムですが、資料を付随しています。マタイは前述の通りです。マルコもそう仮定します。すると、「お見捨てになったのですか」とは、なぜ主イエスと弟子が聖地エルサレム神殿から追放される(移動する)必要があったのかという読者の疑問(神殿の幕が裂けたのはなぜかという疑問も惹起して)と嘆きに答えるためであり、その繋ぎのセリフであったのではないかというのが私の仮説です。

もし、この仮説の通りであるならば、一見絶望的とも言える言葉は、主イエスと弟子たちと教会の再スタートに繋がる転機の言葉として受け止めることができると思います。
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(論考)三つのRが一点になるとき有限と無限が同居する「聖化」は起こる [論説]

以前、霊魂は所有権者が「神」であり、私たち人間(生物)はそれをレンタルしているにすぎず、また物質としてはリサイクルしているので、絶えず所有権者に返すようリフォームされる必要があることを申し上げました。この「三つのR」を踏襲して、今回は無限と有限が同居する「聖化」について、論考したいと思います。

まず、信仰について定義したいと思います。信仰とは「生前において、今ここ(リサイクルの途上)で霊魂を借りていること(レンタル)を自覚し、感謝の念を抱いて、死後のレンタルを先取り(リフォーム)し、そのことを予行する(共同礼拝(公祷)、個人祈祷における賛美)ことである」というものです。したがって、霊魂自体は不滅であるものの、それを死後神の元に返却されると予め信じ、所有権者である無限の神に返却しなくてはならないという認識を持つのか、それとも有限の自己が所有していると「錯覚」するのか、これが信仰の有無の分水嶺になると考えます。

そして、信仰者、礼拝者はリサイクルの途上でリフォームを行い、有限である自己(子)が無限の聖なる神に変化させられて(聖変化)、この瞬間において有限でありながら、無限の神とつながっている「神の子」とされるのです。あるいは、「神(無限)の国(有限)」に存在するのです。主イエスが宣言した「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)とは、リフォームに対する招きなのです。主イエスが、聖餐において、パンを「私の体」と聖別し、ぶどう酒の杯を「私の血」であると制定して、私たちに記念しなさいと命じたことも、リフォームのための共同礼拝を指しており、実は聖霊と言う別物が臨むのではなく、私たち自身の霊魂が聖化されることを示しています。

歴代誌上29:14の言葉を引用して、聖餐式の奉献の言葉になっている「すべてのものは主の賜物。私たちは主から受けて、主に捧げたのです」がありますが、この考え方を用いて修正すれば、「すべてのものは主から借りたもの。私たちは主から借りて、主に返すのです」になりますし、「心を神に」/「主に心を捧げます」という交唱も「心を神に」/「悔い改めて霊魂を返します」になります。

したがって、十二使徒による裁きは死後の世界ではなく、生前にあります。レンタルとリサイクル、リフォームは同じ一点になる時、聖化は起こるのです。しかし、私たちは肉の思い、すなわち欲望、特に名誉欲に捕らわれています。それは自分を神とする、霊魂の所有を自分のものとすることにあります。主の祈りで「御名が聖とされますように」が筆頭にあるのは、そのことを相対化する重要性があるからです。「御国」については、前述しました。「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」とは、「私たちの罪を許しあう、つまり他者の真心を受け入れること、かつ自分の真心を与えること」と同じであり、生前において他者と物質を分け合い、リフォームする、すなわち聖化することへの招きを指しています。誘惑や悪は、自分を神とすることに対する欲望をさし、ここから救われる、すなわち三つのRを意識することなのです。

聖化は、個人においても公同の礼拝においても、いつでも(公同礼拝は決まった時刻、決まった場所ですが、行くこと自体は)決断できることであり、三つのRが一点になるとき有限と無限が同居する「聖化」は起こるのです。
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(自説)ヨハネのツリーに挿入される二つの見えない枝(マザーとマグダラのマリア) [論説]

十二弟子等のツリーについて、以下の通り箇条書きして手を加えます。すると、女性聖職団の位置づけが大きく変わります。

1.基本はマルコの十二弟子(ブラザー、シスター、マザーが隠されている)のツリー
(1)イスカリオテのユダの退出に変えて、マグダラのマリアを入場
(2)独立したファーザーは早逝(ヨハネで「愛する弟子」に扶養をゆだねたことが根拠)
(3)マザーは未亡人ウィドウなので保護の対象

2.これにヨハネ21章の大漁の奇跡の七人のツリー(同上)を適用
(1)ヨハネのツリーの内、ウィドウは愛する弟子によって扶養
(2)ウィドウは、ガリラヤのカナでの最初のサイン(しるし)の証人
(3)ナタナエルは、ガリラヤのカナ出身なので、ウィドウと男・女(見えない枝)のペア
(4)ディディモと呼ばれるトマスは、三度目の復活の証人
(5)マグダラのマリアは、最初の復活の証人なので、トマスと男・女(見えない枝)のペア
(6)ブラザーとシスターは、二人の匿名の弟子にスライド、つまりヨハネ(愛する弟子)以降はすべて信徒であり、「羊(または小羊)」
(7)シモン・ペトロは、「私の羊を世話しなさい」と命じられるが、ツリーの半分を占める聖職団の首根っこであり、ヒエラルキーの頂点ではない
(8)獲れた魚が153匹であったことは、前述の通り、教会が未完であることを示している

マグダラのマリアを聖職団等に加えることで、社会の成熟度等に応じ、修女、女性伝道師、女性牧師、女性執事、女性司祭、女性主教等が誕生する根拠となると考えます。

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(自説)原始教会のツリーはピラミッド型ではなく逆ピラミッド型 [論説]

先の記事で、原始教会のツリーは、ピラミッド型かのような表現に(「二別れする」)なってしまいましたが、それを逆ピラミッド型であると訂正します。「成長する種の譬え(たとえ、暗示を物語化したもの)」と言うのがあります。「神の国」、すなわち原始教会の成長のさまは、寝起きしているうちに種から芽を出し、茎になり、やがて穂がついて、実をならす、つまり上方向に伸びていく順序に似ているという譬えです。

この譬えに基づくと、イエス・キリストを種として、発芽したものがペトロです。ペトロは、「岩」という意味ですから、重量的に最下部になくてはなりません。また、「私(イエス・キリスト)はぶどうの木、あなたがた(十二使徒)はその枝である」(ヨハネ15:5)という比喩もありますから、イエス・キリストはもはや種ではなく、根幹ということになります。

ペトロからゼベダイの子ヤコブとヨハネへと二つに枝別れし、ヤコブからアンデレとフィリポへと二つに枝別れし、ヨハネからバルトロマイとマタイへと二つに枝別れし、アンデレからトマスとアルファイの子ヤコブへと二つに枝別れし、ファリポからタダイと熱心党のシモンへと二つに枝別れし、バルトロマイからイスカリオテのユダとブラザー(マルコ3:35、「兄弟」)brotherへと二つに枝別れし、マタイからシスター(同上、「姉妹」)sisterとマザー(同上、「母」)motherへと二つに枝別れすることによって、「神の御心を行う人」(同上)という、キリストを根幹とし、土台をペトロとして、逆ピラミッド型に枝分かれするツリー(陣形)が出来上がります。

ファーザーfatherがこの枝にないのは、「全能の父The Fatherなる神」の象徴が「家父」であり、独立した存在だからです。ただし、十戒の「あなたの父と母を敬いなさい」(出エジプト20:12)及び聖なる結婚(聖婚)をした男女は「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(マルコ10:7~8)とある通り、並行関係にもなりますが、このツリーは、時代的制約のうえで家父長制と人口増加社会を土壌としています。

次の論考は次回とします。
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