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あらゆる手 [奨励]

6月30日(聖霊降臨後第6主日)、日本聖公会の福音朗読は、マコ5:22~24、34~43の「会堂長ヤイロの娘の蘇生」物語です。

この物語の焦点は、主役であるべきはずのヤイロの感情の揺れ動きが描写されていないので、それを行間の内に読み込むことです。

彼は、主イエスのもとに来て、自分の幼い娘が病気だから、頭に按手してほしいと懇願します。

冒頭では、その必死さがよく伝わってきます。

ところが、この後に「生理の出血が止まらない女性の癒し」物語が挿入され、彼の姿は忽然と消えますが、この足止めに焦りを感じたに違いありません。しかし、当の主イエスが動いてくれなくてはどうにもならず、忍耐するよりほかありません。

そして、一行が出立すると、悲しい知らせが届きます。娘はもう死んでしまったのです。

彼にしてみれば、悲しいというよりも悔しいと言った方がよいのかもしれません。

彼の家の中には大勢の人々が泣き騒いでいます。

彼にとっては、その悔しさを逆なでするものであったことでしょう。

しかし、主イエスは「死んだのではない。眠っているだけだ」と告げます。人々はあざ笑いますが、彼と家族にとっては一縷の希望だったはずです。

そして、少女は主イエスに手を取ってもらって、蘇生させられます。

さて、ニュースでは「消滅危機自治体」が全国に及んでいることが報道されています。

何とか対策を、と危機感を持っているところが多いと思いますが、それはヤイロの心情の動きとよく似ているのではないでしょうか。

懇願、焦り、忍耐、悔しさ、希望など、様々な葛藤を含んでいるはずです。

しかし、「手をこまねいていて」は、何も変わりません。
命が消滅したかに見える少女の手を、主イエスの手に添えるような働きが、この危機を掬うのだと思います。

私が所属する福田聖公会も存亡の危機にさらされています。

その中で、自分に何ができるか、よく考え行動していきます。

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