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主イエスが罪人を「贖う」ことと信仰者の「想起」という救済の両面性 [論説]

キリスト教の根本教理の中に「贖罪」がありますが、この言葉は正しくは「贖罪人」です。例えば、「汚名を挽回する」という誤った表現がありますが、主イエスは「罪」という概念を選び取って買い取る、すなわち「贖う」のではなく、「罪人」としての人間をまるごと選び抜いて、ご自分のものとするのが贖いであり、言い換えれば贖罪人ということになるのが私の主張です。
では、贖罪人とはどのようなことを指すのか考えていきましょう。ここであるイメージを用います。最近問題になった、ホストクラブに多大な借金を背負わされ、風俗店で働かされることになった女性を事例にします。この女性に仕組まれた構図こそ、「贖罪人」のイメージにぴたりとあてはまるケースだからです。しかし、彼女が罪人であると言いたいのではなく、構図そのものが「贖う」という意味を明確にする目的です。まず、彼女は風俗店に押し込められることになり、不本意な労働を強いられています。その労働から逃れようとすれば、風俗店と結託している暴力団に逃亡を妨害されます。つまり、彼女は監禁され、強制労働をさせられているのです。
ここで、主イエスの「贖い」が登場します。主イエスは「奴隷の家」である風俗店から彼女を救い出すべく行動を「起こす」とします。しかし、救出には暴力団と闘わなくてはなりません。主イエスは風俗店に乗り込み、かろうじて彼女を逃すことに成功しますが、暴力団のピストルの弾丸により、失血死します。このような様を「血による贖い」と言います。主イエスの十字架の血による贖い、しかも、ただひとたびの完全なそれによって、実はキリスト教徒一人ひとりは「奴隷の家」(ここで言う「風俗店」)から解放されているのです。
しかし、奴隷の家はどこか別のところにあるのではなく、実は自分の中にあるというのがキリスト教の奥深さであるとともに、ややこしいところです。そこで、自分の中の罪とは何かを具体的にみていきましょう。聖公会の『祈祷書』に「嘆願」というものが収録されています。そこには、「心の迷い、高慢、虚栄、偽善、ねたみ、憎しみ、恨み、またすべての無慈悲」及び「不品行」が列挙されています。これらの思い、言葉、行いと言えますが、「不品行」については、同性愛などのように、時代と共にその概念が変わっていくことに注意を払いたいと考えます。
つまり、心の迷い以下は、自分の心に巣食う奴隷の家であり、ここから逃れるためには自分の力では決してできることではなく、主イエスの命を懸けた起動により、完成されたと信じているのが私たちキリスト教徒なのです。これは、主イエスの失血死に留まりません。この罪人の贖いは、主イエスの死からの復活により、新しい「いのち」と一体化することにも及びます。
復活の教理もまた、説明を要することです。これは、神秘としか言いようのないことですが、あるイメージを用います。人間は死ねば、身を横たえますが、復活とはここから「立ち上がる」ことを意味しています。聖餐式の前に「チャリス」という盃に「パテン」という受け皿が乗っかっていますが、パテンには聖別される前の種なしパン(ホースト)が、置かれてあります。すなわち、聖餐式の前には「失血死した」ホーストが横たえられています。これが、感謝聖別祈祷により、会衆に向かって縦方向に顕示(エレヴェーション)されます。これが「復活」を示しているのですが、注意しなくてはならないのは、聖餐式において主イエスの死と復活が繰り返されているのではないということです。
ここで、会衆による想い「起こす」という救いに向けての行動が求められます。先に、私たちの救いは主イエスによるほかないと述べましたが、それは出発点であって、終点に至るには会衆の「想起」なしにはあり得ないのです。つまり、主イエスが行動を「起こしている」という信仰と、主イエスを想起するという信仰の両面性があって初めて成立することだからです。その前提として、私たちは「心の迷い」などの罪を負っているという自覚と、主イエスの起動による回復、そして復活のからだとの一体化、これらが目に視える形で行われるのが聖餐式なのです。

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