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主が命を引き揚げた歴史 [随筆]

今回は、日本聖公会聖餐式文叙唱の冒頭を取り上げます。以下式文

司祭 主は皆さんとともに
会衆 また、あなたとともに
司祭 心を神に
会衆 主に心を献げます
司祭 主なる神に感謝しましょう
会衆 感謝と賛美はわたしたちの務めです

焦点は、「主に心を献げます」にあると思います。

これは、「主は命を引き揚げる」とした方が適切ではないでしょうか?

なぜなら、本当の感謝というものは、自力で高揚感をあおることによってではなく、神や他者によって、救済された事実によってのみ生じるものと考えるからです。

私は、二度死にかけたことがあります。

その中に、今話題になっている抗精神病薬(向精神薬)の大量服用による自殺未遂がありました。

双極性気分(感情)障害を患わって、すでに15年以上が経ち、寛解する見込みもなく、孤独感にさいなまれていた私は、家族が泊りがけの留守中に、手元にあった2週間分近くの薬を飲み干しました。

家族が発見した時には、ぐったりした様子で、救急搬送され、一時は重篤な事態になり、家族に泊まり込み待機が要請されました。

幸い命を取り留め、後遺症もなく過ごしていますが、近隣で同じようにオーバードーズにより死亡した事例があります。

したがって、抗精神病薬の「安全性」は、疑ってかかった方がよいと考えます。

さて、私が孤独感に絶望したのは、自分には居場所がないと思い込んでいたことによります。

教会関係の人間関係に行き詰った、夜遊びも一回りした、家族は外出して悩みを共有できないなど、生きる目標を失っていたのです。

しかし、キリストはわたしを生かしてくださった。

そして、小著『裏切られてもなお―キリスト教があなたに贈る喜びのエッセイ』単行本、文庫本を上梓することができたのです。

冒頭、「主に心を献げます」が問題であると提起しましたが、献げますでは直前の奉献と重複します。

そして「心」というのは、単に内面というよりも、臨死体験のような具体的事実の中から抽出される重大事で、語意としては「命」とする方が適切です。

そして、このような重大事は、自力で救助したというよりも、医療機関を含める他者によるものであり、幸い命を長らえているのであれば、それは神の恵みによるのです。

オーバードーズによる自殺未遂など、自分ではみっともないと考えてきました。

しかし、書籍を著す目標を与え、それを成し遂げ、今も文筆活動をできるのは、ひとえにあの危機を神が回避させてくださったからです。

感謝と賛美が、私たちの「務め」であるとするならば、主なる神が、私たちの全存在を別次元へと移行させた歴史を振り返ることから始まるのではないでしょうか。

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あらゆる命を天上の主に帰す [随筆]

今回は、聖餐式における奉献について考えたいと思います。

奉献は、「み名にふさわしい栄光を主に帰し、供え物をささげましょう」とある通り、献金を集めることが主眼ではなく、供え物であるパンとぶどう酒を準備することにあります。

また、ヨハネによる福音書で、絶命したキリストの体の脇腹を槍で突いたら水と血が流れたとあることから、水も用意します。

これは、過越の食事を準備する前に、水がめを持った人に案内を乞うたこととも関連するのかもしれません。

水は、命の源だからです。

そして、奉献を準備する前に奉献唱という言葉が述べられますが、一般的には「受けるよりは与える方が幸いであるとの主の言葉を想い起しなさい」とあります。

これは喜んで献金を集めるというよりも、人から赦しを受けるよりは人に赦しを与えることの方が幸いであるとの生活態度を示しているのだと思います。

なぜなら、マタイによる福音書の中で、祭壇に捧げものをする前には、行って仲たがいしたきょうだいと和解しなさいという勧告があるからです。

そして、「すべてのものは主の賜物。私たちは主から受けて主にささげたのです」との締めくくりの言葉も献金のことを指すというよりも、一義的にはあらゆる命は主からいただいたものであり、それを天上の主に帰すという趣旨であるのだと思います。

なぜなら、献金を集めなくても供え物の準備のみ行われることもあるからです。

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平和の挨拶は愛の実践に努めること [随筆]

今回は、平和の挨拶について考察します。

これは、司祭の「主の平和が皆さんとともに」

「また、あなたとともに」

「平和の挨拶をかわしましょう」

という交唱の後、接吻、抱擁、握手、お辞儀などで挨拶するものです。

日本人は、ボディタッチに慣れておらず、異性間の握手でも違和感のある人がいるので、注意が必要です。

先述したとおり、懺悔を前にずらしたとすると、平和の挨拶は代祷を受けたものとなります。

しかも、「聖餐の部」の冒頭に来るので、極めて大事であると言ってよいでしょう。

代祷とは、人の代わりに神に執り成す祈りのことですが、他者のことだからと言って、よそ事だと思ってはなりません。

「互いに尊敬する心を与え、正義と平和の道に導いて」

「主の真理と愛の内に一致させ、日々主の栄光をこの世に現わすものとならせて」

「ともに主を知り、主に仕え、互いに愛することができるように」

「御力を与えて、勇気と希望を増し加え、主の救いの喜びに導いて」

「逝去者との交わりを保ち、ともに御国の栄光にあずからせて」

という祈願は、教会自身、そして一人ひとり自身の問題です。

しかし、私はこれらすべてが満たされなくては、主の平和にならないなどと主張するつもりはありません。

ただし、「互いに」が二度出てくるので、意見の違い、相性のよしあしを越えて相手と向き合うことができるかが重要であると思います。

また、大栄光の歌にも「平和」が述べられています。

いと高きところには神に栄光

地には御心に適う人々に平和がありますように

では、「御心に適う人々」とは何を指しているのでしょうか?

キリストが律法学者に最も重要な掟(御言葉)は何かと問われた時、

主なる神を全身全霊で愛すること

隣人を自分のように愛すること

と答えました。

代祷の項目は、隣人愛の実践ですが、愛するということは何か、神を愛するというのはどういうことなのでしょうか。

慈愛という言葉があるように、愛することと慈しむことは類語です、慈しむとは若芽をみて大事に育てたいと思う心の働きです。

そのような親心だとすると、神を愛するというのは、むしろ神に愛されるということで、神を対象化するものではありません。

したがって、神を愛するということは、全身全霊まるごと、神に大事に育てられたいという謙遜です。

神に対して謙遜であること、隣人に対して慈愛の心を持つ人、持とうと努めている人、このような人々が「御心に適う」のではないでしょうか。

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天使との大合唱の備え(懺悔) [随筆]

きょうは、聖餐式の懺悔の部分について考察してみたいと思います。

先に、「懺悔のいけにえ」と称して、悔い改めの重要性を説きましたが、天使の存在を肯定することによって、撤回したいと思います。

まず、「平和のあいさつ」に始まる「聖餐の部」の直前に、懺悔が置かれているのは、聖餐式の「本格化」に対する準備を意図していると考えられます。

しかし、懺悔の位置は参入と「清めの祈り」の間という冒頭にも、置かれうる選択肢があり、これは次のようなものです。

憐れみ深い父なる神よ、わたしたちはしてはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと言葉と行いによって、多くの罪を犯しています。どうか、罪深い私たちをお赦しください。新しい命に歩み、み心にしたがい、み栄えを現わすことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

「新しい命に歩み、み心にしたがい、み栄えを現わすことができますように」というのは一見すると、礼拝後の生活を指していると思われますが、実は今から始まる礼拝のことを指しているのです。

したがって、現行のように「大栄光の歌」を天使たちと合唱してはるか後に、懺悔を置くのは時間的に錯誤していると言えます。

この点、祈祷書改正にあって、どのように再考されているのか注目したいと思います。

さて、現行の懺悔では「天使の前」で罪を犯したという文言がありますが、これは何を意味するのでしょうか?

天使とは、神の近くで仕えている存在で、死者は皆天使になると私は考えます。

天使は、神に隣接しているのだから、当然、神の側を向いています。

これに対し、地上に生きる私たちは、心が神というよりも自己に向けられているので、負い目又は罪があります。

人の負い目を赦すべきであったのに、赦すことができなかった。

愛を注ぐべきであったのに、無視してしまった。

このような後悔を改めていこうとするのが、「悔い改め」です。

しかし、聖餐式の中心は、「感謝と賛美」にある通り、喜びの表出であって、悔い改めにあるのではありません。

ヨハネによる福音書やルカによる福音書において、復活の主が顕れた時、でしたちは自らの過ちを悔い改めたのではなく、喜びました。

つまり、私たちが悔い改めるのは、天使たちとともに大合唱する備えなのです。

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人々とキリストを結ぶパイプの役割を果たす責任 [小説]

5月23日火曜日

午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。

「今回は、聖餐式の代祷を取り上げたいと思いますが、内藤さんはどういうイメージを持っていますか?」

「他者のことを祈っているという感じだけれど、それならなぜ始めに教会のことを祈るのかよく分からないわ」

「そうですね。

まず、代祷というネーミングから考えてみましょう。

これは、本来その人自身がキリストに祈って、キリストが父に執り成してもらうというプロセスを教会が代行するということです。

そして、頼まれてそうするというよりも、祈らずにはいられないという自発的なものであることが特色です」

「頼まれもしないのにそうするのはなぜなのかしら?」

「それは、教会自身が自己を律するためです。

まず教会自身のことを祈るのは、自分たちの幸いを祈るのではなく、常に他者に関心を持ち、キリストが父にそうしているように、自身も人々を執り成すためなのです」

「キリストに倣っているということね」

「その通りです」

「そのリーダーシップを発揮してもらうのが、教区主教なので、特にその名を挙げるわけです。

もちろん、主教の幸いを求めているものではありません。

主教をはじめとした教区は、人々とキリストを結ぶパイプの役割を果たす責任と使命があるのです」

「分かったわ。

なぜ、為政者のために祈るのかしら?」

「為政者は、社会の正義と平和の実現に深く関与しているからです。

これも、為政者の幸いを祈っているのではなく、国同士の相互理解などを求めているのですから、戦争などには反対することになります。

社会的弱者を抑圧することに対しても、その人々の立場に理解を示して、政権などに批判的な姿勢を取ることもあります」

「それは政治に関与するということ?」

「必ずしもそうとは言えません。

教会は、先に述べたとおり、人々とキリストを仲介するのが使命ですから、その後の結果は神に委ねてよいというのが私の考えです。

したがって、教会としての声明を出すだけでも十分と言えるでしょう」

「分かったわ。

私たちや家族などの祈りをするのは、自分たちの幸いのため?」

「私たちの家族、友人、隣人のために祈るのも、その関係が神の恵みと真理、赦し合いに基づいているのか点検するためにあります。

最も近い関係の中にも、「礼儀」が求められてくるからです」

「親しき中にも礼儀ありということね。

次に来る、病人のために祈るのは当然だと思うけれど」

「確かに、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人に勇気や希望を与えてほしいと願うのは、彼らの幸いを求めることです。

しかし、教会が常に社会的弱者などに対し、アンテナを張っているのかを確認している項目と言えるでしょう」

「でも、政治や社会の問題はどれを取り上げるかで評価が分かれるのではないかしら?

例えば、性的少数派は社会的弱者だけれど、同性愛に反対の人は教会の中にもいるはずだわ」

「なるほど。

それは、代祷が信徒の代表が祈ってもよいということになっていることと関係があり、項目が印刷物に列記されているという公開性の問題がありますね。

主教や牧師は、政治的な問題などに注意を払いつつ、何が主の平和をもたらすのか、慎重にかつ大胆にパイプを作る必要があります」

「主教や牧師が独走しないように注意しなければならないのね」

「教会自身は、国教会でない限り、政治的権力を掌握しているわけではないので、政治を批判する立場も取れます。

ですから、ペトロの手紙一の為政者、奴隷の主人、夫への服従は斥けられます」

「分かったわ。

死者のために祈るのは、きのうの天使への信心と関連があるのかしら?」

「その通りです。

しかし、これも自己点検のための祈りであると言ってよいでしょう。

逝去者との交わりをないがしろにしてきたのではないかという反省に立つならば、私にも大いにあると言えます」

「私たちも逝去者との交わりを保ち、ともに御国の栄光を現わすものとならせてください、だったわね」

「その通りです。

諸聖徒日や諸魂日、そして年に一回の逝去者記念日があるのはそのためです。

諸魂日とは、キリスト教徒にならなかった人々のために祈ることですが、前回と同様、罪の赦しのための唯一の洗礼を信認することとの整合性を図るためで、聖徒と差別するためではありません」

「代祷をするのが、第一に執事になっているのはなぜかしら?」

「それは、代祷のテーマが自分たちの幸いを求めるためのものではなく、人々に奉仕することが主軸であるからです。

執事は、ギリシャ語でディアコノスといいますが、奉仕する人という意味です」

「祈るというのも、見えないところで社会に貢献している一つなのね」

そう言って、香織は胸を張って帰って行った。


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天使への信心は裁きと嘆きを無化する [小説]

5月22日月曜日

午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。

「今回はニケヤ信経を取り上げますが、三位一体論は別稿で使徒信経の学びをしてきましたから、

長年の疑問であった天使について、関連を述べたいと思います」

「私も天使を信じてよいのか分からなかったから、興味深いわ」

「ニケヤ信経には、『またその独り子、主イエス・キリストを信じます』の項目で、

『主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り』と宣言していますが、

なぜ『またわたしたちを』を挿入しているのか、『わたしたち人類のため』で十分カバーしているのではないかという疑問が生じます」

「なぜかしら?」

これは『聖霊を信じます』の項目に『罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し』とありますが、洗礼の授受との整合性を図るものであると考えます。

つまり、基本はいかなる存在も救済するのが、イエス・キリストである、これを普遍救済説と言いますが、

『またわたしたちを』は地上においてすでに罪赦され救済されているキリスト教徒のことを言っているのです」

「でも、救われているという確信がない時もあるわ」

「そうですね。ですから、試練の時、私たちは初心に帰り、洗礼堅信の時の約束を想い起すのです。

礼拝堂の入り口側に洗礼盤が安置されている教会が多いのもそのためです」

「なるほど、この教会に置いてあるのはそのためなのね」

「したがって、図式化すれば、地上においても天上においてもイエス・キリストにあって救われている者=キリスト教徒

死んだ後に彼によって救済される者=それ以外の人、ゆえに全人類は救われるというセオリーなのです。

すると、死者の救済を語る時に、『天使』の存在を信心しなければならないのか?という問題が出てきます。

死んでなお、救われている存在こそ、天使と呼ぶにふさわしいからです」

「死んでなお救われるのが天使‥‥」

「ニケヤ信経にはこんな言葉もあります。

『主なる聖霊を信じます』の項目で、『死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます』という文言があります。

使徒信経では、『体のよみがえり、永遠の命を信じます』にあたりますが、これは今ここで生きている存在に対するメッセージだと固執していましたが、

天使のことを語っているのだと納得すると、これまでの疑問が氷解していくことに気付きました。

つまり、死者のよみがえりとは天使に生まれ変わるということであり、その存在は終わりがないということです。

そして、天使への誕生と天使との交流は、すべて聖霊によるということが大事です」

「二つの信経の疑問が解決したのね」

「次に考察する代祷において、逝去者記念の項目があります。

そこでも、聖霊を通して逝去者との『交わりを保ち』と告白しています。

そのあとに続く懺悔でも『天の会衆』という言葉が出てきますし、感謝祈祷(ユーカリスティックプレイヤー)でも『天の全会衆とともに』という表現があります。

これは、天使の存在に対する信心あっての考え方です。

大栄光の歌のところでも触れたとおり、天使の存在をうかがわせる表現は、聖餐式文の端々にみられます」

「天使に対する信心があれば、人を裁くことも減るし、信徒の減少をいたずらに悩む必要もないということね」

「その通りです」

香織は、信心の新しい理解を得たという安心感を得て帰って行った。
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福音書に集中する聖書朗読と説教 [随筆]

聖公会の聖餐式は、特祷の後聖書朗読に入ります。

朗読は、旧約聖書、使徒書、福音書ですが、A年B年C年の三つのサイクルから選ばれています。

日本聖公会は、アメリカ聖公会の聖書日課を採用していますが、聖公会全体とローマ・カトリック教会の日課はよく共通しています。

福音書は、A年が主としてマタイによる福音書から、B年が主としてマルコによる福音書から、C年が主としてルカによる福音書から選ばれており、ヨハネによる福音書は、随所に選ばれています。

旧約聖書は、福音書のテーマに則しており、旧約続編が選ばれることもあります。

使徒書は、使徒言行録が復活節に読まれるなど、教会歴に即する場合もありますが、特に福音書と関係しないことが多数です。

詩編が旧約朗読の後に読まれるのが通例ですが、これも福音書の朗読に即したものが選ばれます。

つまり、使徒書を除き、聖書朗読は福音書の朗読に集中し、また説教の題材ともなることが多いのです。

福音書以外の朗読は、信徒が担うのが通例です。

詩編は、司式者と会衆が交互に唱えます。

福音書は、執事又は司祭が朗読しますが、執事の役割としているのはなぜでしょうか?

それは、本来聖餐式の司式は主教が担うものであり、主教座に着いて不動の立ち位置であるのに対し、福音朗読は会衆の中に入っていくという可動の立ち位置であることが考えられます。

説教は、執事、司祭、主教が行います。

信徒が行う場合は、奨励や勧話と呼ばれます。

私は、よく通る声なので、聖書の朗読をよく頼まれます。

事前に目を通し、中心はどこか、キーワードは何なのかをつかんで、わずかな強調をつけるように心がけています。

奨励は、神学生の時、年に2回行っていました。初めての時には、信仰の遍歴や聖職志願の動機など、次には説教の講習を行っていました。

説教は、まず朗読個所の説明(エクスプリカチオ)、新しい視点の提示(メディカチオ)、生活への応用(アプリカチオ)がオーソドックスな形式となっています。

日本聖公会の初代主教ウィリアムズは、「道を伝えて、己を伝えず」をモットーとしていたと言われます。

そのことからも、説教の内容は私生活を吐露するのではなく、福音を語らなくてはなりません。

説教に続くニケヤ信経や使徒信経につながるような重要な役割を担っているのです。

一読すると、これはどこが福音なのかと困惑する個所もあります。

例えば、キリストが世に顕れたのは、平和ではなく剣であるというルカによる福音書の記述です。

説教者は、ここからも裁きではなく、良い知らせ、すなわち福音を語らなくてはなりません。

適切な説教をするには、事前の準備と日々の研鑽が求められるのです。
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聖書を朗読をきく前の号令 [随筆]

聖餐式の特祷については、聖公会の祈りの基本パターンがあるということで特に繰り返しませんが、これはむしろ教会暦と関係が深いと言えます。

教会暦は、降誕日(クリスマス)と復活日(イースター)を軸としますが、主日と週日が7日間であることと後者が移動祝日であることから、始まりである降臨節のスタートから年ごとに異なります(ただし、降臨節の開始日は主日)。

しかし、降臨節が4週であることは変わりません。

降臨節、降誕日、降誕節の後に顕現節が続きます。

顕現節の後に大斎節が置かれ、これは7回の主日を除く40日間ということに変化はありません(大斎節の開始日が水曜日であることも不変)。

大斎節、復活日、復活日の40日後に昇天日、同じく49日後に聖霊降臨日が続きます。

その後は、聖霊降臨後の期節になり、教会の活動記念とされます。

この中で、注目すべきは、降臨の約4週間と大斎節の約40日間です。

両者は、慎みの期節とされますが、古来洗礼と堅信の準備期間とされます。

したがって、行動を控えめにするというよりも、積極的に学びを深める期間です。

さて、私が洗礼を受けたのは、狛江教会の創立記念日である9月第2主日でしたから、聖霊降臨後の期節、すなわち教会の期節の中間に当たります。

また、堅信は4月28日、福音書記者聖マルコ日に最も近い主日に受けました。

いずれの場合でも、教会の信仰である使徒信経と聖書の言葉である十戒を学びます。

聖公会の堅信の場合は、教会問答を用いています。

したがって、結婚準備(婚約期間)と同様、洗礼と堅信の意志は破棄するのが可能なのです。

復活日を前にして、洗礼の約束の更新が行われるのも、準備をしてきた原点を改めて意識する必要があるからです。

冒頭、特祷と教会暦が関連深いと指摘しました。

特祷は英語でCollectと言いますが、これは聖書の言葉をきくに当たって、皆集まるようにという号令であると思います。

日本カトリック教会では「集会祈願」と訳しています。

教会暦もまた、「御言葉」をきくために教会を集める大事な要素なのです。

そして、次の主日のための週日の準備が、特に聖職の説教準備が特別です。

4つの福音書のいずれにも、洗礼者ヨハネが登場するのは、このことによりますし、特にヨハネによる福音書が冒頭で、キリストを「世の罪を取り除く神の小羊」(アニュス・デイ)と宣言しているのは、結論でもあります。

イエス・キリストは、過越祭にあわせた贖罪の犠牲として処刑され、復活したからです。

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天の全会衆の大合唱を指揮する者 [随筆]

聖公会の聖餐式は、キリエに続き大栄光の歌(グロリア)があります。

以下は、その全文です。

いと高きところには神に栄光、地にはみ心にかなう人々に平和がありますように。

全能の父、天の王、主なるよ、主を拝み、主に感謝し、主の栄光をほめたたえます。

父の独り子、主イエス・キリスト、世の罪を除く神の小羊、主なる神よ、わたしたちの祈りを受け入れてください。

イエス・キリストよ、主のみ聖、主のみ王、主のみ聖霊とともに、父なる神の栄光の内に最も高くおられます。

アーメン

前回、書損ねましたが、キリエは3つの選択肢の一つであり、他は三位一体論の栄光をたたえるグロリア・パトリと呼ばれるものです。

聖餐式、ミサは三位一体の名によって始まるので、キリエが祭の開始合図という私の主張と合致します。

では、栄光(グロリア)とは何を指すのでしょうか。

端的に言うと、「光よりの光」という信仰となります。

天地創造は、「光あれ」という言葉に始まり、世界は光と闇に分けられました。

その光の創造前の根源である光を「栄光」と呼んでいるのです。

グロリア・パトリの直後にグロリアが来るのは、この栄光の強調であり、三位一体論の強調でもあります。

それだけではなく、「世の罪を除く神の小羊」(アニュス・デイ)に見られるように、礼拝の結末とリンクすることや「憐れみをお与えください」に見られるようにキリエの繰り返しを含む多層的な構造となっています。

グロリアを降臨節や大斎節に歌いまたは唱えないのは、この期節が慎みを意味しているだけではなく、この多様性を確認するためでもあります。

さて、グロリアはルカによる福音書に記されてあるキリスト誕生時の羊飼いに対する天使の合唱から始まります。

これは、まことの神であり、かつ、まことの人であるイエス・キリストの受肉を祝う大合唱です。

誕生の場所と印を教えてもらった羊飼いは、飼い葉桶に眠るキリストを礼拝した後、賛美しながら帰って行くのですが、ギリシャ語原文では、賛美する=栄光化するとなっています。

つまり、この物語の冒頭と結末は栄光で結ばれているのです。

ここで、天使の存在を、私がどのように考えるのかスケッチしたいと思います。

詳しくは、感謝祈祷のところで考察したいと思います。

ヨハネによる福音書の14章冒頭では、キリストが天に私たちの居場所を用意すると名言しています。

それを信じるならば、私たちの死後はその居場所に行くのであり、空間的な場所だけではなく、働き甲斐のある任務が与えられていると考えます。

第一の任務は、父と子を礼拝することです。

感謝祈祷に「み使いとみ使いの頭、及び天の全会衆とともに主の尊いみ名をあがめて歌います」とある通りです。

死んだら、天使(のように)なり、天と地を結ぶ役割がある、例えば聖霊とともに天使は来臨しているものと想像します。

また、天使の群れを「万軍」と呼ぶのは、戦争を想起するから避けるべきだという議論がありますが、私はそれとは異なる見解を持っています。

天使は、任務を遂行するためには、規律が必要で、そのために「み使いの頭」が指揮者として立てられるのです。

ちょうど聖歌隊に隊長、すなわち指揮者がいるようなものです。

地上では、主教・司祭が指揮者です。

生きている時も、死んだ後も規律通りの居場所が私たち一人ひとりに与えられているのです。


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粘り強い祈りの基盤 [随筆]

清めの祈りが終わると、「キリエ」という連続した祈りが続きます。

これは、ギリシャ語のキリエ・エレイソンの省略で「主よ、憐れみをお与えください」と訳されます。

東方正教会では、この祈りが頻繁に用いられます。

西方教会では、2回目のキリエはキリステ(キリストよ)に置き換えます。

このキリエは聖餐式の中で、どういう位置付けがあるのでしょうか。

私は、懺悔などの準備が終わり、ここから礼拝が本格化する合図であると考えます。

そうでなければ、3回の繰り返しではあまりに少ないし、この祈りは続く「大栄光の歌」や「神の小羊」でも繰り返されるので、礼拝の先端として相応しいのです。

さて、憐れむという動詞ですが、どうしても「哀れむ」、すなわち可哀想に思うという情緒的な語感が残ります。

ギリシャ語では、エレイオーに当たるのですが、類語としてスプランクニゾマイがあり、直訳すると腸が痛むという動詞になります。

私見では、両者を区別する積極的意味はなく、私たちがキリストに祈る時には、彼の「内臓」に食い込むような切実さを秘めているのです。

日本カトリック教会は、昨年「あわれんでください」を「いつくしんでください」に変更しました。

漢字の「慈」には、若芽を育てる親心という意味があるので、その教育的成長のことを加味すると適切な翻訳であると思います。

日本聖公会は祈祷書の改正準備を進めていますが、この祈りをどう翻訳するのか注目されます。

さて、この極めて短いキリエですが、誰の祈りなのか、どんなことを祈っているのか定かではありません。

キリエは、言葉というよりも、人間の腹の奥底から湧き出る呻きのようなものであって、これを聖餐式の第一声とするならば、全体もまた言葉に尽くせない信仰の神秘が込められているのだと思います。

また、キリエが「代祷」の「主よ、お聞きください」に代わりうるならば、それは教会の祈りであり、内容は祈祷項目ということになります。

聖書には、裁判官と未亡人の喩えというのがあって、祈ることの根気を奨励しています。

そのおおよそは以下の通りです。

ある町に裁判官がいました。

彼は神を信じていないし、人を人とも思わないと自負していました。

そこへ一人の未亡人が告訴し、正義の判決を得ようと繰り返し陳情してくるものですから、面倒に思った裁判官は未亡人に有利な判決をしたというものです。

旧約聖書の時代から賄賂による不正な判決は常態化していました。

つまり、金銭のない未亡人が有利な判決を得る、しかも人を人とも思わない冷酷な裁判官を翻意させるのは、余程のことなのです。

祈りの言葉を尽くすということも重要ですが、先に述べたように、祈りには言葉にならない呻きが根底にあり、それが粘り強さの基盤になるのだと思います。


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