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(自説)聖霊による働きに始まり聖霊による法廷弁論で終わる [論説]

これから述べることは、おそらく自意識過剰ではないかとの批判を受けることが予想されますが、私の想念に起こったことなので、最後までお付き合いいただければ、ありがたく思います。使徒信経の学びを聖霊の部から始めましたが、次は「息子なるイエス・キリスト」の部に移したいと思います。初めに原文を記します。

また、その独り子、私たちの主イエス・キリストを信じます。主は、聖霊によって宿り、処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトの下で十字架につけられ、死んで、葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちから復活し、天に昇り、全能の父である神の右に座しています。そこから、主は生きている人と死んだ人を裁くために来ます。

聖霊の部の冒頭で申し上げたように、信仰的事実とは、科学的事実とは異なり、その人に起こる想念に基づくものなので、客観的にみれば、仮定の表現になります。したがって、これから述べることはすべて条件節(もし~ならば)に基づいていることを予め断っておきます。

私の頭を悩ませてきた表現は、「主は生きている人と死んだ人とを裁くために来ます」の部分ですので、ここから取り上げたいと思います。結論から申し上げますと、生きている人の裁きとは、この世での裁判を指し、死んだ人の裁きとは前述した通り、死後の裁判を指します。死後の裁判については、アウトラインを描きましたが、生前の裁判の手がかりをどこに求めたらよいのか、ためらいがあります。なぜなら、そのようなことは起こるかどうか分からないからです。人は必ず死にますから、死後の裁判なら想定することが可能です。しかし、生前どのような人生になるか、例えば戦争の時に生きているのか、平和な内に生きているのか、ロシアによるウクライナ侵攻によってますます分からなくなりました。

したがって、私がどのように生きたいのかを述べなくてはなりません。そのヒントになるのが、信経の「主は聖霊によって宿り」の部分です。キリスト教徒であれば、聖霊に満たされて人生を過ごしたいと思います。ルカによる福音書2章によれば、神殿に奉献された乳飲み子イエスを抱き寄せたシメオンという人は、聖霊に満たされていたという記述があります。しかし、別のところでも、聖霊の語るままにさせておきなさいという表現が見受けられるところがあります。それは、主イエスの死後に起こる迫害の時です。

マルコによる福音書13章によれば、迫害の時には裁判所に連行されて、証言をすることになるが、予め陳述することを考える必要はない、なぜなら語るのは聖霊だからだと記されてあります。今後、この日本でキリスト教徒の迫害が起こるとは、あまり考えたくありませんが、聖霊の語るままに話すという境地とは、どのようなものなのかについては体験してみたいと望んでいます。二ケア信経によれば、聖霊は「預言者によって語られた主」とされています。だとすると、迫害の時、私は預言者と同じことを追体験できるということになります。迫害自体は望みませんが、地上において裁判が起こり、被告として立たされるのであれば、それはそれで甘受しなくてはならないことだと思います。

次に、「処女マリアから生まれ」については、紙面をあまり割かなくてもよいと考えます。それを了承していただいて、「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け」ですが、これもどこに重点を置くかですが、主イエスの裁判に重きを置きましょう。私が、言いがかりをつけられて、逮捕され、投獄されて、裁判を受ける時は、キリストに倣うことであると考えます。それだけにとどまらず、迫害期を生きた使徒たち、殉教者たちに連なることは名誉であるとも思います。すると、むしろ裁判を受けてみたいという衝動が起こります。平和な世の中であってほしいという反面、戦争の危険性が東アジアでも現実味を帯びてきました。台湾問題、北朝鮮による軍拡、中国の海洋覇権などを上げることができます。政治的苦難の時は差し迫っていると言ってもおかしくはないでしょう。

「十字架につけられ」、「死んで」、「葬られ」については、やはり自分のこととして考えないと現実感がありません。つまり、処刑されるということです。殺されることを決して望みませんが、裁判が、有罪であれば、従うよりほかありません。死ぬ時は、ルカによる福音書23章の一方の犯罪人のように、「イエスよ、御国においでになる時に、イエスよ、私を思い出してください」と歌って絶命したいと思います。

次は、「陰府に降り」ですが、ここは難解な項目です。なぜなら、聖書に記述がないところだからです。しかし、聖画像(イコン)にヒントがあります。そこには、主イエスを中央にして、巻物を手にした預言者、冠をつけた王が背後に立ち、そしてアダムとエヴァがひざまずいています。主イエスの右手は、アダムの右手を取り、アダムは右片膝をついて立ち上がろうとする様子がうかがえます。他方、エヴァは反対側で待っている様子です。この男女がアダムとエヴァなのは、伝承によるのですが、人の元祖である二人は原罪を犯したものとして、神の国には入れられていないということになっていると思われます。

なぜなら、ひざ元には壊された棺が転がっており、彼らは、いまだ死の内にあることが見て取れるからです。また、背景には岩肌が露出しているのが見て取れます。これは前述の、死んだら体が復活して石のようになるという説と合致するでしょう。原罪を犯した二人が神の国に入れない者の代表であるのならば、彼らを救おうとしているのは、全人類の救済を意味しています。神の国には順番はどうであれ、東から西から、北から南から全方角から人が集まってくるという描写があります。他宗教との関連については、「救われる者の中には信じない者もいる」という分析で述べた通りです。

「三日目に死人のうちからよみがえり」は紙面を割きませんので、了承してください。「天に昇り」、「全能の神の右に座しています」については、「父なる神」の部で考察したいと思います。冒頭、主イエス・キリストは「私たちの主」としている通り、ここだけ、一人称複数になっています。教会の信徒がともに唱える時の意味でそうなのか、死者と人にとっての意味なのか、キリスト教徒と他宗教にとっての意味なのか、多様性があると思います。いずれにしても、息子なるキリストの部は、聖霊による働きから始まり、聖霊による法廷弁論で終わるのです。
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(自論)神の国に入れるか否かの判決を待たなくてはならない [論説]

明日から9月を迎えます。9月12日は、私の洗礼記念日で、しかも30周年という節目に当たります。これまで、十戒、主の祈りについて、考察してきましたが、使徒信経は、十戒などと共に三要文(さんようもん)と言って、洗礼を受ける前に学ぶことになっている信仰箇条なので、これを考察したいと思います。

まずは、「私は信じる」についてです。これは、自然科学の客観的事実のような三人称複数(彼らは)によるのではなく、あくまで一人称単数(私は)という「自らの考えを述べる」という形式をとります。つまり、「私において」という自己主張であり、基本的に他の承認を求めません。しかし、それは支離滅裂であってもよいということではなく、聖書に基づく事実でなくてはなりません。以下に、「父なる神」と「息子なるキリスト」を論じる前に、まず「聖霊を信じる」とはどういうことかを考えてみましょう。原文は以下の通りです。

私は聖霊を信じます。聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠の命を信じます。

まず、イメージを描きたいと思います。ここに同心円があったとします。これを仮に「神の国」だとして、その中心は、(父なる)神であると仮定します。仮定いうのは、本来神の国というのは、図に表せるような有限の世界ではなく、時間や空間が無限の世界であるからです。その同心円を十二に分割します。同心円の線上には十二のポイントがあり、そこには十二人の使徒が座っていることとします。ルカによる福音書22章によれば、この十二人の使徒が、王権を受託していて、イスラエル十二部族、すなわち全人類を裁くという記述があります。裁くとは、同心円内の神の国に入るのを許可するか、追い出すかどうかという判決です。

しかし、前述の主の祈りの考察でみてきたように、神の国には序列があるとします。序列の最高位は裁判官であるとします(裁判長は父なる神です)。そうならば、同心円状には、無数と言ってよいような裁判官がいることにします。その裁判官は、死者が、生前何をしたのかを審理し、判決を下すというイメージです。マタイによる福音書12章には次のようなことが記されています。「人間は自分が発した言葉によって裁かれる。良い言葉を言ったものはよい結果を残し、悪い言葉を残したものは悪い結果を招くことになる」と。この良い悪いという結果は、地上でのことではなく、実は天上において、裁かれる時のことであると私は信じます。つまり、地上での因果応報ではないということです。

また、裁きの座については、次の記述があり、裁判官の主席はペトロであることが示されています。

私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。(マタイによる福音書16:18~19)

では、聖霊を信じるについての具体的な項目をみてみましょう。初めに「聖なる公会」についてです。結論から述べると、これは地上の教会のことを指しているのではなく、天上の神の国の構成メンバーによるものだと私は信じています。上記の通り、ペトロは、天の国(神の国)の鍵を授かっており、出入りを制限できる権力を得ているからです。つまり、彼は首席裁判官なのです。私は、この判断は地上のキリスト教徒の言葉と行いにとどまらず、宗教を越えた基準になると考えます。ヨハネによる福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)という記述がありますが、論理学の教授によると、これは「信じない者の中には、救われない者がいる」ということを指しており、逆に言えば、「信じないもの者の中にも救われる者がいる」ということになるからです。

次に、「聖徒の交わり」と「罪の赦し」、「永遠の命」についてですが、これらは皆、同じことを言っています。聖なる公会の構成メンバーを「聖徒」と言い、そのメンバーは「罪が赦された」者であり、時間と空間において無限である「永遠の命」を得るという様態のことを言っているとします。問題は「体の復活」についてです。

「体」とは、時間と場所、存在において有限であるということです。聖霊を信じるについての他の項目が無限のことを言っているのに対し、有限のことを信じるというのは奇異なことと考えてしまいます。しかし、神の国が無限であるのなら、その入り口は有限でなくてはなりません。その境目を明確にするために、有限な体の復活を提示していると私は考えます。それは具体的に、どのようなイメージかというと、前述のペトロに関する言葉に戻ります。ペトロとは、ギリシャ語で岩という意味ですが、ここで言う体とは岩のようなものであると主イエスは提示していると思います。ルカによる福音書3:8には以下の言葉もあります。

「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

造り主である「我々の父」については別に論じますが、人を石ころから造ることができるのなら、死後の人の霊魂を石ころに閉じ込めることができると私はイメージします。石は、手足がありません。動くことができず、風雪にさらされます。神の国に入れられなくては、裁判の審理の最中、ずっと我慢を強いられると仮定します。そこには不安しか残りません。裁判の審理はいつ終わるか分からず、判決は勝訴だとは限らないからです。このコントラストこそ、無限の命に対し、有限な体、すなわち岩のような存在だと言いたいのです。

最後に、先に引用したペトロを首席裁判官に任命する個所で「陰府の門」という言葉がありますが、これをなんと考えたらよいのかについてです。体の復活が、有限の世界で天国の入り口にあたると申し上げました。その外側にあるのが、「陰府の門」、すなわち、石のような形態の存在で漂っている場所なのだと考えます。また、判決が悪く、神の国に入れないのであれば、悔い改めが求められ、それが不十分であれば、次の裁判でも敗訴します。このような繰り返しを「陰府の門」に留置されていると呼びたいと考えます。しかし、後述しますが救いはあると想定します。なぜなら、主イエス・キリストは十字架の死後、「陰府(の門)」に降下したという記述もあるからです。これについても、後に論じたいと思います。

神の国という無限の世界があるのに対し、裁きを受け続ける危険性のある陰府の門について申し上げました。私たち一人ひとりの言葉と行いは、死後、裁判上の審理を経て、神の国に入れるか否かの判決を待たなくてはならないと考察します。
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(自論)「父よ」に始まる主の祈りとは「裁判長閣下」に対する敬礼 [論説]

主の祈りに続いて、「栄唱」を添えることがありますが、それは次の通りです。

国と力と栄光は永遠にあなたのものです。アーメン

私はこれまで、この祈りの意味がよく分かりませんでした。考えをめぐらすと、国と力、栄光は同じことを指していると思います。「国家」と言えば、権力を持っています。権力とは、すなわち「強制力」です。そして、栄光とは他を寄せ付けない光、すなわち「威光」のことを指します。したがって、三者は力を示しているのです。

御国が来ますように

という祈りがあります。これは、御国の権力が行使されるその時を待ち望む祈りです。何を望むのかというと、神の国の席の序列(食卓の席次)を決める判決です。マルコによる福音書10章には、十二弟子の内のゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスの王座就任の暁には、自分たちを左右に座らせてほしいという願いをしたという物語があります。その中で、主イエスは自分の左右に着座する序列は「私の決めることではない」、「定められた人々に許される」と言及しています。また、「偉くなりたい者は仕える者に」と推奨して、「偉くなること自体」を否定していません。それは複数の裁判官から成る、神の国の裁判と言えるでしょう。そして、この祈りは人生を終えて、今から審理が始まってもよいという意思表明なのです。

では、判決の基準は何でしょうか。マタイによる福音書6章には、神に仕えるか、富に仕えるかどちらかを選びなさいと主イエスは命じています。そして、主の祈りには次の言葉があります。

御心が天に行われる通り
地にも行われますように

これは、天上の評決基準と地上での実践基準が同じことを示しています。信仰があったら、それは行いに移さなくてはならないのです。したがって、神の国で席を得るためには、神に仕えることを選んで、富を排除しなくてはなりません。その祈りこそ、

御名が聖とされますように

なのです。この祈りは、「でし」として、私が富に仕えるのではなく、神にのみ仕えるという富への決別宣言と言えます。地上で金儲けをするよりも、カネにならないボランティアをする方が、「天に宝を積む」(マタイによる福音書6章)ことになり、それは永遠に朽ちることはありません。

私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。

という祈りは、富に仕えるのではなく、神に仕えるには「最小限度」の生活費について、人々から「食べ物を受けるのは当然」(マタ10章)なのですが、やはり負債として残ります。この負債免除を求める祈りが、

私たちの罪をお赦しください。
私たちも人を赦します

ですが、免除される負債額と免除するきょうだいの負債額は一致しません(マタイによる福音書18章)。免除される額が巨大であったとしても、免除する負債額が少額であっても、それは同じ免除なのです。

私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください

とは、富に仕えたいという衝動を抑えることを指しています。もう逆戻りはできないのです。私は、断酒を始めてから、約一か月が過ぎました。退転することは、天国の席次に係ることですが、それがなくても浪費癖のあった私の負債額はかなり大きいものです。ルカによる福音書22章によれば、十二使徒が王権を委任され、全人類を裁く権能が与えられていると言います。その様は、これから食卓の席次を決めるかのような描写です。つまり、十二使徒が裁判官であり、席次を決めるということだと考えられます。むろん、裁判長は、父なる神です。

天におられる私たちの父よ

とは、裁判長閣下に対する敬礼なのです。
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(奨励)命の所有権は神にあり人には無償の使用権だけが残る [奨励]

昨夜、私は仏教の真理とされている「諸行無常」、すなわちすべてのものは変化するという思想に対して疑問を持ちました。なぜなら、キリスト教の正典であるイザヤ書には「草は枯れ、花はしぼむが神のことばは永遠に立つ」ということばがあるからです。このことばとは、出エジプト記の「十戒」、すなわち「神のすべてのことば」に集約されていると考え、安息日規定について考えをめぐらしました。一般的には、安息日とは、労働に対する疲労の回復が目的とされていますが、果たしてそうなのか疑問を持ちました。考えをめぐらすうちに、安息日とは神から貸し出された時間を、持ち主に返すことではないかという問題意識が芽生えてきたのです。

すると、十戒の第一である、「私をおいてほかに神々があってはならない」とは、すべての根源は神であるという「場所」のことを指しているのではないか、また第二である「自分のために彫像を造ってはならない」は、「物」のことを取り上げているのではないか、さらに、第三である「主の名をみだりに(虚しく)唱えてはならない」は「名義」のことを言っているのではないかという試論が展開してきたのです。第四は、前述の通りです。つまり、第五については、父と母は、「命」の貸し出しの窓口であり、彼らを尊重することは、すなわち命の持ち主であり、命の貸し主である神への敬意を念押しするものだと考えるに至ったのです。

「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」、「貪ってはならない」の五つの規定の中心は、「盗んではならない」であるとすると、もともと神の名義であった命を、自分の所有であると主張するのは、持ち主である神の意に逆らうことではないかと考えます。自分の命も隣人の命も、神のものであるとすれば、勝手に奪ってはなりません。また、神が結びつけた婚姻関係を意のままにすることも、慎重でなくてはなりません。偽証してはならないとは、複数の人間が共謀して、神の命や物などを盗む行為です。貪ってはならないとは、命と物などを盗んではならないことの総括で、「盗んではならない」という基本精神を念押ししている規定と考えます。

では、キリスト教における救済とは何かについて、命の持ち主であり、貸し主である神と信徒の関係を考えたいと思います。話を分かりやすくするために、ビデオレンタルを事例とします。

ビデオの所有権はレンタル店にあります。その所有物を会員に貸すのですが、料金や貸し出し期限などについて、会員は約束(契約)を遵守する義務が生じます。その規則を基に、ビデオを会員は借りることができるのですが、会員は返却期限を過ぎたのに返さないだけでなく、所有権を主張したとします。これは窃盗行為です。刑法により、会員は罰則を受けることになります。しかし、レンタル店は、所有権を取り戻すために代金を支払うことにします。そして、会員は罰則を受けることなく、再び借り出しをできる、そのような借り主に有利な構図がキリスト教における救済なのです。

ビデオを一人ひとりの命に置き換えます。命の所有権は神にあるのですが、実は人はそれを借りているのに過ぎないものとして考えます。貸し出しの期限は、その人の死をもって決まります。しかし、自分の命は自分のものだと命を私物化するのが、ビデオの所有権を強奪するのと同じ関係です。これは窃盗行為であり、信仰の始祖アブラハムとの契約においては、死をもって償うことになっています。しかし、神は人を滅ぼしたくないので、自分の金を用意して、奪われた所有権を買い取ろうとします。その身代金がイエス・キリストです。身代金の引き渡しは、イエス・キリストの死によって完全に果たされました。

しかし、神は命の貸し出しの再開さえ許します。その道のりの一つが人間性の要である肉体の復活です。復活が「でし」に可視化されることによって、命の貸し出し再開のサインとなりました。これが罪の赦しです。しかし、本当に再開されるのは信じるしかありません。キリストが天に昇って、神の許可を得ているとの確約が必要です。そのために、生前キリストは「主の晩餐」で、神の命であるパンとぶどう酒を聖霊によって聖別し、人に「与えました」。しかし、それは所有権を与えられたのではなく、使用権を「貸し与えた」ものであると私は捉えます。そうでなければ、命の私有化を再び是認することになるからです。イエス・キリストによる代償(犠牲死)は、完全なものですから、さらなる罰は与えられません。そして、神の命は、レンタル店と会員との関係と同じであることに変わりはありません。

キリスト教の正典であるヨブ記には、次の言葉があります。「私は裸で母の胎を出た。私は裸で、そこへ帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と。私たちに命は、結果として主なる神によって、奪われるのだから所有権はありません。あるのは無償の使用権だけです。その無償性に感謝し、罰を受けることなく、貸し出しを再開してくれた神と身代金となった神の子イエス・キリストをほめたたえずにはいられないのです。
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(奨励)偶像崇拝は他者のせいではく自分の心から生じるもの [奨励]

10月8日、日本聖公会の聖餐式等で行われる、第二朗読は、イザヤ書5章から抜粋された「公正と正義への裏切り」についての預言です。

イザヤ書は、全66章の内、歴史的背景が異なることから、1~39章までを第一とし、40~59章までを第二とし、残りを第三と区分されます。今回の預言者は、南ユダ王国の「ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤが王であった時代」とあるので、第一に当たります。

朗読箇所からは外れますが、同じ5章に「彼らは賄賂によって悪しき者を義とし/正しき者たちの正義を退ける」とあります。この賄賂こそが、公正を捻じ曲げる根本なのですが、それはなぜでしょうか。賄賂とは、カネやモノで権力者を買収することです。その目的は、買収して、職権を握れば、有利な方向に政策が変わり、さらなるカネとモノを手中にできるからです。それに夢中になっていたら、もはやヤハウェ神のことなど眼中にありません。財物こそが神なのです。一言にすれば、拝金主義です。神ならぬものを神とする、すなわち偶像崇拝が起こるのです。異教による影響が偶像崇拝を生むのではなく、自分の欲がそれを誘発するのです。

1章には、「あなたがたが進んで聞き従うならば、地の実りを食べることができる」、これに反し「あなたがたが拒み逆らうならば剣の餌食となる」とあります。しかし、聞き従うためには、そのための条件が必要になってきます。道徳論を持ち出しても説得力はありません。私は次のように考えます。自分の本音を明らかにし、それを後悔する心、すなわち自分自身を客観視できるか否かにかかっているのだ、と。それが、神の前に、さらには遣わされた預言者を通して、悔い改めの心が生じるのです。

例えば、5章には「災いあれ、朝早くに起きて麦の酒を求め/夜遅くまでぶどう酒に身を焦がす者に」という言葉があります。拝金主義の根元には快楽主義があるのです。麦の酒もぶどう酒も、その他遊興のためにはカネが必要です。遊興を豪華にすればするほど、もっと豪勢な宴席を求め、欲は尽きるところがありません。私は、かつて夜遊びに興じて、近場のクラブを回って、後には地方の歓楽街に行き、最後は東京の銀座のクラブを3軒回りました。しかし、それで濃密な人間関係を構築できたわけではなく、カネを使うための行事でしかありませんでした。

悔い改めというのは、人生の目的に対する深刻な問いかけがなくては起こらないものです。病気になった時、財産を失った時、近親者がなくなった時など、これまで自信のあった健康や地位、寿命などが思うようにならなくなった時に初めて気づくことが多いものです。それが顕著になるのが戦争です。第一イザヤが活躍した時代には、シリア・エフライム戦争というのがありました。隣国に新アッシリア帝国という大国の覇権に立ち向かおうと、アラムと北イスラエル王国が同盟を結び、南ユダ王国も勧誘されますが、ヨタム王はこれを拒みます。結果として、同盟国は敗れ、しばらくして北イスラエル王国は滅亡しました。

北イスラエル王国の国王は、自分が王に即位するために、国王を暗殺するという事態が続いてきました。権力と地位を手中にして、快楽を得るための醜い争いです。経済的に反映する時期もありましたが、所得格差が生じ、預言者たちによって糾弾の的になりました。偶像崇拝は、そのような欲得から生じることを北イスラエルの興亡の中にみたいと思います。そして、南ユダ王国も滅亡するのです。偶像崇拝は、他者のせいではないのです。自分の心から生じるものです。
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(試論)天使の介在を認めると信仰生活が豊かになることも [論説]

9月29日、日本聖公会の呼び名で「聖ミカエルおよび諸天使の日」という祝日で行われる、第一朗読は創世記28章から、第二朗読は黙示録12章から、福音朗読はヨハネによる福音書1章から、それぞれ抜粋された「天使の働き」に関する御言葉です。これについて、以下のように考えました。

神の御言葉は、人間の理解をはるかに越えています。また、人間の祈りの言葉は、そのままでは神に通じません。考えられることとして、天使は神と人間を介在して、御言葉と言葉を翻訳する役割を果たしていることがあります。もしそうならば、特有の文法が必要なので、秩序や規律が求められます。したがって、大天使や下級の天使の存在をみることができます。

ミカエルは大天使と考えられていますが、ヘブライ語の「ミカエル」の意味は、「神に似る者は誰か」です。神のような者とは、天使の群れ(万軍)であり、神の栄光を帯びています。第一朗読と福音朗読の共通点は、昇り降りする天使たちです。昇りは祈祷を想い起します。祈祷は天使の介在を経てキリストに届けられ、父なる神に執り成されます。降りは託宣を想い起します。御言葉は天使の介在を経て託宣され、預言者や説教者が取り次ぎます。

第一朗読に出てくる「べテル」というヘブライ語は、「神の家」ですが、これはユダヤ教の聖所や会堂など、またキリスト教では教会のことを指します。上記の考えだと、託宣も祈祷も天使の介在なくしては成り立たないので、そこには天使も出入りしていることになります。聖餐式などの礼拝も天使が取り仕切っていると考えられています。聖餐式文には、「ゆえにわたしたちは、み使いとみ使いの頭および天の全会衆とともに、主の尊いみ名をあがめ、主をたたえて歌います」とある通りです。

天使もまた、目にみえない存在ですが、この介在を認めると、人によっては信仰生活が豊かになっていくのかもしれません。私はあまり考えないことにしています。
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(試論)過越の4段階と人生の道のり [論説]

過越とは、出エジプト記において、ヤハウェ神によって、奴隷の家であったエジプトから約束の地カナンに導かれる全過程を指しますが、これは奴隷の家=私たち一人ひとりの罪、カナン=罪の赦し、と置き換えることができます。すると、過越の4段階はA:洗礼、B:死、C:復活、D:逝去という人生の道のりをたどることができます。過越は、受肉、主の晩餐(パンとぶどう酒の聖別)、十字架の死、復活、昇天において、神性と人性の割合を自由自在に増減させることができるものです。これを説明するために、神性と人性の関係から入って行きたいと思います。

受肉から昇天までを番号化すると、以下のようになります。
①人性と神性かつ人性極大→受肉
②人性と神性かつ神性小 →主の晩餐
③人性と神性が拮抗   →十字架の死
④人性と神性かつ神性大 →復活
⑤神性無限∞      →昇天

①~⑤を説明するにあたって、氷の氷結度を例にして説明します。
例えば、水を冷凍庫に入れた場合、氷結度を⑴~∞、水分度を0~9とすると、
      神性              人性
①:受肉 氷結度   (1) (右肩上がり) 水分度9(右肩下がり)
②:晩餐  (3)           7
③:死   (5)    5(拮抗)
④:復活  (7)        3
⑤:昇天       (∞)       0

以下に、ルカによる福音書から引用して、( )で補い、①~⑤までの番号を振って、A~Dの過越を示し、< >で人生の道のりを示したいと思います。
・イエスは言われた。「苦しみを受ける②→③過越B<死>前に「あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた①→②過越A<洗礼>」(22:15)。
・そして(もう一人の犯罪人が言った)、「イエスよ、あなた(の霊)が御国へ行かれるとき④→⑤過越D<逝去>には、私(の霊)を思い出してください」(23:42)。
・イエスは「よく言っておくが、あなた(の霊)は今日私(の霊)と一緒に楽園に(向かって)いる③→④過越C<復活>」と言われた(23:43)。
・それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた④→⑤過越D<逝去>(22:50~51)。

(再掲)
①人性と神性かつ人性極大→受肉
②人性と神性かつ神性小 →主の晩餐
③人性と神性が拮抗   →十字架の死
④人性と神性かつ神性大 →復活
⑤神化無限∞      →昇天
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(奨励)主イエス・キリストの恵みによる喜びと祈りと感謝 [奨励]

10月15日、日本聖公会の聖餐式等で行われる、第二朗読は、フィリピの信徒への手紙4章から抜粋された、「パウロの遺言」についての御言葉です。

フィリピの信徒への手紙は、今回で結びになります。結論から言いますと、パウロが書いた最後の手紙であるフィリと最初の手紙であるテサロニケの信徒への手紙一5章は、結びが非常に共通しているということを申し上げたいと思います。

まず、フィリを引用しましょう。

主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(4節)
どんな場合でも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(6節b)

次に一テサ(16節~18節)の引用です。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて
神があなたがたに望んでおられることです。

そして、フィリにおいて、パウロは「主は近い」又は別訳の「主は近くにおられます」と言っています。これは、死を覚悟した「彼にとって」なのだと思うので、遺言だと考えるのです。倫理的勧告については特に申し上げませんが、9節bに「実行しなさい」とあるのが注目されます。推奨される善と禁止される悪は、心に思うだけではなく、言葉を発し、実行されなくては意味がないのです。推奨されるのは、相互愛です。禁止されるのは十戒で示された悪徳です。これらについては、前の記事で述べてきたので、割愛します。

これらの倫理的勧告、つまり喜び、祈り、感謝は、言うまでもなく主イエス・キリストの恵みが先行するからです。
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(試論)「万物を支配下に置くことさえできる力」による奇跡=形態変化 [論説]

10月8日、日本聖公会の聖餐式等で行われる、第二朗読は、フィリピの信徒への手紙3章から抜粋された、「栄光あるキリストの体(形態)へのパウロの憧れ」についての御言葉です。

フィリピの信徒への手紙の考察は、これで三回目ですが、論題を整理するために「形態変化」(英語でtransformation)という概念について説明したいと思います。以前、「無我」とは、我執を全く失ったわけではなく、極限までそれを取り去る状態であることを例示しました。この考えを応用して、「無神」という造語も、神性が全くないのではなく、極限まで神性を取り去った状態と言うことにします。逆に、「無人」という造語も、人性が全くないのではなく、わずかに神性を残している状態ということにします。

受肉から昇天までを番号化すると、以下のようになります。
①無神 人性と神性かつ人性極大→受肉
②無人A 人性と神性かつ神性小→「主の晩餐」
③無人B 人性と神性かつ神性中→十字架の死
※遺体(人性)は、主の晩餐における聖別(神性)を賦活した聖体・聖血(血みどろの遺体)
④無神C 人性と神性かつ神性大→復活
⑤神化 昇天=父なる神と一体化

①と⑤は了解してもらっているということにして、②と③、④を説明するにあたって、氷の氷結度を例にして説明します。
②の主の晩餐においては、パンを聖別して「キリストの体」に、ぶどう酒を聖別して「キリストの血」に形態変化させたという捉え方を採ります。これは、パンとぶどう酒を神性そのものに実態変化(英語でtransubstantiation)させたのではなく、「形態(英語でform)」を変えたものを指します。
例えば、水を冷凍庫に入れた場合、氷結度を⑴~⑽とすると、
②は氷結度が割合として(3)
③はそれが(5)
④はそれが(10)
⑤はそれが(無限∞)
であるとします。
つまり、神性の小と中、大とは神性という形態が、氷結するように漸増することを指します。あたかも、冷凍庫の中で徐々に氷結するように、神性の割合が増えて、形態が変わっていくことを説明するものです。そして、昇天は無限の神性になります。かつ、これが受肉への出発点と「なった」のです。

つまり、パンとぶどう酒の聖別という奇跡、十字架の死という奇跡、復活という奇跡など、神性と人性を自由自在に変化させることが可能なのを「奇跡」と呼ぶのです。

以下に、朗読箇所であるフィリピの信徒への手紙3章の文末を引用し、①~⑤までの番号を振って、考察を閉じたいと思います。

しかし、私たちの国籍は天にあります⑤。そこから救い主である主イエス・キリストが来られる(※来られた)①のを、私たちは待ち望みます。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力①~⑤によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体②→➂→④と同じ形に変えてくださる(※英語でtransform)のです。(20~21)

①無神 人性と神性かつ人性極大→受肉
※これは過去であり、「再臨」を私は否定します。過去に起こり、現在も継続している「聖霊降臨」だけがあるのです。
②無人A 人性と神性かつ神性小→「主の晩餐」
③無人B 人性と神性かつ神性中→十字架の死
※遺体(人性)は、主の晩餐における聖別(神性)を賦活した聖体・聖血(血みどろの遺体)
④無神C 人性と神性かつ神性大→復活
⑤神化 昇天=父なる神と一体化
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(奨励)天上には私たち一人ひとりの名前が記されている予約席がある [奨励]

10月1日、日本聖公会の聖餐式等で行われる、第二朗読は、フィリピの信徒への手紙2章から抜粋された、「キリスト賛歌」についてですが、前回に引き続く考察です。

前回は、

「かえって自分を無にして」という部分が、神性を極限まで無にする代わりに、極限まで人性を付与したのが、イエス・キリストという、真(まこと)の神であり、真の人であるということ(受肉)、それはまるで成人が少年、あるいは乳飲み子のように謙遜になる、さらには元理事長のような偽善者とは全く逆であるということを論じました。

今回は、さらに話を進めて、「聖餐におけるイエス・キリスト」について論じたいと思います。まず、賛歌を引用しましょう。

キリストは(中略)
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。

私は、この部分を十字架の死の直前に、主イエスが定めた「聖餐」に応用したいと考えます。

 キリストは
 パンとぶどう酒という姿で現れ
 へりくだって、聖別に至るまで
 それも引き裂かれた欠片(かけら)に過ぎない体と罪の赦しのための血にするに至るまで
 従順でした。

キリストが人間の姿で現れ、従順な死を遂げたのは、主イエスが、自身を十二(普遍)の欠片に裂き、今度は受肉とは逆に、極限まで人性を小さくする一方、神性を極大化する聖別を行うという秘義を定めました。秘義とは、二つの性質を極小化、極大化することにおいて、神は全く自由であるという神秘のことを指します。先の例で言えば、成人を少年にする一方で、逆に少年を大人にすることができる全能性を指しています。

先に進めましょう。今度のテーマは昇天に関することです。

このため、神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名を
お与えになりました。

昇天において、キリストは人性を脱落し、天の父の元にかえりました。神性の極大化をはるかに越えて神性そのものとなり、神のいるべき人間の観念を越えた「場所」に着いたのです。それは、私たちが陪餐する、極大化した神性であるパンとぶどう酒が、やがて帰着すべき私たちの昇天(高挙)を暗示するものだったのです。こうして、私たちは地上にいながら昇天を約束され、死後においては、神の隣に行くという信仰を与えられています。「お与えになりました」とは、そのことを指しています。

最後に、万物による礼拝に関することです。

 それは、イエスの御名によって
 天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
 膝をかがめ
 すべての舌が
 「イエス・キリストは主である」と告白して
 父なる神が崇められるためです。

主イエス・キリストを礼拝することは、主と私たちを分離、対象化すべきではなく、一体化したものとして捉える必要があります。イエスの御名とは私たちの名前、すなわち私たち自身であり、その喜びとして、イエス・キリストと天におられる父を賛美することです。

三位一体のイコン(聖画像)というものがあります。四角のテーブルに三人の人が座していますが、もう一辺は空席です。この空席こそ私たち一人ひとりが着座することが招待されているという信仰であり、証しです。天上には、私たち一人ひとりの名前が記されている予約席があるという信仰です。
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