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(奨励)天変地異が起きたから急に祈るのはおかしなこと [奨励]

2024年12月1日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書21章から抜粋された「救いの兆候と祈り」についての御言葉です。

今回は、天変地異などが起きたのを神の国が到来するしるしとして受け止め、希望を持つことが描かれています。しかし、「もし〜ならば」という仮定が二つあることに注意してください。一つ目は、「このようなことが起こり始めたら」(28節)とあり、「天の諸力が揺り動かされる」ことを指していますが、これはあってもなくても、私たちの救いには関係のないことです。

なぜなら、「二日酔いや泥酔や生活の煩い」は天変地異とは無縁のごく日常であり、この日常の中でこそ、心を神の言葉に向けて、目を覚ますときだからです。二つ目も「これらのことが起こるのを見たら」(31節)とありますが、いちじくや他の木は、日々成長するサイクルの中にあります。その循環においても神の言葉の永久性に変わりはないのです。このような仮定があってもなくても、「いつも目を覚まして祈」るのが大事であって、天変地異が起きたから、急に祈り始めるとはおかしなことです。

大事なことは、神の国の到来を切望して、日々祈り、礼拝することです。22章には、主の晩餐の記事があります。「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」(19節)とありますが、主を囲んで、朝早くから話を聞く営みこそ尊いのです。

「あなたがたの救いは近づいている」(28節)の救いは、直訳すると贖うになります。贖うとは、戦争で捕虜となって苦しんでいた人に身銭を切って買い取るということです。つまり、身代金を用意して交換することです。主イエスは、御自身を身代金として、私たちを罪の鎖から解放してくださいます。ですから、身を起こし、頭を上げることができるのです。

天変地異が起きたから祈るのか?いいえ、なくても祈るのです。
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(奨励)盲人バルティマイの視力回復と復活の光 [奨励]

2024年11月24日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書11章から抜粋された「エルサレムでの歓迎」の物語です。この物語から何を学べるのでしょうか。

主イエス一行のエルサレム入りは、直前の盲人バルティマイの視力回復と密接な関係があります。彼は、生まれつき目が見えなかった訳ではなく、人生半ばにして、全盲になりました。これは、南ユダ王国が、バビロニア帝国によって滅ぼされましたが、主イエスの到来によって、王国が回復するという期待を反映しています。また、視力の回復は、再び光をみるということです。

これは、誰も乗ったことのない子ろばと関係があると思います。誰も乗ったことのないということは、主イエスが初めて乗ったということです。初めてということの内に、天地創造の初めである「光あれ」ということの暗示があります。また、バルティマイが、上着を脱いで、喜び躍ったという描写はエルサレムの市民が一行を大歓迎したことの前触れとなっています。主イエスが子ろばに上着を掛けたのも、その意味があります。

なぜ子ろばだったのでしょうか。馬ではない理由はあるのでしょうか。子に対しては、父という存在を想い起こします。「父」という言葉はエルサレムの物語に集中しています。ゲッセマネの園での「アッバ、父よという」祈りと子ろばとの関係は通じるものがあるのです。市民は、主イエスの到来が政治的解放であると待望していました。しかし、そこでの意義は過ち、罪の赦しであり、永遠の命に道を拓くということです。

同じ11章に次の言葉があります。「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。王が家来の多額の借金を棒引きしたのに対し、その家来は同僚から少額の借金を取り立てようとしたという譬えや、マルコの夜福音書には登場しない「主の祈り」と通じるところがあります。

最後に、もう一度バルティマイの奇跡の意義についてですが、二人の匿名の弟子と関係があると思います。前述の通り、ペトロを首根っことしたツリーを十二人の使徒プラス三人とするならば、二人は男女を表し、バルティマイは社会的弱者を象徴しています。これは教会全体を示しています。それにとどまらず、聖餐式文では「天の全会衆」を加え、この「ホサナ」を歌い唱えます。エルサレム入りは、主イエスの肉体の回復、復活、教会の礼拝を意味しているのです。
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(奨励)原始キリスト教の危機を救った主の兄弟ヤコブの登場 [奨励]

2024年10月20日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書10章から抜粋された「ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い」の物語です。

この物語は、主イエスの生前に行われた問答のような体裁を取っていますが、ゼベダイの子ヤコブが早期に殉教したことがきっかけで作られたものであると考えます。文末に「身代金」という言葉が出てきますが、これはゼベダイの子ヤコブの「身代わり」に主の兄弟ヤコブが与えられた感謝の物語なのです。使徒言行録12:2でゼベダイの子ヤコブは、ヘロデ王に殺害されます。その直後に「ヤコブ」(12:17)が登場しますが、この人物こそ、エルサレム使徒会議で議長を務めた主の兄弟ヤコブなのです。パウロもガラテヤの信徒への手紙の中で重要視しています。彼こそが、原始キリスト教会の危機を救ったのです。さて、主イエスの左右に座る者は、自分では決められないと主は言います。しかし、定められた人々には許されるという言葉がありますが、これは主の兄弟ヤコブの登場を歓迎しているものと私は受け止めます。彼もまた、殉教します。その意味で主イエスが飲む杯を飲み、主イエスが受けた洗礼を受けたのです。主イエスは多くの人々の罪の赦しのために犠牲になりました。二人のヤコブもまた、私たちを活かすために殉教したのです。死んで終わりではありません。「来るべき世」の「永遠の命」が待っているのです。
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(奨励)離縁問答における主イエスの回答の背景には領主の罪がある [奨励]

2024年10月6日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書10章から抜粋された「離縁問答」です。この物語から、どんなメッセージを受け取ることができるのでしょうか。

物語は、ファリサイ派が離縁の是非を問うことから始まりますが、彼らの企みは何かを見破れるか否かが、この物語を解く鍵になります。当時のガリラヤの領主はヘロデ・アンティパスでした。彼は前妻を離縁して、ヘロディアと再婚しています。ヘロディアも前夫と離縁したというのなら、初婚ではありません。洗礼者ヨハネは、この離縁・再婚を糾弾していたため、投獄されていました。酒宴の座興で、ヘロディアと娘が共謀し、ヨハネが斬首されたのは、ずっと前の記事です。

ファリサイ派が試みたのは、主イエスがヨハネと同じ考えか否かを確かめることであって、一般の男女の結婚と離縁についてではないのです。その証拠は、ローマ帝国への納税について、ファリサイ派とヘロデ党が共闘していることにあります。ファリサイ派は、反ローマでヘロデ党は親ローマなのに、主イエスを陥れる仲間となっているのは、この離縁を巡る問答に発端があるのです。したがって、離縁の問題を一般社会の倫理に当てはめることは別のことです。

かつて聞いた説教では、夫人の魚の焼き方が悪ければ、離婚事由になっていたから、主イエスは男性の横暴に釘を刺すために、男女の一体性と結婚の神聖性を説いたというのがありましたが、それは的外れです。王家の離縁・再婚を巡っては、領主の性欲による姦淫の罪がありますが、ヨハネを殺害したという罪もあります。社交の面子を優先したことも自分を神にしている罪だと言えます。つまり、彼らは、十戒に反して宗教指導者を処刑したのです。

この離縁を巡る問答の次に、子どもの祝福が続きます。権力を振るう者とは対照的です。弟子が子どもたちの進行を妨げたとありますが、彼らも自分に権限があると錯覚しているのでしょうか。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とは、まずヘロデ夫妻に向けられたものであり、そして、陰謀を働かすファリサイ派やヘロデ党に対する裁きです。これを鋭敏に理解できない弟子たちも批判されているのです。

相手の暴力(DV)により、離婚することは正当な理由です。そこに、「神が結びつけたものを人が離してはならない」という言葉で裁いてはいけません。
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(奨励)社会的弱者を支援することは死後の報いも約束されている [奨励]

2024年9月29日、日本聖公会の聖餐式等で行わる福音朗読は、マルコによる福音書9章から抜粋された「キリストに属する者の支援の報い」の物語です。

先の記事で悪霊を追い出すことは、戦争の終結を祈るということであると主張しました。今回は、弟子ではない者が、主イエスの名を用いて、悪霊を追い出すことの是非についてのゼベダイの子ヨハネの質問です。主イエスは、それを肯定します。主の名を用いて活動するのは、キリストに属する弟子たちの支援の一環だからです。ここで「キリスト」と言う言葉が出てくることに注意するべきです。主が生前、自らをキリストと呼んだことはないからです。

ただし、捕縛後の裁判で、あなたはキリストなのかという質問に対し、「私がそれである」と間接的に答えています。そして、人の子としての天からの来臨を宣言します。「キリストに属する者」というのは、主イエスの死後の迫害のことを言っているのです。その迫害期に、主イエスの名前を間接的に信じ、弟子たちに一杯の水だけでも提供する尊さを言っています。そうすることも、彼らは「味方」なのですから、不和は好ましくないと諭しているのです。これは、明らかに主イエスの死後のことを指しており、迫害において、殉教者が続出することを暗示しています。

ゼベダイの子ヨハネが殉教した記録はありませんが、兄のヤコブが殉教したことは確かです。そのため、ヨハネが長く生き延びた証人として、迫害期の凄まじさを物語っています。殉教した報いは、死後にしかありません。迫害した者は、地獄(ゲヘナ)に落とされ、火と蛆に苦しめられます。この点に、実証科学万能主義者はつまずきますが、主イエスは食べ物に塩が不可欠なように、この信仰を携えなさいと諭します。

マタイの山上の説教で、平和を造り出す者は幸いである、その人は神の子と呼ばれると、主イエスは言います。迫害期ではない現代において、社会的弱者を支援し、戦争に反対することは、死後の報いも約束されています。それは、この物語の前にある、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」という主イエスの言葉に表れています。一杯の水に止まらず、継続的に平和を造り出していきたいものです。
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(奨励)戦争の早期終息をあきらめるのは祈りとは言えない [奨励]

2024年9月15日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書9章から抜粋された、「悪霊に取りつかれた息子を連れてきた父親の悔い改め」の物語です。

息子の治癒を弟子に依頼する父親がいました。しかし、主イエス不在の中、弟子の力では追い出せません。主イエスは、それを「なんと不信仰な時代なのか」と嘆きます。不信仰な時代とは、前段の「神に背いた罪深い時代」と同じです。では、罪深いとは何でしょうか。これは、十戒違反を指しています。十戒違反の最たる例は、戦争です。ウクライナ侵攻にある通り、隣人の財産を横取りしてはならないという規定を、ロシアは踏みにじっています。多数の戦死者や市民の犠牲者がいることは、殺すなという規定に違反します。また、戦場で略奪、凌辱するのも、盗むな・姦淫するなに違反します。偽証するなとは、裁判のことというよりも、共謀するという意味ですから、戦争を参謀し、戦場で指揮することも規定違反です。戦闘をしていたら、神のための時間は忘れられます。プーチン大統領の存在・名前のために犠牲が払われ、偶像化・神格化が進んでいます。そして何より、命は神から借り受けているということを忘れる、つまり父と母を軽んじるのが大きな罪なのです。

さて、悪霊に取りつかれた息子の様子は、個人的なものというよりも、戦闘の激しさを暗示しているものと理解します。「泡を吹き、歯ぎしり」するとは戦場の混乱と似ています。それをどうすることもできないで、立往生しているのが、私たち一人ひとりの現実です。主イエスは父親に、「いつからこうなったのか」と問います。侵攻の日付を聞かれているのではありません。聖書の時代以前から違反だらけの何も変わっていない邪悪な地上を嘆いているのです。

父親は、「もしできるのならば」という仮定を出して弱音を見せます。しかし、これも私たちの現実です。侵攻が早期に終結することを本気で信じているのは少数派ではないでしょうか。主イエスが、追い出そうとしているのは、争いそのものだけではなく、あきらめという「不信仰」でもあります。信じるか、それとも信じないか、今どちらを選ぶかが問われます。

父親は言います、「信じます。信仰のない私をお助けください」。これは、率直な悔い改めです。この場所に息子を連れて来たのも半信半疑だったから、不信仰と言えます。しかし、仮定をする自分を恥じたのです。ロシアや北朝鮮の軍事についても、私たち一人ひとりは、冷ややかなあきらめを抱いており、私もその一人であったことに気付きます。物語の結末に、解決は「祈り」によるとありますが、何事もあきらめずに心を神に向けることを忘れないようにしたいと思います。
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(奨励)治癒奇跡の根底にあるのは障害者などの生きる術を拓くこと [奨励]

2024年9月8日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書7章から抜粋された「聴覚障害者の癒し」の物語です。

今回のテーマは、治癒奇跡は言いふらすためにあるのではなく、癒やされた人自身のアフターケアーが重要であるとの認識についてだと思います。主イエスは、ガリラヤ湖畔のゲネサレト平野で病人を癒やしている中、エルサレムから来たファリサイ派に論難されるなど、うんざりするところがありました。北の外国フェニキアに退き、しばらく遠征します。しかし、ガリラヤ湖畔に戻ると、人々が聴覚障害者を連れてきます。

主イエスは、彼を人々から離して、たちまち癒すのですが、このことを言いふらすことを禁じます。なぜでしょうか。治癒の出来事はすでに過去のことです。むしろ、大事なのは治癒された人の社会復帰です。耳が聴こえなかったのですから、言葉を憶える訓練が必要です。今まで抑えていた思いを早く伝えたい人もいるでしょう。過去の自慢ではなく、将来の支援こそが求められているのです。

これは、後に続く視覚障害者の癒やしにも見受けられます。主イエスは、治癒された人に対し、村人のところに戻るのではなく、自宅に行くように命じます。当時、身体障害者などは、正規の職業に就けず、乞食同然の生活を送っていました。主イエスが彼らを癒やしてきたのは、社会復帰に道を開くためなのです。つまり、開くだけではなく、生きる術を拓くことです。

別の観点からこの物語の「エッファタ」、開けという言葉を探ると、陰府の門を開けろという意味と考えることもできます。聴覚障害を癒やされた出来事は、肉体の苦しみの軽減でありますが、その究極は「来るべき世」の「永遠の命」(10:30)です。障害や病気の治癒は、その先触れに過ぎません。その「しるし、兆候」をみた者は、外面的事実ではなく、地上での悔い改めこそが求められます。

イザヤ書35章には、次の預言があります。

その時、見えない人の目は開けられ
 聞こえない人の耳は開かれる。
その時、歩けない人は鹿のように跳びはね
口の利けない人の舌は歓声を上げる。

英語で読むと、これらの助動詞はshallになっており、単なる予定というよりも、強い確信(目はきっと開けられ)が込められています。地上では、障害者の就労などを支援するのとともに、来るべき世の永遠の命を確信する人生としたいと思います。
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(奨励)聖書における「知る」というのは新しい気付きが与えられること [奨励]

2024年、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ヨハネによる福音書の6章から抜粋された「弟子たちの離反」についての物語です。この物語から何を学ぶことができるのでしょうか。

今回のテーマは、「気付き」についてです。「主イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのに気付いて言われた」の気付きは本来「知る」という動詞であり、イスカリオテのユダの裏切りを知るという意味と同じです。英語の知るという意味には、「大切にする」という意味もあります。最後にペトロが、「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」につながっていきます。

主イエスの気付きとは、聖餐制定に対する多くの弟子たちの当惑や不信仰に対するものです。先に「とどまる」という言葉が「つながる」という意味と同じであると指摘しましたが、この当惑によって、弟子たちが離れて行ったことは、手足をもぎ取られるような思いがしたに違いありません。また、十二人の一人であるイスカリオテのユダの裏切りにも気付いています。彼が現実主義者であり、多くの人々の離反による政治力の低下を憂いていることをすでに予見しているのです。

ここで、昇天のことに言及していることは、地上での王権ではなく、天上での王権を予告し、それには十字架での処刑と復活を宣教初期において、ほのめかしています。ペトロの気付きとは、彼のひたむきな忠誠心ですが、自分が主イエスを三度知らないと言うことになるとは知りません。ユダが裏切ることはないということも固く信じており、「私」ではなく、「私たち」はと言っています。

さて、私たちは、この聖餐制定と弟子たちの離反からどんな気付きを与えられるのでしょうか。私たち一人ひとりの気付きは聖餐式などの礼拝のなかで与えられることは大事なことです。しかし、日常の生活のなかで与えられる気付きもとても大切なことです。主イエスが「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と宣言しているのは、霊がまったく自由であり、私たち一人ひとりの命を支えていることを示唆しています。

「知る」というのは、何か知識を増やすかのような語感がありますが、それだけではなく、大切な思いが湧く、新しい気付きが与えられるということも念頭にしたいと思います。
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(奨励)主イエスと人の感謝の結合が聖餐の基礎にある [奨励]

2024年8月18日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ヨハネによる福音書6章から抜粋された「聖餐への招き」の物語です。

五千人の供食の後に、人々が主イエスを追いかけてきます。ヨハネは、供食のことを「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた」と表現しています。つまり、感謝の祈りが重要なのです。

ここでまず、嵐鎮めの奇跡や湖上歩行について、振り返ってみたいと思います。前者は、教会の土地取得にまつわるしるしではないかと仮説しました。後者は、主イエス不在の中での困難を暗示しています。供食前には、様々な挫折があり、飢えと渇きに耐えながらの宣教でした。前述の通り、五千人の算出は、一教会三百人として、十二の教会が設立されたという目安であり、一旦「満足」して再スタートを切る暗示です。四人の弟子から数千人の会衆に成長できたのは、まず主イエスにとって、喜ばしく、父なる神に感謝する出来事でした。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」とあります。まず、人数が多いということで、各人がないがしろにされていることはありません。「その人の内」ですから、単数なのです。また、「とどまる」という動詞は、ギリシャ語で「メノー」といって、「つながる」という意味もあります。ぶどうの木が幹と枝でつながっているように、聖餐に与る者が主イエスから離れない、主イエスは一人ひとりを離さないという強い意志を示しています。例えば、主イエスは彼らの名前を記憶していた、実の名前を呼んでいたと想像できます。

さて、聖餐はユダヤ教の過越祭を継承するものですが、奴隷の家であるエジプトから解放されたことになぞらえて、罪の奴隷からの解放をテーマにしています。これは、過去に罪を犯しても、赦免されて、未来に向けて新しく生きることができるということです。いくらでも、やり直しはきくのです。また、共同体の人数が増えれば、それだけ豊かな出会いもあります。そこでの発見が人を変え、成長させるのです。そのような場所から感謝の祈りが生まれます。聖餐式・ミサが英語でユーカリストと呼ばれているのは、主イエスの感謝と人の感謝が結合するところにあります。
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(奨励)自然奇跡を現代の私たちに再解釈する必要性 [奨励]

2024年6月23日、日本聖公会の聖餐式等で朗読される福音朗読は、マルコによる福音書4章から抜粋された「嵐鎮めの奇跡」物語です。この物語から、どのようなメッセージを受け取ることができるのでしょうか。

この奇跡は、自然を意のままにする主イエスの超能力を指すというよりも、定住教会の土地取得が暗礁に乗り上げているなかで、主イエスが反対運動などを沈静化したという現実的な出来事として想定すると、考えやすくなります。

「夕方になると」という言葉から、この物語は始まります。これからの事業が暗中模索であることを暗示しています(以下、私の想像)。「向こう岸へ渡ろう」とは、移動教会と定住教会に分ける新たな段階になったことです。「群集を残して」とは、自分たちの教会づくりを優先する決意をしたことです。「イエスを乗せたまま」というのは、移動する教会はそのまま残すということです。「他の舟も一緒だった」というのは、他が定住教会を示していることです。

「激しい突風が起こり」とは、都市部に土地の取得を求めたので、反対運動が起こったことです。「波が舟の中にまで入り込み、水浸しになった」とは、計画が暗礁に乗りかけたことです。「イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた」とは、主イエスの名前で計画を進めているのに、ノータッチだったことです。「イエスを起こす」とは、出番を弟子たちが願い出たことです。

「溺れ死んでも、かまわないのですか」とは、計画の挫折を見過ごすのかという抗議です。「起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』と言った」とは、反対運動の収拾に取り掛かったことです。「風は止み、すっかり凪になった」とは、イエス単独で問題を解決したことです。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」とは、改めて自力で計画を進めるように指示したことです。「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」とは、反対運動を沈静化した主イエスに対する驚嘆です。

歴史の浅い教会は、土地取得に苦労すると聞いたことがあります。30年前に洗礼を受けた狛江教会がその例で、なかなか決まりませんでしたが、奇跡的に物件が見つかったといいます。しかし、隣接する家人は教会を毛嫌いし、たびたび苦情があったと聞きました。そういう苦労の中でも、信仰と祈りの内に模索すれば、求めるものが与えられるということを示しています。自然奇跡は、実際あったにしても、現在を生きる私たちの生活に再解釈する必要があります。土地の取得はその一つです。
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