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宣教の最前線は一人ひとりの祈りの内にある [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式の内、分餐語と陪餐後の感謝、祝福、派遣について考察してみたいと思います。

式文は、以下の通りです。

司祭 あなたのために与えられた主イエス・キリストの体 アーメン
司祭 あなたのために流された主イエス・キリストの血 アーメン

司祭 祈りましょう。
一同 永遠にいます全能の神よ、この聖奠(せいてん)にあずかった者を、み子イエス・キリストの尊い体と血をもって、養ってくださることを感謝します。主はこれによって、わたしたちがみ子の体のえだであり、み国の世継ぎであることをいよいよ明らかにしてくださいました。天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として献げます。どうか、聖霊によってわたしたちをこの世に遣わし、み旨を行う者とならせてください。
栄光は世々に限りなく、父と子と聖霊にありますように。アーメン

主教又は司祭 父と子と聖霊なる全能の神の恵みが常に皆さんとともにありますように。

執事又は司祭 ハレルヤ、主とともに行きましょう。
会衆 ハレルヤ、主のみ名によって アーメン

6月5日に逝去した伯母の葬儀に出席するため、母と二人で長崎県佐世保市を訪ねたのは、翌日のことでした。

そこから離れる際、父のきょうだいの亡き長兄、つまり伯父の自宅に寄ったのですが、何より驚いたのは伯母の娘である「いとこ」が伯父の月命日に僧侶を呼んで、月命日の法要を、その自宅で営んでいるということでした。

これは、長兄の自宅で同居していた私の祖母の信心が影響しているはずであると思います。

祖母は、僧侶がいる寺の創建に係わり、熱心な門徒でした。亡き伯母もそれを受け継ぎ、いとこもそれに忠実なのです。

私は、その姿に仏教でいう「布教」の最前線をみたような気がしました。

さて、分餐の言葉は「あなたのために与えられた・流された」という二人称単数であって、複数ではありません。

礼拝が解散されれば、信徒はそれぞれの生活に向き合います。

ある主教の言葉ですが、「宣教は日本聖公会や〇〇教会によるものではなく、行き着くところ一人ひとりなのである」というのを具体的なエピソードを通じて講演なさっていました。

私もまた、朝の祈りを日課とし、具体的なお名前を挙げて、聖霊による支えと導きを捧げています。

自分が創作した賛美歌を歌い、主の祈りも歌います。

朝、大地震もなく目覚めることができた、高齢の母と朝の挨拶ができた、これらは私が思っている以上の恵みに他なりません。

そして今日、友人に葉書の返事をしました。

判読できないような手紙は送らないでほしいと依頼したのですが、ちゃんと大きな字で書き送ってくれました。

何度も強調してきたとおり、キリスト教の根本教理は負い目の赦しです。

具体的な隣人の負い目を赦すとき、赦せない時、私たち一人ひとりの前に父なる神おられます。

祈りとは、主イエス・キリストが教えられた通りの「主の祈り」を生きることなのです。
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小さく弱さをさらけ出すキリスト [随筆]

本日は、日本聖公会聖餐式式文のうち、パン裂きと恭しく近づく祈り、神の小羊(アニュス・デイ)について、深めたいと思います。

式文は以下の通りです。

一同 「主の祈り」(これまでの解説通りなので省略)

司祭 わたしたちがパンを裂くとき
会衆 キリストの体にあずかります
司祭 パンが一つだから
会衆 わたしたちは多くいても一つの体です

憐れみ深い主よ、わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。
わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りないものですが、主は変わることなく常に養ってくださいます。
恵み深い主よ、どうかわたしたちが、御子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪ある私たちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストの内におり、キリストは常に私たちにおられますように。

一同 世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください
   世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください
   世の罪を除く神の小羊よ、主の平安をお与えください

まず、上記の「神の小羊」について考えてみたいと思います。

イエス・キリストのことを「小さい」というのは意外ではないでしょうか?

キリストとは油注がれた王のことです。

父と本質を同じくする神の子です。

それをあえて「小羊」と呼ぶのには理由があるはずです。

なぜなら、犠牲獣で最大のものは「雄牛」だからです。

そして、「憐れみをお与えください」とキリエと同じ祈りをするのも腑に落ちません。

さて、使徒パウロは、自身の体にトゲのようなものが刺さっていた苦痛に悩まされていました。

これを取り除いてほしいと繰り返し祈ったのですが、その時天から声が聞こえたと言います。

それは、「弱い時こそ力は発揮される」というものでした。

これは通常、パウロが弱い時、主の力は現れるというように解釈されます。

しかし私は、神が弱い時、パウロの持てる力は発揮されるというように解したいと思います。

人間は、常に強い者に味方するとは限りません。

弱い者を助けたいと思うのも人情であり、思わぬ力が与えられることがあります。

すると、イエス・キリストが小さく弱い姿だからこそ、彼の十字架の苦難を宣べ伝える勇気と希望が湧いてくるのではないでしょうか。

そうであれば、「憐れみをお与えください」というよりも「弱者を慈しむ心をお与えください」という祈りの方が、感謝祷を総括する祈りとしてふさわしいと思います。

パン裂きも、当然のことながら人体よりは小さなパンに過ぎません。

ある黙想家は、キリストは自分のためにこんなに小さな存在になってくださったと振り返っています。

マザー・テレサもまたミサで聖体を受けて、第二の聖体拝領のために行き場のない人々を助けに行くと明言しています。

では、恭しく近づく祈りをどのようにとらえればよいのでしょうか。

これもまた、勇気と希望を与える祈りとしなければなりません。

文案として以下のように読み替えましょう。

小さく弱さをさらけ出す主よ、わたし(たち)はただ自分の慈しみを信じて、み机のもとに参りました。
わたし(たち)は、社会的弱者を助けることを望む者ですから、主は変わることなく常に養ってくださいます。
恵み深い主よ、どうかわたしたちが、御子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、苦痛を担う私たちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって強められ、わたしたちは常にキリストの内におり、キリストは常に私たちにおられますように。

冒頭で懺悔をしていれば、そのうえ懺悔する必要はありません。とかく省略されるこの祈りですが、陪餐の合間、このように読み替えてみてはいかがでしょうか。

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死後の世界に宗教の違いはない [随筆]

昨夜、長崎県の伯母の通夜がありました。

浄土真宗本願寺派によるもので、法名は護法院釋和静です。

伯母は、一昨日に体調が急変し、急性心不全で他界しました。

健康には自信があっただけに、遺族も私たちも信じられない訃報でした。

通夜は、喪主であるいとこの関係者が多かったでしょうか、後列に臨時の座席が用意される程の参列者がありました。

僧侶の法話によると、祖母の代からお寺には深い縁があり、伯父が総代長を務めていたこともあって、伯母には慈愛の心で育ててもらったとの感謝の言葉がありました。

遺族の挨拶の中では、伯母は感謝・親切・奉仕を信条にしていたといいます。

その通り、茨城県に住む私たちにも心をかけてくださり、特に父の命日には欠かさず御仏前をいただき憶えていただきました。

法名の釋和静は釋尊のでしとして、平和で温和な人生を過ごしてきたこと、また怒りや妬みが少ない故人であったことが考慮されているとのことでした。

父の命日に逝去したことは、死後の世界を信じる私としては、父の招きも働いているのではないかと想起させる出来事です。

通夜に出席して、死後の世界というのは、宗教の違いはなく、「お浄土」や「御国」と呼んでいるのは、地上に生きる者の便宜に過ぎないと思いました。

お経は、仏説阿弥陀経で正信偈ではなく、浄土三部経を用いていたことも一つの発見でした。

昨夜は、美味しい夕食を食べて、故人を偲んだところです。

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罪の赦しを得る三つの想起 [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式文叙唱5部と制定語及び記念唱です。

以下式文です。

司祭 天の父よ、救い主、み子イエス・キリストによって、わたしたちの感謝・賛美をお受けください。

わたしたちはみ子の模範にならい、そのみ定めに従って、この聖奠を行います。

どうかみ言葉と聖霊により、主の賜物であるこのパンとぶどう酒を祝し、聖として、わたしたちのためにみ子の尊い体と血にしてください。

主イエスは渡された夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。

「取って食べなさい。これはあなたがたに与えるわたしの体である。わたしを記念するため、このように行いなさい」

また食事の後、杯を取り、感謝して彼らに与えて言われました。

「皆この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血である。飲むたびにわたしを記念して、このように行いなさい」

一同 キリストは死に
   キリストはよみがえり
   キリストは再び来られます

上記の「キリストは死に」に始まる三行は、「記念唱」と呼ばれています。

「私を記念してこれを行え」の「記念」と併せて、今回のテーマとしたいと思います。

まず、先に考察した「主の祈り」の対概念を振り返ります。

天におられる私たちの父よ
①私を著名人にしてください。
②私を支配者にしてください。
③御心が天に行われる通り
④私の意志が行われますように
⑤私の財産が常に増えますように
⑥私には罪(負い目)はありません。
⑦私は人の罪を赦す必要もありません。
⑧私は誘惑に陥っていません。
⑨私は悪とは無縁です。
これを交差配列で対応させると、

①と⑨が、②と⑧が、③と⑦が、④と⑥が組み合わされ、中心は⑤となります。

このことからも私たちの負い目の中心は、物欲にあると言えます。

もう一つ、注目するのは、③と⑦です。

③のみが主の祈りの通り「御心が天に行われる通り」としましたが、これは物欲を中心とするための措置ですが、神の「御心」とは何かを探るとき、有効なものとなります。
つまり、神の御心とは、⑦の対概念である、「罪(負い目)を赦す」ことにあると考えるのです。

さて、私の負い目とは何でしょうか?

例えば、物欲の一つであるグルメを考えてみましょう。

お金さえあれば、都市で世界中の料理を食べられる飽食の日本です。

しかし、一方隣国の北朝鮮では餓死者が急増しています。

みしろ、慢性的な飢餓です。

このことは、朝鮮半島の日本による植民地支配と関係します。

少なくとも、朝鮮戦争における「朝鮮特需」が、「もはや戦後ではない」と呼ばれる日本の経済成長と関係していることは疑いようがありません。

したがって、私たち日本人は、北朝鮮に負い目があります。

そして、この私が高級料理を口にするとき、想像力さえあれば、北朝鮮の餓死者が浮かび上がってくるのです。

しかし、そのような私を赦してくださるのが、神の御心です。

罪を自覚するのと、神の赦しを体感するのは同じです。

このことのために、キリストは死んでくださったのです。

これは、記念唱で言うと過去形です(英語でChrist was died)。

そして、私がもう一度顔を上げることができるのが、記念唱で言うキリストの復活です。
これは現在形です(英語でChrist is risen)。

さらに、負い目に鈍感になり、罪を繰り返しても繰り返し赦して下さるという信頼が、記念唱で言うキリストの再臨です。

これは未来形です(英語でChrist will come again)。

「記念」とはこの三つの要素があり、制定語(私を記念して、これを行いなさい)でイエスが示しているものなのです。

ところで、昨日九州の伯母がなくなりました。奇しくも父の命日と同じです。

死者の命日を聖公会では逝去者記念日と言いますが、その記念とキリストの記念は異なると考えます。

犠牲的行為はありますが、人間の死亡とイエス・キリストの犠牲死はやはり異なるからです。
すると、キリストの記念は、「想起」という言葉がふさわしいと思います。

私たちは罪を自覚するときに、その赦しを得るキリストの三つの想起に導かれるのです。
それが、聖餐式の中心です。
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洗礼の有無を問わない天の全会衆 [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式文叙唱第4部です。

以下式文ですが、前半は使徒信経の学びで別に考察してきたので、割愛し「天の全会衆とともに」について想いを深めていきたいと希望します。

司祭 父は、み子を人として生まれさせ、十字架の死と復活によって、わたしたちを罪の鎖から解放し、み子をご自分の右に挙げられました。

そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます。〈コメント省略〉

ゆえにわたしたちは、み使いとみ使いの頭および天の全会衆とともに、主の尊いみ名をあがめ、常に主をたたえて歌います。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神
主の栄光は天地に満つ
いと高きところにホサナ

ほめたたえよ、主のみ名によって来られる方を
いと高きところにホサナ

ここ最近、祈りに覚えている二人の人が急逝されました。

一人は、30年前に教会で知り合った友人で、イギリス・オックスフォードで旅に合流したこともある女性信徒です。

もう一人は、親友の夫君で、会ったことはありませんし、本名も存じ上げませんが、丁寧に祈ってきました。

洗礼は受けなかったとのことです。

遺族に慰霊の手紙を投函したばかりです。

今、彼らの存在を客観的に証明する手立てはありませんが、「信心」として述べることは許されていると思います。

なぜなら、聖餐式文には「天の全会衆とともに、主の尊いみ名をあがめ、常に主をたたえて歌」うとあるからです。

聖餐式の出席者のことを「会衆」と呼び、洗礼の有無は問うていません。

したがって、天の全会衆も洗礼の有無は問題にならないはずです。

もし、区別するならば、「天の全聖徒」と呼ばなくてはならないでしょう。

このことからも、洗礼を受けなかった夫君もまた天の全会衆の一人です。

イエス・キリストもまた、「死者の中から復活するときには(中略)天の御使いのようになる」(マルコによる福音書12:25)と明言しています。

また、ニケヤ信経も「主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り」として、普遍的な救済を先んじて唱っています。

「またわたしたち」と続けているのは、「罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し」と整合を取るため強調されたもので、地上での赦しの恵みを得て、安心して生きるためです。

教会歴の中には、洗礼を受けた者のための「諸聖徒日」と、そうでない「諸魂日」を区別していますが、これも同じ趣旨です。

また、「ゆえにわたしたちは、み使いとみ使いの頭および天の全会衆とともに、主の尊いみ名をあがめ、常に主をたたえて歌います」とありますが、「あがめ」では、地上と天上の会衆が主語になってしまうので、主の祈りと同様、「主のみ名が聖とされ」が適切であると考えます。

なぜなら、「聖なるかな」とは、聖なる神が出現したときの衝撃を歌ったものであり、会衆が神を聖なるものにしているわけではないからです。

「ほめたたえよ」以下は、キリストのエルサレム入りを記念するもので、キリストの臨在をいっそう強調している賛歌です。

聖餐式文が、「歌いまたは唱える」と歌うことを推奨しているのは、天の全会衆が歌っていることと結び合わせているからだと私は考えます。

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神のかたちに似るということは幸いを告げること [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式文叙唱第三部です。

式文は以下の通りです。

司祭 み子は、父と一体の生きたみ言です。

父はみ子によって永遠の初めから万物を造り、みかたちに似せてわたしたちを造られました。

み子とは、イエス・キリストのことですが、彼は神という性質において父なる神と同一です。

「生きたみ言」とは、英語にすると、Living Wordになりますが、これは現在進行形です。

そして、「み言」とは、ヨハネによる福音書冒頭のロゴスを指し、「初めにロゴスがあった」、「万物はロゴスによって成った」とある通り、父なる神は、すべてキリストを通過して創造し、日々新たに造り変えている(現在進行形)のです。

みかたちとは、人間と姿かたちが似ているということではなく、神の先導性のことを言っています。

神の固有名詞は、ヤハウェですが、これは英語にすると、I am that I will beであり、そうなろうとする存在を指します。

そうなろうとする神の意志を越えて、人間は活動できないという信仰告白なのです。

観念的になってしまったので例を挙げましょう。

私、浦川愼二もまた、ヤハウェ神がイエス・キリストを通して、創造した存在です。

その過程は、イエス・キリストの関係性(ロゴス)によるもので、男である父と女である母との間に生まれた命です。

そして、信仰者である私は、神がそうなろうとする意志にしたがって、うなだれた人に幸い(福音)を宣言する使命を預かっています。

さて、私の文通相手に閉鎖病棟に幽閉されている六十代の女性がいます。

ときおり、症状に悩まされますが、自宅療養しても十分な障害です。

しかし、「医療保護入院」と言って、保護者の同意を得られないと退院できない仕組みになっています。

現在の病院だけでも、20年近く入院しています。

文通するようになったのは、断続的ですが、その初期の頃からです。

しかし、近日来気まずい関係となりました。

彼女は、読める字を書ける能力があるのに、ぞんざいで難読な字で手紙を送ってくることをとがめたのです。

また、私と彼女の共通の友人の訃報を手紙で知ったのですが、彼女はその友人の悪口を書いていたのもたしなめました。

その他、催促が激しいこともあって、文通することに嫌気がさしたのです。

そのような折、ヤハウェの意味がそうなろうとする存在であり、福音を告げるために、私を造り変え、派遣する方であることを自覚しました。

幸いであるとは、居場所があることです。

居場所を奪うのが不幸の源です。

彼女の居場所は、自宅などであるはずなのに、それができません。

したがって、自ら発送するのが、私を福音の使者とすることに当たるのではないかと考え、実行しました。

冒頭、ロゴスとは関係性であると述べました。

神と人との関係、それに基づく人と人との関係、すなわち福音を告げるものであることが要請され、実行することが、みかたちに似るということなのです。

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イエス・キリストを通して隣人の存在に感謝できること [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式文叙唱第二部です。

式文は、以下の通りです。

司祭 聖なる父、永遠にいます全能の神よ、いつどこにおいても、み子イエス・キリストによって、主に感謝し、主を賛美するのは、正しく喜ばしいことです。

焦点は、「聖なる父」を「み子イエス・キリストによって」、「感謝」するのは「正し」いということです。

「聖なる父」というと、「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように」に始まる「主の祈り」を想い起します。

恩師が編集している『共助』というキリスト教の雑誌に、祈りというものは父なる神のみ名や栄光をたたえているというよりも、まず自分のためを祈っているところを暴露することとして、主の祈りの逆を列記してみることを勧めている記事がありました。

私自身が作ったものを示しましょう。( )内が本来の祈り

天におられるわたしたちの父よ
① 私を著名人にしてください
(み名が聖とされますように)
② 私が支配者となりますように
(み国が来ますように)
③ 私の意志が神のように実現しますように
(み心が天に行われる通り地にも行われますように)
④ 私の財産が常に潤沢でありますように
(わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください)
⑤ 私には罪はありませんし、私には人を赦す罪もありません
(わたしたちの罪をお赦しください/わたしたちも人を赦します)
⑥ 私は誘惑を克服しています
(わたしたちを誘惑に陥らせず)
⑦ 悪とは無縁です
(悪からお救いください)
①~③が支配欲です。④が物欲です。⑤~⑦が自己正当化です。
実は、これらの方が私たちの本音を明らかにしています。
そして、これらの欲の行き着くところは、争い、虐待、詐欺などの横行です。

そこから救われるためには、主イエス・キリストが私のために、本当に死んでくださったことを念慮する招きがあると思います。

前の記事に当てはめると、孤独感にさいなまれていた自分は家族などの無関心によるものであると錯覚して自殺未遂をしたことは、⑤の自己正当化であると言えましょう。

死から生還できたのは、身代わりにみ子イエス・キリストが死に、復活してくださったからです。

そして、私がオーバードーズに後ろ暗い所があるのは、その自己正当化の醜さを認識しており、感謝できるのは、家族が健康であることの有り難さをようやく自覚するようになったからです。

私の母は、間もなく82歳になります。肉体的には、52歳の私より体力があり、認知機能も衰えていません。

しかし、心臓疾患が少しあり、いつ倒れるのか分からない不安もあります。

朝、母と挨拶を交わすとき、今日も健康に目覚めてくれたと感謝の念が沸き起こります。

冒頭に、聖なる父をみ子イエス・キリストによって、感謝する正しさについて問題提起しました。

人は、暴力や詐欺では生きていけません。

したがって、自分の欲望を肥大化して、感謝の念を失うことは、不正であり、その逆に主イエスの死と復活を通して、隣人の存在に感謝できることが私たちキリスト教徒の救いであるのです。
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