人々とキリストを結ぶパイプの役割を果たす責任 [小説]
5月23日火曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「今回は、聖餐式の代祷を取り上げたいと思いますが、内藤さんはどういうイメージを持っていますか?」
「他者のことを祈っているという感じだけれど、それならなぜ始めに教会のことを祈るのかよく分からないわ」
「そうですね。
まず、代祷というネーミングから考えてみましょう。
これは、本来その人自身がキリストに祈って、キリストが父に執り成してもらうというプロセスを教会が代行するということです。
そして、頼まれてそうするというよりも、祈らずにはいられないという自発的なものであることが特色です」
「頼まれもしないのにそうするのはなぜなのかしら?」
「それは、教会自身が自己を律するためです。
まず教会自身のことを祈るのは、自分たちの幸いを祈るのではなく、常に他者に関心を持ち、キリストが父にそうしているように、自身も人々を執り成すためなのです」
「キリストに倣っているということね」
「その通りです」
「そのリーダーシップを発揮してもらうのが、教区主教なので、特にその名を挙げるわけです。
もちろん、主教の幸いを求めているものではありません。
主教をはじめとした教区は、人々とキリストを結ぶパイプの役割を果たす責任と使命があるのです」
「分かったわ。
なぜ、為政者のために祈るのかしら?」
「為政者は、社会の正義と平和の実現に深く関与しているからです。
これも、為政者の幸いを祈っているのではなく、国同士の相互理解などを求めているのですから、戦争などには反対することになります。
社会的弱者を抑圧することに対しても、その人々の立場に理解を示して、政権などに批判的な姿勢を取ることもあります」
「それは政治に関与するということ?」
「必ずしもそうとは言えません。
教会は、先に述べたとおり、人々とキリストを仲介するのが使命ですから、その後の結果は神に委ねてよいというのが私の考えです。
したがって、教会としての声明を出すだけでも十分と言えるでしょう」
「分かったわ。
私たちや家族などの祈りをするのは、自分たちの幸いのため?」
「私たちの家族、友人、隣人のために祈るのも、その関係が神の恵みと真理、赦し合いに基づいているのか点検するためにあります。
最も近い関係の中にも、「礼儀」が求められてくるからです」
「親しき中にも礼儀ありということね。
次に来る、病人のために祈るのは当然だと思うけれど」
「確かに、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人に勇気や希望を与えてほしいと願うのは、彼らの幸いを求めることです。
しかし、教会が常に社会的弱者などに対し、アンテナを張っているのかを確認している項目と言えるでしょう」
「でも、政治や社会の問題はどれを取り上げるかで評価が分かれるのではないかしら?
例えば、性的少数派は社会的弱者だけれど、同性愛に反対の人は教会の中にもいるはずだわ」
「なるほど。
それは、代祷が信徒の代表が祈ってもよいということになっていることと関係があり、項目が印刷物に列記されているという公開性の問題がありますね。
主教や牧師は、政治的な問題などに注意を払いつつ、何が主の平和をもたらすのか、慎重にかつ大胆にパイプを作る必要があります」
「主教や牧師が独走しないように注意しなければならないのね」
「教会自身は、国教会でない限り、政治的権力を掌握しているわけではないので、政治を批判する立場も取れます。
ですから、ペトロの手紙一の為政者、奴隷の主人、夫への服従は斥けられます」
「分かったわ。
死者のために祈るのは、きのうの天使への信心と関連があるのかしら?」
「その通りです。
しかし、これも自己点検のための祈りであると言ってよいでしょう。
逝去者との交わりをないがしろにしてきたのではないかという反省に立つならば、私にも大いにあると言えます」
「私たちも逝去者との交わりを保ち、ともに御国の栄光を現わすものとならせてください、だったわね」
「その通りです。
諸聖徒日や諸魂日、そして年に一回の逝去者記念日があるのはそのためです。
諸魂日とは、キリスト教徒にならなかった人々のために祈ることですが、前回と同様、罪の赦しのための唯一の洗礼を信認することとの整合性を図るためで、聖徒と差別するためではありません」
「代祷をするのが、第一に執事になっているのはなぜかしら?」
「それは、代祷のテーマが自分たちの幸いを求めるためのものではなく、人々に奉仕することが主軸であるからです。
執事は、ギリシャ語でディアコノスといいますが、奉仕する人という意味です」
「祈るというのも、見えないところで社会に貢献している一つなのね」
そう言って、香織は胸を張って帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「今回は、聖餐式の代祷を取り上げたいと思いますが、内藤さんはどういうイメージを持っていますか?」
「他者のことを祈っているという感じだけれど、それならなぜ始めに教会のことを祈るのかよく分からないわ」
「そうですね。
まず、代祷というネーミングから考えてみましょう。
これは、本来その人自身がキリストに祈って、キリストが父に執り成してもらうというプロセスを教会が代行するということです。
そして、頼まれてそうするというよりも、祈らずにはいられないという自発的なものであることが特色です」
「頼まれもしないのにそうするのはなぜなのかしら?」
「それは、教会自身が自己を律するためです。
まず教会自身のことを祈るのは、自分たちの幸いを祈るのではなく、常に他者に関心を持ち、キリストが父にそうしているように、自身も人々を執り成すためなのです」
「キリストに倣っているということね」
「その通りです」
「そのリーダーシップを発揮してもらうのが、教区主教なので、特にその名を挙げるわけです。
もちろん、主教の幸いを求めているものではありません。
主教をはじめとした教区は、人々とキリストを結ぶパイプの役割を果たす責任と使命があるのです」
「分かったわ。
なぜ、為政者のために祈るのかしら?」
「為政者は、社会の正義と平和の実現に深く関与しているからです。
これも、為政者の幸いを祈っているのではなく、国同士の相互理解などを求めているのですから、戦争などには反対することになります。
社会的弱者を抑圧することに対しても、その人々の立場に理解を示して、政権などに批判的な姿勢を取ることもあります」
「それは政治に関与するということ?」
「必ずしもそうとは言えません。
教会は、先に述べたとおり、人々とキリストを仲介するのが使命ですから、その後の結果は神に委ねてよいというのが私の考えです。
したがって、教会としての声明を出すだけでも十分と言えるでしょう」
「分かったわ。
私たちや家族などの祈りをするのは、自分たちの幸いのため?」
「私たちの家族、友人、隣人のために祈るのも、その関係が神の恵みと真理、赦し合いに基づいているのか点検するためにあります。
最も近い関係の中にも、「礼儀」が求められてくるからです」
「親しき中にも礼儀ありということね。
次に来る、病人のために祈るのは当然だと思うけれど」
「確かに、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人に勇気や希望を与えてほしいと願うのは、彼らの幸いを求めることです。
しかし、教会が常に社会的弱者などに対し、アンテナを張っているのかを確認している項目と言えるでしょう」
「でも、政治や社会の問題はどれを取り上げるかで評価が分かれるのではないかしら?
例えば、性的少数派は社会的弱者だけれど、同性愛に反対の人は教会の中にもいるはずだわ」
「なるほど。
それは、代祷が信徒の代表が祈ってもよいということになっていることと関係があり、項目が印刷物に列記されているという公開性の問題がありますね。
主教や牧師は、政治的な問題などに注意を払いつつ、何が主の平和をもたらすのか、慎重にかつ大胆にパイプを作る必要があります」
「主教や牧師が独走しないように注意しなければならないのね」
「教会自身は、国教会でない限り、政治的権力を掌握しているわけではないので、政治を批判する立場も取れます。
ですから、ペトロの手紙一の為政者、奴隷の主人、夫への服従は斥けられます」
「分かったわ。
死者のために祈るのは、きのうの天使への信心と関連があるのかしら?」
「その通りです。
しかし、これも自己点検のための祈りであると言ってよいでしょう。
逝去者との交わりをないがしろにしてきたのではないかという反省に立つならば、私にも大いにあると言えます」
「私たちも逝去者との交わりを保ち、ともに御国の栄光を現わすものとならせてください、だったわね」
「その通りです。
諸聖徒日や諸魂日、そして年に一回の逝去者記念日があるのはそのためです。
諸魂日とは、キリスト教徒にならなかった人々のために祈ることですが、前回と同様、罪の赦しのための唯一の洗礼を信認することとの整合性を図るためで、聖徒と差別するためではありません」
「代祷をするのが、第一に執事になっているのはなぜかしら?」
「それは、代祷のテーマが自分たちの幸いを求めるためのものではなく、人々に奉仕することが主軸であるからです。
執事は、ギリシャ語でディアコノスといいますが、奉仕する人という意味です」
「祈るというのも、見えないところで社会に貢献している一つなのね」
そう言って、香織は胸を張って帰って行った。
天使への信心は裁きと嘆きを無化する [小説]
5月22日月曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「今回はニケヤ信経を取り上げますが、三位一体論は別稿で使徒信経の学びをしてきましたから、
長年の疑問であった天使について、関連を述べたいと思います」
「私も天使を信じてよいのか分からなかったから、興味深いわ」
「ニケヤ信経には、『またその独り子、主イエス・キリストを信じます』の項目で、
『主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り』と宣言していますが、
なぜ『またわたしたちを』を挿入しているのか、『わたしたち人類のため』で十分カバーしているのではないかという疑問が生じます」
「なぜかしら?」
これは『聖霊を信じます』の項目に『罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し』とありますが、洗礼の授受との整合性を図るものであると考えます。
つまり、基本はいかなる存在も救済するのが、イエス・キリストである、これを普遍救済説と言いますが、
『またわたしたちを』は地上においてすでに罪赦され救済されているキリスト教徒のことを言っているのです」
「でも、救われているという確信がない時もあるわ」
「そうですね。ですから、試練の時、私たちは初心に帰り、洗礼堅信の時の約束を想い起すのです。
礼拝堂の入り口側に洗礼盤が安置されている教会が多いのもそのためです」
「なるほど、この教会に置いてあるのはそのためなのね」
「したがって、図式化すれば、地上においても天上においてもイエス・キリストにあって救われている者=キリスト教徒
死んだ後に彼によって救済される者=それ以外の人、ゆえに全人類は救われるというセオリーなのです。
すると、死者の救済を語る時に、『天使』の存在を信心しなければならないのか?という問題が出てきます。
死んでなお、救われている存在こそ、天使と呼ぶにふさわしいからです」
「死んでなお救われるのが天使‥‥」
「ニケヤ信経にはこんな言葉もあります。
『主なる聖霊を信じます』の項目で、『死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます』という文言があります。
使徒信経では、『体のよみがえり、永遠の命を信じます』にあたりますが、これは今ここで生きている存在に対するメッセージだと固執していましたが、
天使のことを語っているのだと納得すると、これまでの疑問が氷解していくことに気付きました。
つまり、死者のよみがえりとは天使に生まれ変わるということであり、その存在は終わりがないということです。
そして、天使への誕生と天使との交流は、すべて聖霊によるということが大事です」
「二つの信経の疑問が解決したのね」
「次に考察する代祷において、逝去者記念の項目があります。
そこでも、聖霊を通して逝去者との『交わりを保ち』と告白しています。
そのあとに続く懺悔でも『天の会衆』という言葉が出てきますし、感謝祈祷(ユーカリスティックプレイヤー)でも『天の全会衆とともに』という表現があります。
これは、天使の存在に対する信心あっての考え方です。
大栄光の歌のところでも触れたとおり、天使の存在をうかがわせる表現は、聖餐式文の端々にみられます」
「天使に対する信心があれば、人を裁くことも減るし、信徒の減少をいたずらに悩む必要もないということね」
「その通りです」
香織は、信心の新しい理解を得たという安心感を得て帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「今回はニケヤ信経を取り上げますが、三位一体論は別稿で使徒信経の学びをしてきましたから、
長年の疑問であった天使について、関連を述べたいと思います」
「私も天使を信じてよいのか分からなかったから、興味深いわ」
「ニケヤ信経には、『またその独り子、主イエス・キリストを信じます』の項目で、
『主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り』と宣言していますが、
なぜ『またわたしたちを』を挿入しているのか、『わたしたち人類のため』で十分カバーしているのではないかという疑問が生じます」
「なぜかしら?」
これは『聖霊を信じます』の項目に『罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し』とありますが、洗礼の授受との整合性を図るものであると考えます。
つまり、基本はいかなる存在も救済するのが、イエス・キリストである、これを普遍救済説と言いますが、
『またわたしたちを』は地上においてすでに罪赦され救済されているキリスト教徒のことを言っているのです」
「でも、救われているという確信がない時もあるわ」
「そうですね。ですから、試練の時、私たちは初心に帰り、洗礼堅信の時の約束を想い起すのです。
礼拝堂の入り口側に洗礼盤が安置されている教会が多いのもそのためです」
「なるほど、この教会に置いてあるのはそのためなのね」
「したがって、図式化すれば、地上においても天上においてもイエス・キリストにあって救われている者=キリスト教徒
死んだ後に彼によって救済される者=それ以外の人、ゆえに全人類は救われるというセオリーなのです。
すると、死者の救済を語る時に、『天使』の存在を信心しなければならないのか?という問題が出てきます。
死んでなお、救われている存在こそ、天使と呼ぶにふさわしいからです」
「死んでなお救われるのが天使‥‥」
「ニケヤ信経にはこんな言葉もあります。
『主なる聖霊を信じます』の項目で、『死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます』という文言があります。
使徒信経では、『体のよみがえり、永遠の命を信じます』にあたりますが、これは今ここで生きている存在に対するメッセージだと固執していましたが、
天使のことを語っているのだと納得すると、これまでの疑問が氷解していくことに気付きました。
つまり、死者のよみがえりとは天使に生まれ変わるということであり、その存在は終わりがないということです。
そして、天使への誕生と天使との交流は、すべて聖霊によるということが大事です」
「二つの信経の疑問が解決したのね」
「次に考察する代祷において、逝去者記念の項目があります。
そこでも、聖霊を通して逝去者との『交わりを保ち』と告白しています。
そのあとに続く懺悔でも『天の会衆』という言葉が出てきますし、感謝祈祷(ユーカリスティックプレイヤー)でも『天の全会衆とともに』という表現があります。
これは、天使の存在に対する信心あっての考え方です。
大栄光の歌のところでも触れたとおり、天使の存在をうかがわせる表現は、聖餐式文の端々にみられます」
「天使に対する信心があれば、人を裁くことも減るし、信徒の減少をいたずらに悩む必要もないということね」
「その通りです」
香織は、信心の新しい理解を得たという安心感を得て帰って行った。
あの男女は悪者だという偏見を見抜いているキリスト [小説]
5月13日土曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
今回は「全能の神よ、総ての心は主に露になり、総ての望みは主に知られ、どのような秘密も御前に隠れることはありません」という祈祷の内、
『全』から『露』までをお取り上げたいと思います」
「何か発見があるといいわね」
「私の方から、一通り漢字の説明をしましょう。
まず、『全』とは、工作物を囲って保存することを表しています。
『能』とは、亀のように粘り強く働くさまを示しています。
次に『神』とは、稲妻のように不可知な自然の力を言います。
『総』とは、多くの糸を一手にまとめて締めた房のことを描いています。
『心』とは、血液を細い血管の隅々に染み渡らせる働きのことです。
『主』とは、じっと一所に留まっていることです。
『露』とは、透明にすけて見えることです。
逆に『隠』とは、工作物を両手で覆いかくすことです」
「露の反対を隠と対比しているのね」
「実はこの祈祷の終わりの方に隠は出てくるのですが、それは他の漢字から考えたらいいので、そうすることにしました。
この祈りのキーワードは、『露』であると言えるでしょう。
亀のように粘り強い力を持った不可知な神にとって、人間が両手を使って覆い隠そうとしてもありありと透けて見えてしまうということです」
「一瞬にして知られてしまう気がするようだけれど、亀のように?」
「そうですね。
実際は一瞬なのでしょうが、神は人間が隠そうとしていることを、自分で明らかにするように、忍耐強く待っているということではないでしょうか」
「自白しなさいと言うこと?」
「そうです。
この祈りは懺悔の祈りの一部なのです」
「分かったわ。
何か聖書の物語とリンクするのかしら?」
「私は、ルカによる福音書にある二つの物語を想い起しました。
一つ目は、徴税人の首領ザアカイの物語です。
これはおおよそ次のようなものです。
キリスト一行が大通りを歩いていました。
ザアカイはその様子をみようとしたのですが、背が低くて見えません。
彼は木に昇り、眺めているとキリストが声を掛けます。
『ザアカイ、私は今日あなたのところに泊まることになっている』と。
すると、人々は『この男は罪深い者なのにどうして?』とつぶやきました。
しかし、彼は胸を張って言いました。
『財産の半分を処分して、貧しい者に施します。だまし取ったものは四倍にして返します』と。
これをきいて、キリストは、『この家に』救いが訪れたと宣言しました」
「神父は、『この家に』を強調しているのね」
「その通りです。
当時の徴税人は、ローマ帝国の通行税を取るために組織された人々で皇帝の肖像が刻印された外貨を取り扱っていました。
そのうえ、規定以上のものを取り立てていたので、罪深い者だと嫌われていたのです」
「分かったわ。もう一つは?」
「次は、シモンという人の家で罪深い女性を赦すという物語です。
これは簡単に言うと次のようなものです。
シモンという律法に忠実な人がキリストを食事に招待しました。
すると突如として、女性が侵入し、イエスの足に、涙で濡らし、自分の髪でぬぐい、接吻して香油を塗った。
それを見た、シモンは『この女は罪深い者なのに。預言者なら分かるはずだ』とつぶやきます。
キリストは、このつぶやきを読み取ってこう言いました。
あなたは足を洗う水を用意してくれなかった。
挨拶のために接吻もしてくれなかった。
そして、頭に油も塗ってくれなかった。
そのように不手際を指摘するのに対比して、女性の行為を称賛したのです。
『彼女は涙を濡らして足の汚れを取り除いてくれた。
私の足に接吻してやまなかった。
そして石膏の壺に入った香油を塗ってくれた。
赦されることが大きい者は、愛することも大きい』と」
「両方をきくと、この人は罪深いのに優遇されるのはおかしいというつぶやきね」
「その通りです。
私はこの二つはつながりが深いと考えています。
なぜなら、後者の女性がザアカイの妻又は娘だとしたらつながるからです。
後者の女性は通常売春婦であると解釈されがちですが、貧乏だから売春するのであって、石膏に入った貴重な香油を用意することができるでしょうか?」
「それは無理よ」
「金持ちの家のものだったら、香油を用意することができる、そして両者は罪深いと思われている。
ザアカイが人々に賠償して、貧しい人々に施しをしたのだから、キリストが『この家に救いが訪れた』と言ったのと、
その感謝のしるしとして、香油を注ぐなどの愛の応答があったとつなげるのは無理なことではないのです。
つまり、キリストには、人々の偽善を見抜く力がありました。
しかし、彼は招待してくれたシモンに対しても「シモン、あなたに言っておきたいことがある」と名前を呼んでいます。
これはザアカイの場合と同じです。
『この男女は罪深い者なのに』とつぶやく心理に対し、キリストは粘り強く対応します。
その時、多くの糸を一手にまとめたような『この家に救いが訪れた』と宣言する柔和なキリストがいるのです」
「分かったわ。
「あの男女は悪者だという偏見持つのではなく、しぶとく見極めるのが大事ということね」
そう言って、香織は自らを省みながら帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
今回は「全能の神よ、総ての心は主に露になり、総ての望みは主に知られ、どのような秘密も御前に隠れることはありません」という祈祷の内、
『全』から『露』までをお取り上げたいと思います」
「何か発見があるといいわね」
「私の方から、一通り漢字の説明をしましょう。
まず、『全』とは、工作物を囲って保存することを表しています。
『能』とは、亀のように粘り強く働くさまを示しています。
次に『神』とは、稲妻のように不可知な自然の力を言います。
『総』とは、多くの糸を一手にまとめて締めた房のことを描いています。
『心』とは、血液を細い血管の隅々に染み渡らせる働きのことです。
『主』とは、じっと一所に留まっていることです。
『露』とは、透明にすけて見えることです。
逆に『隠』とは、工作物を両手で覆いかくすことです」
「露の反対を隠と対比しているのね」
「実はこの祈祷の終わりの方に隠は出てくるのですが、それは他の漢字から考えたらいいので、そうすることにしました。
この祈りのキーワードは、『露』であると言えるでしょう。
亀のように粘り強い力を持った不可知な神にとって、人間が両手を使って覆い隠そうとしてもありありと透けて見えてしまうということです」
「一瞬にして知られてしまう気がするようだけれど、亀のように?」
「そうですね。
実際は一瞬なのでしょうが、神は人間が隠そうとしていることを、自分で明らかにするように、忍耐強く待っているということではないでしょうか」
「自白しなさいと言うこと?」
「そうです。
この祈りは懺悔の祈りの一部なのです」
「分かったわ。
何か聖書の物語とリンクするのかしら?」
「私は、ルカによる福音書にある二つの物語を想い起しました。
一つ目は、徴税人の首領ザアカイの物語です。
これはおおよそ次のようなものです。
キリスト一行が大通りを歩いていました。
ザアカイはその様子をみようとしたのですが、背が低くて見えません。
彼は木に昇り、眺めているとキリストが声を掛けます。
『ザアカイ、私は今日あなたのところに泊まることになっている』と。
すると、人々は『この男は罪深い者なのにどうして?』とつぶやきました。
しかし、彼は胸を張って言いました。
『財産の半分を処分して、貧しい者に施します。だまし取ったものは四倍にして返します』と。
これをきいて、キリストは、『この家に』救いが訪れたと宣言しました」
「神父は、『この家に』を強調しているのね」
「その通りです。
当時の徴税人は、ローマ帝国の通行税を取るために組織された人々で皇帝の肖像が刻印された外貨を取り扱っていました。
そのうえ、規定以上のものを取り立てていたので、罪深い者だと嫌われていたのです」
「分かったわ。もう一つは?」
「次は、シモンという人の家で罪深い女性を赦すという物語です。
これは簡単に言うと次のようなものです。
シモンという律法に忠実な人がキリストを食事に招待しました。
すると突如として、女性が侵入し、イエスの足に、涙で濡らし、自分の髪でぬぐい、接吻して香油を塗った。
それを見た、シモンは『この女は罪深い者なのに。預言者なら分かるはずだ』とつぶやきます。
キリストは、このつぶやきを読み取ってこう言いました。
あなたは足を洗う水を用意してくれなかった。
挨拶のために接吻もしてくれなかった。
そして、頭に油も塗ってくれなかった。
そのように不手際を指摘するのに対比して、女性の行為を称賛したのです。
『彼女は涙を濡らして足の汚れを取り除いてくれた。
私の足に接吻してやまなかった。
そして石膏の壺に入った香油を塗ってくれた。
赦されることが大きい者は、愛することも大きい』と」
「両方をきくと、この人は罪深いのに優遇されるのはおかしいというつぶやきね」
「その通りです。
私はこの二つはつながりが深いと考えています。
なぜなら、後者の女性がザアカイの妻又は娘だとしたらつながるからです。
後者の女性は通常売春婦であると解釈されがちですが、貧乏だから売春するのであって、石膏に入った貴重な香油を用意することができるでしょうか?」
「それは無理よ」
「金持ちの家のものだったら、香油を用意することができる、そして両者は罪深いと思われている。
ザアカイが人々に賠償して、貧しい人々に施しをしたのだから、キリストが『この家に救いが訪れた』と言ったのと、
その感謝のしるしとして、香油を注ぐなどの愛の応答があったとつなげるのは無理なことではないのです。
つまり、キリストには、人々の偽善を見抜く力がありました。
しかし、彼は招待してくれたシモンに対しても「シモン、あなたに言っておきたいことがある」と名前を呼んでいます。
これはザアカイの場合と同じです。
『この男女は罪深い者なのに』とつぶやく心理に対し、キリストは粘り強く対応します。
その時、多くの糸を一手にまとめたような『この家に救いが訪れた』と宣言する柔和なキリストがいるのです」
「分かったわ。
「あの男女は悪者だという偏見持つのではなく、しぶとく見極めるのが大事ということね」
そう言って、香織は自らを省みながら帰って行った。
男女別々の隠れ家に臨む復活のキリスト [小説]
5月12日金曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
今回は「主イエス・キリストよ、来てください。弟子達の中に立ち復活のみ姿を顕されたように私達の内にも臨んでください」という交唱の内、
『中』から『臨』までをお取り上げたいと思います」
「楽しみだわ」
「私の方から、一通り漢字の説明をしましょう。
まず、『中』とは、旗ざおを枠の中央に突き通す象形文字です。
『立』とは、両手や両足を安定している姿です。
次に『復』とは、同じ方向を往復するという意味です。
『活』とは、水が勢いよく流れるさまを描いています。
『姿』とは、女性が、顔や身なりを整えるということを指します。
『顕』とは、顔を明るみに出してはっきりと見せる様子です。
『私』とは、バラバラに細分化する意味があります。
『内』とは、屋根の形と『入』を合わせた文字です。
『臨』とは、高い所から下の方のものを見下ろすことを示しています」
「弟子たちの中に立って、復活の姿を顕したというのは、ヨハネによる福音書だったかしら?」
「その通りです。
迫害者であるユダヤ人を恐れて、隠れ家の鍵を閉め、バラバラにうずくまっていた弟子たちの真ん中に、突如キリストが立ちました」
「そして、両手と両足の釘跡、それから脇腹の傷跡も見せたと」
「その通りです。
死んだときの姿はそのままであったが、人間の肉体が神の霊に吸収される途上だったのでしょうか、
隠れ家の壁を抜けて、弟子達の中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と二度あいさつしたのです」
「肉体が霊に吸収されるとはどういうこと?」
「ヨハネによる福音書の始まりは、『言(ことば)は肉となった』です。
その逆に、『肉は言になった』というプロセスをたどっていたと考えられるでしょう。
しかし、これは奇跡ですから、人間の言葉で十分に説明できないことです」
「復活もまた奇跡であると」
「最大の奇跡です。
ところで、女性の身なりを整える話がありましたね。
この隠れ家にいたのは皆男性のようですが、女性たちも別の隠れ家にいたとして、キリストはそこを訪ねていったのでしょうか?」
「私は行ったと思うわ」
「しかし、記録にはありませんね。
想像力を働かせるよりほかありません」
「どう想像をするの?」
「ヨハネによる福音書で登場する女性たちの場面を列挙することです。
何か思い出せませんか?」
「不倫の女を赦したというのは憶えているわ」
「そうですね。他には?」
「カナの婚礼、水をぶどう酒に変えた時、母マリアが出てきたわ」
「その通り。他には?」
「サマリア人の女性と会話していたわ」
「そうですね。まだありますよ」
「思い出せないわ。何かしら?」
「ベタニアのマルタとマリア、弟のラザロの蘇生に立ち会ったこと、そしてマリアがイエスに香油を注いだことです。
そして、最初の復活の証人であるマグダラのマリアです。
これらの物語に共通するのは何でしょうか?」
「カナの婚礼とラザロの蘇生、復活は、いずれも奇跡だわ」
「不倫の女とサマリアの女性は、性的なことに言及していますが、キリストは寛容な態度です。
内藤さんが指摘したように、多くの女性が奇跡の証人でした。
その中でもマグダラのマリアが、最高の証言者でしょう。
早朝、復活のキリストに出会ったマリアは、弟子たちすべてにそれを報知する任務を与えられていました。
男性だけでなく、当然女性も。
ですから、女性の隠れ家の中心にはマリアが座っていたものと想像します。
皆、マリアから詳しい話を聴きたかったのではないでしょうか。
あたかも、キリストが自分の名前を呼んでいると想像して、とも考えられます。
そこへ、マリアの話の通りにキリストが降り立ちます。
『臨』が高いとこから下の方向に行くのと同じように」
「私は、扉に鍵をかけているとあったから、水平方向に入ってきたと想像したけれど」
「それはどちらでも構いません。
奇跡ですから、上下でも水平でもない移動だったからです。
それはともかく、キリストは女性たちに何と言葉をかけたのでしょうか。
私は、「あなたがたは、まことの奇跡の証人である」と言ったのではないかと想像します。
ヨハネによる福音書の続きに『使徒言行録』がありますが、その冒頭には「復活の証人」という言葉が何度も出てきます。
この男女別々の隠れ家の出来事が、イエスはキリストであるという信仰の拠点となったのではないでしょうか」
「分かったわ。
キリスト教の拠点が、男女二つの隠れ家から始まったという説も愉快ね」
そう言って、香織は顔を輝かして帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
今回は「主イエス・キリストよ、来てください。弟子達の中に立ち復活のみ姿を顕されたように私達の内にも臨んでください」という交唱の内、
『中』から『臨』までをお取り上げたいと思います」
「楽しみだわ」
「私の方から、一通り漢字の説明をしましょう。
まず、『中』とは、旗ざおを枠の中央に突き通す象形文字です。
『立』とは、両手や両足を安定している姿です。
次に『復』とは、同じ方向を往復するという意味です。
『活』とは、水が勢いよく流れるさまを描いています。
『姿』とは、女性が、顔や身なりを整えるということを指します。
『顕』とは、顔を明るみに出してはっきりと見せる様子です。
『私』とは、バラバラに細分化する意味があります。
『内』とは、屋根の形と『入』を合わせた文字です。
『臨』とは、高い所から下の方のものを見下ろすことを示しています」
「弟子たちの中に立って、復活の姿を顕したというのは、ヨハネによる福音書だったかしら?」
「その通りです。
迫害者であるユダヤ人を恐れて、隠れ家の鍵を閉め、バラバラにうずくまっていた弟子たちの真ん中に、突如キリストが立ちました」
「そして、両手と両足の釘跡、それから脇腹の傷跡も見せたと」
「その通りです。
死んだときの姿はそのままであったが、人間の肉体が神の霊に吸収される途上だったのでしょうか、
隠れ家の壁を抜けて、弟子達の中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と二度あいさつしたのです」
「肉体が霊に吸収されるとはどういうこと?」
「ヨハネによる福音書の始まりは、『言(ことば)は肉となった』です。
その逆に、『肉は言になった』というプロセスをたどっていたと考えられるでしょう。
しかし、これは奇跡ですから、人間の言葉で十分に説明できないことです」
「復活もまた奇跡であると」
「最大の奇跡です。
ところで、女性の身なりを整える話がありましたね。
この隠れ家にいたのは皆男性のようですが、女性たちも別の隠れ家にいたとして、キリストはそこを訪ねていったのでしょうか?」
「私は行ったと思うわ」
「しかし、記録にはありませんね。
想像力を働かせるよりほかありません」
「どう想像をするの?」
「ヨハネによる福音書で登場する女性たちの場面を列挙することです。
何か思い出せませんか?」
「不倫の女を赦したというのは憶えているわ」
「そうですね。他には?」
「カナの婚礼、水をぶどう酒に変えた時、母マリアが出てきたわ」
「その通り。他には?」
「サマリア人の女性と会話していたわ」
「そうですね。まだありますよ」
「思い出せないわ。何かしら?」
「ベタニアのマルタとマリア、弟のラザロの蘇生に立ち会ったこと、そしてマリアがイエスに香油を注いだことです。
そして、最初の復活の証人であるマグダラのマリアです。
これらの物語に共通するのは何でしょうか?」
「カナの婚礼とラザロの蘇生、復活は、いずれも奇跡だわ」
「不倫の女とサマリアの女性は、性的なことに言及していますが、キリストは寛容な態度です。
内藤さんが指摘したように、多くの女性が奇跡の証人でした。
その中でもマグダラのマリアが、最高の証言者でしょう。
早朝、復活のキリストに出会ったマリアは、弟子たちすべてにそれを報知する任務を与えられていました。
男性だけでなく、当然女性も。
ですから、女性の隠れ家の中心にはマリアが座っていたものと想像します。
皆、マリアから詳しい話を聴きたかったのではないでしょうか。
あたかも、キリストが自分の名前を呼んでいると想像して、とも考えられます。
そこへ、マリアの話の通りにキリストが降り立ちます。
『臨』が高いとこから下の方向に行くのと同じように」
「私は、扉に鍵をかけているとあったから、水平方向に入ってきたと想像したけれど」
「それはどちらでも構いません。
奇跡ですから、上下でも水平でもない移動だったからです。
それはともかく、キリストは女性たちに何と言葉をかけたのでしょうか。
私は、「あなたがたは、まことの奇跡の証人である」と言ったのではないかと想像します。
ヨハネによる福音書の続きに『使徒言行録』がありますが、その冒頭には「復活の証人」という言葉が何度も出てきます。
この男女別々の隠れ家の出来事が、イエスはキリストであるという信仰の拠点となったのではないでしょうか」
「分かったわ。
キリスト教の拠点が、男女二つの隠れ家から始まったという説も愉快ね」
そう言って、香織は顔を輝かして帰って行った。
多様性が求められる聖餐式 [小説]
5月10日水曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「今晩から聖餐式の構造について、漢字から考えてみますが、見出しについても取り上げてみましょう。
式は、見出しの『参入』から始まります。
また、今回は「主イエス・キリストよ、来てください。弟子達の中に立ち復活のみ姿を顕されたように私達の内にも臨んでください」という交唱の内、
『主』から『達』までをお取り上げたいと思います」
「きのうみたいに面白い発見が出てくるといいわね」
「まず、『参』とは、三つ玉のかんざしをきらめかした女性の姿を表しています。左斜めに流れている三つのものは、いくつもという意味です。
『入』とは、型の中を突きこんでいくさまです。
『新規参入』と言いますが、これは漢字で言うと、初々しいおしゃれな女性が会場へどっと入ってくるイメージと言えます。
次に『主』とは、火がじっと灯されているろうそくの火を表現しています。
これもまた盛大に並んでいると想像します」
「何か宴会会場みたいね」
「その通りです。
後で触れますが、ここは華やかな祝宴会場なのです。
『来』とは、穂が垂れて実った小麦の象形文字です。
『弟』とは、背丈が低いということを表しています。
『子』とは、子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを描いています。
『達』とは、羊のお産のようにすらすらと通す、またはゆとりがあるということを意味しています」
「弟の漢字が差別的ね」
「でも、腰が低いという言葉もあるでしょう。
神の前にひれ伏す謙虚な人という意味にも取れますね」
「それ以外は、とてもいいことを表現しているけれど、後で触れるというのは?」
「マタイによる福音書に『大宴会の喩え』というのがあります。
そのおおよその内容は次の通りです。
神の国は、王が王子のために催す祝宴に似ている。
宴席をすっかり準備して、招待客に知らせたところ、畑仕事があるから、商売があるからと言い訳を作って集まろうとしませんでした。
王は激怒して、使いの者に大通りに出て隅々まで招待するように命じたところ、宴会場は満員になりました。
その中には、善人もいれば、悪人も混じっていました。
ところが、その中の一人に礼服を着ていない人がいました。
王はその人に向かって言いました。
『友よ。なぜ君は失礼な格好をしているのだ』
何も答えないその人は、会場からつまみ出されました」
「礼服を着ていない人に向かって、なぜ『友よ』と言ったのかしら?」
「この人は、キリストを裏切ったイスカリオテのユダのことを指している可能性が高いです。
なぜなら、ユダは『友よ、なすがままにしなさい』と、キリストに言われてから主の晩餐の会場を出ていったのです。
これは、ユダがキリストから破門されたわけではないことを示しています。
彼もまた、キリストを裏切った他の弟子たちと同様の愛すべき友なのです」
「礼服を着ていない人は他にもいたってことかしら?」
「会場には、善人も悪人もいたのだから、失礼な人は他にもいたということになります。
しかし、内藤さん。
百パーセント善で、百パーセント悪という人は滅多にいないでしょう。
私達もまた、心に善悪が混在しているのが実情です。
また、このパーティーは現代で言う『多様性』をうかがわせるシーンとなっています。
ルカによる福音書の『大宴会の喩え』では、『貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人』のような差別されていた人々を積極的に招待しなさいと主人は命令するのです。
善人も悪人もいる、身体障害のある人もいる、頭髪がどんどん伸びる子どもやおしゃれな女性たちがいる、そのような多様性の中にある大宴会として聖餐式は始まるのです」
「言い訳を作って招待に応じなかった人もいるわ」
「それは、内藤さんも心当たりがあるでしょう。聖餐式に出席するのはあくまで任意ですから、欠席しても仕方がありません。
ただし、司式者は招待し続ける義務があります。
それを妨げてしまう司式者は失格です」
「分かったわ。
せっかく招待されているのに、言い訳を作ってきた私にも責任があるのね。
今度の聖餐式には、身も心もおしゃれして聖餐式に臨みたいと思うわ」
そう言って、香織はウキウキして帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「今晩から聖餐式の構造について、漢字から考えてみますが、見出しについても取り上げてみましょう。
式は、見出しの『参入』から始まります。
また、今回は「主イエス・キリストよ、来てください。弟子達の中に立ち復活のみ姿を顕されたように私達の内にも臨んでください」という交唱の内、
『主』から『達』までをお取り上げたいと思います」
「きのうみたいに面白い発見が出てくるといいわね」
「まず、『参』とは、三つ玉のかんざしをきらめかした女性の姿を表しています。左斜めに流れている三つのものは、いくつもという意味です。
『入』とは、型の中を突きこんでいくさまです。
『新規参入』と言いますが、これは漢字で言うと、初々しいおしゃれな女性が会場へどっと入ってくるイメージと言えます。
次に『主』とは、火がじっと灯されているろうそくの火を表現しています。
これもまた盛大に並んでいると想像します」
「何か宴会会場みたいね」
「その通りです。
後で触れますが、ここは華やかな祝宴会場なのです。
『来』とは、穂が垂れて実った小麦の象形文字です。
『弟』とは、背丈が低いということを表しています。
『子』とは、子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを描いています。
『達』とは、羊のお産のようにすらすらと通す、またはゆとりがあるということを意味しています」
「弟の漢字が差別的ね」
「でも、腰が低いという言葉もあるでしょう。
神の前にひれ伏す謙虚な人という意味にも取れますね」
「それ以外は、とてもいいことを表現しているけれど、後で触れるというのは?」
「マタイによる福音書に『大宴会の喩え』というのがあります。
そのおおよその内容は次の通りです。
神の国は、王が王子のために催す祝宴に似ている。
宴席をすっかり準備して、招待客に知らせたところ、畑仕事があるから、商売があるからと言い訳を作って集まろうとしませんでした。
王は激怒して、使いの者に大通りに出て隅々まで招待するように命じたところ、宴会場は満員になりました。
その中には、善人もいれば、悪人も混じっていました。
ところが、その中の一人に礼服を着ていない人がいました。
王はその人に向かって言いました。
『友よ。なぜ君は失礼な格好をしているのだ』
何も答えないその人は、会場からつまみ出されました」
「礼服を着ていない人に向かって、なぜ『友よ』と言ったのかしら?」
「この人は、キリストを裏切ったイスカリオテのユダのことを指している可能性が高いです。
なぜなら、ユダは『友よ、なすがままにしなさい』と、キリストに言われてから主の晩餐の会場を出ていったのです。
これは、ユダがキリストから破門されたわけではないことを示しています。
彼もまた、キリストを裏切った他の弟子たちと同様の愛すべき友なのです」
「礼服を着ていない人は他にもいたってことかしら?」
「会場には、善人も悪人もいたのだから、失礼な人は他にもいたということになります。
しかし、内藤さん。
百パーセント善で、百パーセント悪という人は滅多にいないでしょう。
私達もまた、心に善悪が混在しているのが実情です。
また、このパーティーは現代で言う『多様性』をうかがわせるシーンとなっています。
ルカによる福音書の『大宴会の喩え』では、『貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人』のような差別されていた人々を積極的に招待しなさいと主人は命令するのです。
善人も悪人もいる、身体障害のある人もいる、頭髪がどんどん伸びる子どもやおしゃれな女性たちがいる、そのような多様性の中にある大宴会として聖餐式は始まるのです」
「言い訳を作って招待に応じなかった人もいるわ」
「それは、内藤さんも心当たりがあるでしょう。聖餐式に出席するのはあくまで任意ですから、欠席しても仕方がありません。
ただし、司式者は招待し続ける義務があります。
それを妨げてしまう司式者は失格です」
「分かったわ。
せっかく招待されているのに、言い訳を作ってきた私にも責任があるのね。
今度の聖餐式には、身も心もおしゃれして聖餐式に臨みたいと思うわ」
そう言って、香織はウキウキして帰って行った。
聖餐式とミサの末尾にある派遣 [小説]
5月9日火曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「聖餐式文を漢字から学ぶということだったわね」
「はい、まずは聖餐式の頭の『聖』から始めましょう。
『聖』とは、上に『耳』と『口』がある通り、音声に係ることです。
下の文字は、『まっすぐに』を意味します。
賛美歌を思い出してください。
オルガン奏楽や他の人の歌唱を耳にして、自分も口を開いて歌いますね。
それがのびやかであれば、祈りは一層いろどりが出ます」
「司式者と会衆の交唱も同じね」
「そうです。
司式者がぼそぼそとしていたら、祭儀としての喜びが伝わりません。
次に『餐』ですが、これは容器に穀物を入れて手を加え、柔らかくして食べるという意味に加え、削ぎ取った骨を手で持つという意味もあります。
容器には、ウェーハ―ス状のパンを載せるパテンとぶどう酒を入れるチャリスがあります。
「柔らかくして」というところに感謝聖別祷が該当するでしょう」
『感謝聖別祷とは?」
「もともとは、五千人の給食や主の晩餐、いわゆる最後の晩餐の時、パンやぶどう酒に対して、キリストが「感謝の祈りを捧げ」たというものです。
しかし、どういうものだったのか記録には残っていません。
単純に「父よ、この食物を感謝します」という記録する程もない単純な祈りであったことも考えられます。
キリストの「でし」たちが数千人単位であったら、数十人の組にして、それぞれのサークルで食べ物を祝福していたのなら、短くなければなりません。
主の祈りであったとも考えられます」
「『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください』と主の祈りはありますものね」
「その通りです。主の晩餐が儀式化するにしたがって、感謝聖別祷は長く、複雑になってきました。
しかし、20世紀の礼拝改革により、救済史というテーマを明確にした、簡潔なものにしました」
「救済史とは?」
「創造と祝福、イエスの死、復活、昇天、再臨、そして聖霊の降臨、これがパンとぶどう酒を聖別する一番の要素となります。
次に『式』ですが、これは先端の割れた杭を工作や耕作、狩りなどで用いる道具の象形文字です。そこから派生して、物事を進める順番などの意味を持つに至りました」
「式文は、それを文章化したものなのね。
でも、心がこもらないんじゃない?」
「それは人それぞれでしょう。私は、文字をみた方が頭にスーッとは入ってくるし、式文を記憶して唱えることも素晴らしいと思います。
昔は、紙は貴重品でしたから、暗唱が中心だったのでしょう。
先程の、儀式化するにつれて、長く複雑化していったというのは司式者中心の紙による祈祷が独占化していく過程でもあったのです。
次に、聖餐式のローマ・カトリック教会の呼び名である「ミサ」について考えたいと思います。
ミサの語源は聖餐式の最終のラテン語が『イテ・ミサ・エスト』であったという説が有力です。
これは、意訳すると『使命を抱いて行きなさい』となるかと思います」
「英語のミッションと関係があるのかしら。
ミッションも使命という意味でしょ」
「その通りです。
直訳すると、『派遣』ということになります。
聖公会の聖餐式の末尾にも派遣という見出しがあります」
「分かったわ。
聖餐式となると、五千人の給食と主の晩餐の物語としか関係ないのかしら?」
「私は、この派遣という言葉から、生理の出血が止まらない女性の癒しの物語を想い起します。
それはおおよそ次のような物語です。
キリスト一行が目的地を目指していたのですが、群衆が取り囲んですし詰めの状態でした。
ある女性がいました。
この女性は生理の出血が長期にわたって止まらず、医者に診てもらっても薬を服用しても全く効かず、財産を使い果たしてしまうほどでした。
彼女はキリストだったら癒してくれるだろうと思い、群衆をかき分けてキリストの衣の裾に触ったのです。
すると、出血が止まり、そのことを気付いたキリストから誰が衣服を触ったのかと質問されます。
おずおずと出頭した女性は、自白すると、キリストから「安心して行きなさい」という言葉をいただきます」
「その『安心して行きなさい』という言葉が、派遣ということになる、と」
「その通りです。
この女性は、一生この出血は止まらないと絶望していたのですが、キリストのうわさを聞いて一縷の希望を持ちました。
そして、『行きなさい』、『遣わす』と命じられたのです。
ここに女性司祭を肯定する根拠の一つが考えられます」
「分かったわ。ミサという言葉の中にも女性特有の苦しみと重なる物語があるのね」
そう言って、香織は自分も女性であると意識して帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「聖餐式文を漢字から学ぶということだったわね」
「はい、まずは聖餐式の頭の『聖』から始めましょう。
『聖』とは、上に『耳』と『口』がある通り、音声に係ることです。
下の文字は、『まっすぐに』を意味します。
賛美歌を思い出してください。
オルガン奏楽や他の人の歌唱を耳にして、自分も口を開いて歌いますね。
それがのびやかであれば、祈りは一層いろどりが出ます」
「司式者と会衆の交唱も同じね」
「そうです。
司式者がぼそぼそとしていたら、祭儀としての喜びが伝わりません。
次に『餐』ですが、これは容器に穀物を入れて手を加え、柔らかくして食べるという意味に加え、削ぎ取った骨を手で持つという意味もあります。
容器には、ウェーハ―ス状のパンを載せるパテンとぶどう酒を入れるチャリスがあります。
「柔らかくして」というところに感謝聖別祷が該当するでしょう」
『感謝聖別祷とは?」
「もともとは、五千人の給食や主の晩餐、いわゆる最後の晩餐の時、パンやぶどう酒に対して、キリストが「感謝の祈りを捧げ」たというものです。
しかし、どういうものだったのか記録には残っていません。
単純に「父よ、この食物を感謝します」という記録する程もない単純な祈りであったことも考えられます。
キリストの「でし」たちが数千人単位であったら、数十人の組にして、それぞれのサークルで食べ物を祝福していたのなら、短くなければなりません。
主の祈りであったとも考えられます」
「『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください』と主の祈りはありますものね」
「その通りです。主の晩餐が儀式化するにしたがって、感謝聖別祷は長く、複雑になってきました。
しかし、20世紀の礼拝改革により、救済史というテーマを明確にした、簡潔なものにしました」
「救済史とは?」
「創造と祝福、イエスの死、復活、昇天、再臨、そして聖霊の降臨、これがパンとぶどう酒を聖別する一番の要素となります。
次に『式』ですが、これは先端の割れた杭を工作や耕作、狩りなどで用いる道具の象形文字です。そこから派生して、物事を進める順番などの意味を持つに至りました」
「式文は、それを文章化したものなのね。
でも、心がこもらないんじゃない?」
「それは人それぞれでしょう。私は、文字をみた方が頭にスーッとは入ってくるし、式文を記憶して唱えることも素晴らしいと思います。
昔は、紙は貴重品でしたから、暗唱が中心だったのでしょう。
先程の、儀式化するにつれて、長く複雑化していったというのは司式者中心の紙による祈祷が独占化していく過程でもあったのです。
次に、聖餐式のローマ・カトリック教会の呼び名である「ミサ」について考えたいと思います。
ミサの語源は聖餐式の最終のラテン語が『イテ・ミサ・エスト』であったという説が有力です。
これは、意訳すると『使命を抱いて行きなさい』となるかと思います」
「英語のミッションと関係があるのかしら。
ミッションも使命という意味でしょ」
「その通りです。
直訳すると、『派遣』ということになります。
聖公会の聖餐式の末尾にも派遣という見出しがあります」
「分かったわ。
聖餐式となると、五千人の給食と主の晩餐の物語としか関係ないのかしら?」
「私は、この派遣という言葉から、生理の出血が止まらない女性の癒しの物語を想い起します。
それはおおよそ次のような物語です。
キリスト一行が目的地を目指していたのですが、群衆が取り囲んですし詰めの状態でした。
ある女性がいました。
この女性は生理の出血が長期にわたって止まらず、医者に診てもらっても薬を服用しても全く効かず、財産を使い果たしてしまうほどでした。
彼女はキリストだったら癒してくれるだろうと思い、群衆をかき分けてキリストの衣の裾に触ったのです。
すると、出血が止まり、そのことを気付いたキリストから誰が衣服を触ったのかと質問されます。
おずおずと出頭した女性は、自白すると、キリストから「安心して行きなさい」という言葉をいただきます」
「その『安心して行きなさい』という言葉が、派遣ということになる、と」
「その通りです。
この女性は、一生この出血は止まらないと絶望していたのですが、キリストのうわさを聞いて一縷の希望を持ちました。
そして、『行きなさい』、『遣わす』と命じられたのです。
ここに女性司祭を肯定する根拠の一つが考えられます」
「分かったわ。ミサという言葉の中にも女性特有の苦しみと重なる物語があるのね」
そう言って、香織は自分も女性であると意識して帰って行った。
キリストの慈しみと自立支援 [小説]
5月8日月曜日
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「このところ、神父のおかげで礼拝に出席し続けているわ。
でも、神父がいなくなったら、また来なくなるかも」
これをきいて、神父は感情を露にした。
「そのようなことを言ってはいけません。
教会は、神に会見することであって、人に会いに来るわけでは決してないのです」
「それは分かるけれど、どうしたらいいのか」
「ではこうしましょう。
牧師が人事異動で代わっても礼拝式文は基本的に変わらないのだから、これをよすがにしたらよいのです。
聖餐式文の勉強を始めましょう」
「分かりました。今日からという訳ではないのでしょう」
「いいえ、今晩からです。
ちょうど、日本カトリック教会がミサ式次第を変更したので、それを参考にしましょう。
日本聖公会で言う、「主よ、憐れみをお与えください」が、「主よ、いつくしみをわたしたちに。」と改正しました。
これは大栄光の歌。世の罪を除く神の小羊にも当てはまるので、大きな変更です」
「なぜ変えたのかしら?」
「はっきりとは分かりません。
内藤さんは両者に違いを感じますか?」
「憐れみと言うと、「自己憐憫」という言葉があるように、自分で自分を可哀そうだと思うマイナスのイメージがあるわ。
それに対し、慈しむというのは、『慈愛』のように暖かいプラスの感情があると思う」
「なるほど。
『憐』という漢字には、プラスマイナスはともかく絶えることのない感情の意味があります。
『慈』とは、若い芽を大切に育てる親心という意味があります」
「神父、聖書には慈しむという感情を表す物語はないのかしら」
「私もそれを思って、つらつら考えましたら、金持ちの男の去来の物語を思い出しました。
それはおおよそ次のようなものです。
キリスト一行が道を歩いていた。
すると、一人の男性が近寄ってきて、キリストに「善い先生、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのですか?」と質問しました。
これに対し、「私は善い者ではない。そうしたいのなら、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな。奪い取るな。父と母を敬え』を実践しなさい」と答えました。
ところが、男性は「そういうことなら幼い頃から実践しています」と答えたので、
キリストは彼を慈しんでこう呼びかけたのです。
「あなたに欠けているものが一つある。持ち物を売り払って、貧しい人々に与えなさい。それから私に従いなさい」と。
すると、彼は表情を暗くして悩みながら去っていきました。
なぜなら彼は金持ちだったからです」
「でも、無一文になるのは難しいことだわ。
それに弟子入りしたいと言ったわけではないのでしょ」
「その通りです。
しかし、貧しい人々を助けることは大事なことです。
悠人さんと話したことがあるのですが、先程の『偽証するな』と『奪い取るな』は厳しい禁止なのです。
なぜなら、貧しい人々を窮地に立たせるからです。
したがって、全財産を処分せよというのは、キリストに特有の誇張した表現で真に受けることはありません」
「オーバーだから聞き流せと?」
「聞き流せとまでは言いませんが、本質はどこにあるのか考えてみるのです。
もともとこの話は、『慈しみ』に関する問題でしたね。
キリストの慈愛は、若い芽を守り育てたい親心のようなものであったのではないかと。
ここで、『父と母を敬え』が出てくるのだと思います。
これは順番でいくと、本来『殺すな』の前、つまり先頭にくる推奨の言葉です。
これをひっくり返したというのは、あなたが貧しい人々に対して親心、慈しみの心を持てと言うことだと思います」
「なるほど、貧しい人を甘やかすのではなくて、自分でできることは自分でし、できないところを必要に応じて支援するのね」
「その通りです。
現代で言う自立支援ですね。
冒頭の『善い先生』とキリストの『自分はそうではない』というやり取りは、ここにもあるのだと思います。
甘やかすのが偽善、自立支援が善、善を否定しているのではなく、本当の善を行えという推奨なのです。
そして、この男性は真剣に悩んでいます。
ここにも救いがある叙述です」
「分かったわ。
これからどうやって勉強するのかしら?」
「式文の漢字を一つひとつ拾って、祈りの意味を吟味しましょう」
そして、香織はいつものように自動車で帰って行った。
午後八時に内藤香織31歳が訪ねてきた。
「このところ、神父のおかげで礼拝に出席し続けているわ。
でも、神父がいなくなったら、また来なくなるかも」
これをきいて、神父は感情を露にした。
「そのようなことを言ってはいけません。
教会は、神に会見することであって、人に会いに来るわけでは決してないのです」
「それは分かるけれど、どうしたらいいのか」
「ではこうしましょう。
牧師が人事異動で代わっても礼拝式文は基本的に変わらないのだから、これをよすがにしたらよいのです。
聖餐式文の勉強を始めましょう」
「分かりました。今日からという訳ではないのでしょう」
「いいえ、今晩からです。
ちょうど、日本カトリック教会がミサ式次第を変更したので、それを参考にしましょう。
日本聖公会で言う、「主よ、憐れみをお与えください」が、「主よ、いつくしみをわたしたちに。」と改正しました。
これは大栄光の歌。世の罪を除く神の小羊にも当てはまるので、大きな変更です」
「なぜ変えたのかしら?」
「はっきりとは分かりません。
内藤さんは両者に違いを感じますか?」
「憐れみと言うと、「自己憐憫」という言葉があるように、自分で自分を可哀そうだと思うマイナスのイメージがあるわ。
それに対し、慈しむというのは、『慈愛』のように暖かいプラスの感情があると思う」
「なるほど。
『憐』という漢字には、プラスマイナスはともかく絶えることのない感情の意味があります。
『慈』とは、若い芽を大切に育てる親心という意味があります」
「神父、聖書には慈しむという感情を表す物語はないのかしら」
「私もそれを思って、つらつら考えましたら、金持ちの男の去来の物語を思い出しました。
それはおおよそ次のようなものです。
キリスト一行が道を歩いていた。
すると、一人の男性が近寄ってきて、キリストに「善い先生、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのですか?」と質問しました。
これに対し、「私は善い者ではない。そうしたいのなら、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな。奪い取るな。父と母を敬え』を実践しなさい」と答えました。
ところが、男性は「そういうことなら幼い頃から実践しています」と答えたので、
キリストは彼を慈しんでこう呼びかけたのです。
「あなたに欠けているものが一つある。持ち物を売り払って、貧しい人々に与えなさい。それから私に従いなさい」と。
すると、彼は表情を暗くして悩みながら去っていきました。
なぜなら彼は金持ちだったからです」
「でも、無一文になるのは難しいことだわ。
それに弟子入りしたいと言ったわけではないのでしょ」
「その通りです。
しかし、貧しい人々を助けることは大事なことです。
悠人さんと話したことがあるのですが、先程の『偽証するな』と『奪い取るな』は厳しい禁止なのです。
なぜなら、貧しい人々を窮地に立たせるからです。
したがって、全財産を処分せよというのは、キリストに特有の誇張した表現で真に受けることはありません」
「オーバーだから聞き流せと?」
「聞き流せとまでは言いませんが、本質はどこにあるのか考えてみるのです。
もともとこの話は、『慈しみ』に関する問題でしたね。
キリストの慈愛は、若い芽を守り育てたい親心のようなものであったのではないかと。
ここで、『父と母を敬え』が出てくるのだと思います。
これは順番でいくと、本来『殺すな』の前、つまり先頭にくる推奨の言葉です。
これをひっくり返したというのは、あなたが貧しい人々に対して親心、慈しみの心を持てと言うことだと思います」
「なるほど、貧しい人を甘やかすのではなくて、自分でできることは自分でし、できないところを必要に応じて支援するのね」
「その通りです。
現代で言う自立支援ですね。
冒頭の『善い先生』とキリストの『自分はそうではない』というやり取りは、ここにもあるのだと思います。
甘やかすのが偽善、自立支援が善、善を否定しているのではなく、本当の善を行えという推奨なのです。
そして、この男性は真剣に悩んでいます。
ここにも救いがある叙述です」
「分かったわ。
これからどうやって勉強するのかしら?」
「式文の漢字を一つひとつ拾って、祈りの意味を吟味しましょう」
そして、香織はいつものように自動車で帰って行った。
キリストの復活に鼓舞されて単純素朴な生き方に招かれる祈り [小説]
四月二十五日火曜日
午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。
「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」
神父は答えた。
「そうしましょう。
「今日は、『誘惑に陥らせないでください/悪からお救いください』についてイメージを膨らませましょう。
では、テーマを明らかにするために漢字の成り立ちや意味については、順不同に解説することにします」
「分かりました」
「陥らせないでくださいの中には、否定詞『不』が含まれているので、これも入れましょう。
これは、元来たっぷりと膨らんだ花のガクの象形文字です」
「それは、知りませんでした。なぜ、否定詞になったのでしょうか?」
「不と否が似ているように、両者には共通の音があり、次第に『不』の元の意味が失われて、両方とも否定詞になったのです」
「花のガクの象形を持ってきた理由は何ですか?」
「私は、花と言うと、マタイによる福音書の山上の説教にある、次の言葉を想い起します。
まきもせず、紡ぎもせず、野の花(ユリ)がどのように育つかをみよ。
栄華を極めたソロモン王(紀元前一千年頃)さえ、これほどに着飾っていなかった」
「ソロモン王の時にエルサレム神殿は完成したはずでしたね。
それ以上に野の花は精緻であると」
「その通りです。
百合のような球根の花は、何も手を加えないでも、いつの間か茎をのばし、葉を広げ、つぼみを付けて花を咲かせます。
このことをよく観察すると、神の偉大な業に比べると、
人為的な着飾りや経済的な繁栄というものに思い煩うのが、非常に小さいことに気付きます。
実際、ソロモン王の死後、統一されていたイスラエル王国は、南北に分裂してしまいました」
「ダビデ王が偉大な政治家でありましたが、それは二代続いただけだったのですね」
「その通りです。
また、陥とは、土の穴に落ちるという意味であり、惑とは心が狭い枠に囲まれるということを示していますから、歴史はそのことを指しています。
このようなことからもキリストは、素朴な生き方を選びなさいと推奨しているのです。
また、悪とは、押し下げられて心がくぼむという意味があります。
狭い枠の中に落ちるという意味では、陥や惑と共通するところがありますが、
旧約聖書における、悪とは典型的な例として、賄賂があります。
その中でも、賄賂による不正な裁判が最悪と言えるでしょう。
道義上、正義なのに、カネによって判決が覆される。
そのため、金持ちが優遇され、貧しいものが不当な思いをする。
このような正義(ヘブライ語でツェーダカ―)を踏みにじる行為を預言者たちは告発しています。
告発されているということは、逆に言えば、蔓延していたということです。
古今東西共通する悪と言えます」
「政治家の汚職は後を絶ちませんよね。
東京五輪・パラリンピックのことについても大きな問題となっています」
「そうですね。
救は、引き締めて食い止めることを表していますから、悪の反対で、正義を行うことになります。
これは、孤児の保護のところで指摘したとおり、社会的弱者に目を留め、救いの手を差し伸べることです。
誘は、自分が先に立って、後に続く人を言葉で取り込むことを表しています。
良い意味もありますし、悪い意味もあるのでしょう」
「社会的弱者の保護補強を誘引するのならよいのですが」
「その通りです。
補強と言えば、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。
「キリストの復活の命を証しする勇気を与えてください(意訳)。
原文は、Strengthen us to proclaim your risen life.です。
キリストの命を証しするとは、自分がキリスト教徒であることをカミングアウトすることという意味より、
花の生態を観察することによって得られるものとして、単純で素朴、かつ思い煩うことがないという率直な生き方を選ぶということにあります。
しかし、これとは逆の誘惑も多いことが現実です。
そのような時、復活の主が『思い煩うな』と言ってきかせているように、私たちの限界を補う意味で、力づけをしてくださいます。
古い生き方を脱ぎ捨て、新しい生き方を選ぶとき、私たちは復活のキリストを着ているのです」
「個人的にも社会的にも正義を貫く勇気が私たちに求められており、復活の主は支援してくださるのですね」
身体介護も自分でできることは自分でしないと、支援者に依存し、体力を失うことにつながるが、
精神的なことも、自分で考えるべきところは自分でカバーし、不足するところは助けてもらうことが大事だと悠人は思った。
「私から、お祈りさせてもらってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。
お願いします」
「天におられる私たちの父よ。
あなたは独り子を通して、知恵と思慮を与えてくださいます。
主の祈りの学びを通して多くの恵みをいただき感謝します。
どうか、悪に染まることなく、あなたの正義の道を歩ませてください。
正野神父の健康が守られますように。
この願い、主イエス・キリストによってお願いします。
アーメン」
主の祈りの一連の学びが終わり、悠人は満足して帰って行った。
午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。
「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」
神父は答えた。
「そうしましょう。
「今日は、『誘惑に陥らせないでください/悪からお救いください』についてイメージを膨らませましょう。
では、テーマを明らかにするために漢字の成り立ちや意味については、順不同に解説することにします」
「分かりました」
「陥らせないでくださいの中には、否定詞『不』が含まれているので、これも入れましょう。
これは、元来たっぷりと膨らんだ花のガクの象形文字です」
「それは、知りませんでした。なぜ、否定詞になったのでしょうか?」
「不と否が似ているように、両者には共通の音があり、次第に『不』の元の意味が失われて、両方とも否定詞になったのです」
「花のガクの象形を持ってきた理由は何ですか?」
「私は、花と言うと、マタイによる福音書の山上の説教にある、次の言葉を想い起します。
まきもせず、紡ぎもせず、野の花(ユリ)がどのように育つかをみよ。
栄華を極めたソロモン王(紀元前一千年頃)さえ、これほどに着飾っていなかった」
「ソロモン王の時にエルサレム神殿は完成したはずでしたね。
それ以上に野の花は精緻であると」
「その通りです。
百合のような球根の花は、何も手を加えないでも、いつの間か茎をのばし、葉を広げ、つぼみを付けて花を咲かせます。
このことをよく観察すると、神の偉大な業に比べると、
人為的な着飾りや経済的な繁栄というものに思い煩うのが、非常に小さいことに気付きます。
実際、ソロモン王の死後、統一されていたイスラエル王国は、南北に分裂してしまいました」
「ダビデ王が偉大な政治家でありましたが、それは二代続いただけだったのですね」
「その通りです。
また、陥とは、土の穴に落ちるという意味であり、惑とは心が狭い枠に囲まれるということを示していますから、歴史はそのことを指しています。
このようなことからもキリストは、素朴な生き方を選びなさいと推奨しているのです。
また、悪とは、押し下げられて心がくぼむという意味があります。
狭い枠の中に落ちるという意味では、陥や惑と共通するところがありますが、
旧約聖書における、悪とは典型的な例として、賄賂があります。
その中でも、賄賂による不正な裁判が最悪と言えるでしょう。
道義上、正義なのに、カネによって判決が覆される。
そのため、金持ちが優遇され、貧しいものが不当な思いをする。
このような正義(ヘブライ語でツェーダカ―)を踏みにじる行為を預言者たちは告発しています。
告発されているということは、逆に言えば、蔓延していたということです。
古今東西共通する悪と言えます」
「政治家の汚職は後を絶ちませんよね。
東京五輪・パラリンピックのことについても大きな問題となっています」
「そうですね。
救は、引き締めて食い止めることを表していますから、悪の反対で、正義を行うことになります。
これは、孤児の保護のところで指摘したとおり、社会的弱者に目を留め、救いの手を差し伸べることです。
誘は、自分が先に立って、後に続く人を言葉で取り込むことを表しています。
良い意味もありますし、悪い意味もあるのでしょう」
「社会的弱者の保護補強を誘引するのならよいのですが」
「その通りです。
補強と言えば、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。
「キリストの復活の命を証しする勇気を与えてください(意訳)。
原文は、Strengthen us to proclaim your risen life.です。
キリストの命を証しするとは、自分がキリスト教徒であることをカミングアウトすることという意味より、
花の生態を観察することによって得られるものとして、単純で素朴、かつ思い煩うことがないという率直な生き方を選ぶということにあります。
しかし、これとは逆の誘惑も多いことが現実です。
そのような時、復活の主が『思い煩うな』と言ってきかせているように、私たちの限界を補う意味で、力づけをしてくださいます。
古い生き方を脱ぎ捨て、新しい生き方を選ぶとき、私たちは復活のキリストを着ているのです」
「個人的にも社会的にも正義を貫く勇気が私たちに求められており、復活の主は支援してくださるのですね」
身体介護も自分でできることは自分でしないと、支援者に依存し、体力を失うことにつながるが、
精神的なことも、自分で考えるべきところは自分でカバーし、不足するところは助けてもらうことが大事だと悠人は思った。
「私から、お祈りさせてもらってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。
お願いします」
「天におられる私たちの父よ。
あなたは独り子を通して、知恵と思慮を与えてくださいます。
主の祈りの学びを通して多くの恵みをいただき感謝します。
どうか、悪に染まることなく、あなたの正義の道を歩ませてください。
正野神父の健康が守られますように。
この願い、主イエス・キリストによってお願いします。
アーメン」
主の祈りの一連の学びが終わり、悠人は満足して帰って行った。
キリストの愛の中で私たちを新しい命へと育む祈り [小説]
四月二十四日月曜日
午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。
「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」
神父は答えた。
「そうしましょう。
今日は、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください/私たちが人の罪を赦したように私たちの罪をお赦しください』についてイメージを膨らませましょう。
「では、テーマを明らかにするために漢字の成り立ちや意味については、順不同に解説することにします」
「分かりました」
「『人』は、元来身近な同族や隣人仲間を指していましたが、仁という漢字とも同系で、これは儒教の最高の徳を表しています。
漢和字典では、『孔子は、その範囲を「四海同胞」というところまで拡大し、広く隣人愛の心を仁(ヒューマニズム)と名づけた』と解説しています。
この範囲は、こんにち人類・地球規模になっており、環境問題、食糧問題、人口問題などを世界で共有しています。
隣人愛については、マルコによる福音書で、もっとも重要な掟(言葉)として物語化されています。
ある律法学者が、(旧約)聖書の中で何が生活の根幹をなしているのか、主イエスに質問しました。
これに対し主イエスは、
神を全身全霊で愛すること
隣人を自分だと思って愛すること
だと答えました。
律法学者は、その見事な応答に感服、同意し、これらはあらゆる供え物や生贄にまさると答えました。
ただし、この二つの言葉は車の両輪のようなもので、神を愛することは、すなわち隣人を愛すること、逆もまたしかりなのです。
それを日々の生活の中で実践していくことが重要であって、観念の世界ではないことに注意を払うことが必要です」
「レジ袋が有料化になりました。
これも環境問題から派生した生活の実践であり、私たちは神との関連の中で意識しているのですね」
「その通りです。
次に与とは、実は二人が両手で一緒に物を持ち上げるという意味なのです。
もともとは、與という文字で、これを簡略化したものです。
イメージとして、米俵を二人で抱えることを想像してみましょう。
糧とは重さや分量を量って用いる主食・米ですから、これが適切であると思います。
つまり、与えるというのは、上の立場の人が下の立場の人に与えるというよりも、
漢字の世界観では対等な二人の共同作業であることがうかがえます。
先程の隣人愛と重なると思いませんか?」
「隣人を自分自身だとイメージして、その人を愛する」
「その通りです。
次に罪とは、悪事のために法の網にかかった人という意味があります。
しかし、これは犯罪者のことを言っているので、私たちが呼んでいる罪は道義的なものです。
そして、これは自己中心に凝り固まった、心のとげであり、憎しみがその代表であるとも言えます」
「ヘイト・スピーチやSNS上の誹謗中傷が問題になっていますね」
「そうです。
そのようなものから解き放たれるのが赦しです。
赦は、ゆるむ、伸びる、解き放つことを表しています。
以前、罪を負債ととらえて、数値化する喩えを述べましたが、憶えていますか?」
「はい。
赦しがたい相手に百万円の貸しがあったとして、それを帳消しにしたら、
神から一億円に相当する自分の負債を赦される、トータルで九千九百万円の利益が出る、
そう考えるのなら、赦しがたい相手や事柄も、ハードルが下がるということでしたね」
「その通りです。
きょう、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。
「キリストの愛の中で、私たちを新しい命へと育んでください(意訳)。
原文は、Raise us to new life in your loveです。
新しい命というのは、個人的な面もあるのでしょうが、基本的には対人関係におけるものです。
相手をまず赦せば、それは神への愛と重なります。
神は赦した人を愛して、大きな喜びが与え、憎しみから解き放ちます。
それがキリストからいただいている教育なのです。
キリストが赦すという模範を示されたから、それに倣う愛の実践ができるのです」
「憎しみを抱いて、心のとげが生じてもそれを乗り越える希望があるのですね」
「その通りです。
さらに、日とは、人に寄り添った温かさを与えることを表しています。
毎は、次々と生じる事物を一つひとつ繰り返すという意味があります。
一人ひとり、一つひとつのことを欲張りせず、毎日の目標に邁進していく、これが教育の要です。
今とは、逃すことなくとらえた時間のことを示していますが、物事には決定的な時というものがあります。
赦すべき時に赦さなければ、憎しみのとげは人々を苦しめるでしょう」
「時宜を捕えて、着実に継続していく、これがキリストから与えられている教育であり、訓練なのですね」
そう言って、悠人はこれまで受けた学校教育のことを思って、帰って行った。
午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。
「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」
神父は答えた。
「そうしましょう。
今日は、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください/私たちが人の罪を赦したように私たちの罪をお赦しください』についてイメージを膨らませましょう。
「では、テーマを明らかにするために漢字の成り立ちや意味については、順不同に解説することにします」
「分かりました」
「『人』は、元来身近な同族や隣人仲間を指していましたが、仁という漢字とも同系で、これは儒教の最高の徳を表しています。
漢和字典では、『孔子は、その範囲を「四海同胞」というところまで拡大し、広く隣人愛の心を仁(ヒューマニズム)と名づけた』と解説しています。
この範囲は、こんにち人類・地球規模になっており、環境問題、食糧問題、人口問題などを世界で共有しています。
隣人愛については、マルコによる福音書で、もっとも重要な掟(言葉)として物語化されています。
ある律法学者が、(旧約)聖書の中で何が生活の根幹をなしているのか、主イエスに質問しました。
これに対し主イエスは、
神を全身全霊で愛すること
隣人を自分だと思って愛すること
だと答えました。
律法学者は、その見事な応答に感服、同意し、これらはあらゆる供え物や生贄にまさると答えました。
ただし、この二つの言葉は車の両輪のようなもので、神を愛することは、すなわち隣人を愛すること、逆もまたしかりなのです。
それを日々の生活の中で実践していくことが重要であって、観念の世界ではないことに注意を払うことが必要です」
「レジ袋が有料化になりました。
これも環境問題から派生した生活の実践であり、私たちは神との関連の中で意識しているのですね」
「その通りです。
次に与とは、実は二人が両手で一緒に物を持ち上げるという意味なのです。
もともとは、與という文字で、これを簡略化したものです。
イメージとして、米俵を二人で抱えることを想像してみましょう。
糧とは重さや分量を量って用いる主食・米ですから、これが適切であると思います。
つまり、与えるというのは、上の立場の人が下の立場の人に与えるというよりも、
漢字の世界観では対等な二人の共同作業であることがうかがえます。
先程の隣人愛と重なると思いませんか?」
「隣人を自分自身だとイメージして、その人を愛する」
「その通りです。
次に罪とは、悪事のために法の網にかかった人という意味があります。
しかし、これは犯罪者のことを言っているので、私たちが呼んでいる罪は道義的なものです。
そして、これは自己中心に凝り固まった、心のとげであり、憎しみがその代表であるとも言えます」
「ヘイト・スピーチやSNS上の誹謗中傷が問題になっていますね」
「そうです。
そのようなものから解き放たれるのが赦しです。
赦は、ゆるむ、伸びる、解き放つことを表しています。
以前、罪を負債ととらえて、数値化する喩えを述べましたが、憶えていますか?」
「はい。
赦しがたい相手に百万円の貸しがあったとして、それを帳消しにしたら、
神から一億円に相当する自分の負債を赦される、トータルで九千九百万円の利益が出る、
そう考えるのなら、赦しがたい相手や事柄も、ハードルが下がるということでしたね」
「その通りです。
きょう、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。
「キリストの愛の中で、私たちを新しい命へと育んでください(意訳)。
原文は、Raise us to new life in your loveです。
新しい命というのは、個人的な面もあるのでしょうが、基本的には対人関係におけるものです。
相手をまず赦せば、それは神への愛と重なります。
神は赦した人を愛して、大きな喜びが与え、憎しみから解き放ちます。
それがキリストからいただいている教育なのです。
キリストが赦すという模範を示されたから、それに倣う愛の実践ができるのです」
「憎しみを抱いて、心のとげが生じてもそれを乗り越える希望があるのですね」
「その通りです。
さらに、日とは、人に寄り添った温かさを与えることを表しています。
毎は、次々と生じる事物を一つひとつ繰り返すという意味があります。
一人ひとり、一つひとつのことを欲張りせず、毎日の目標に邁進していく、これが教育の要です。
今とは、逃すことなくとらえた時間のことを示していますが、物事には決定的な時というものがあります。
赦すべき時に赦さなければ、憎しみのとげは人々を苦しめるでしょう」
「時宜を捕えて、着実に継続していく、これがキリストから与えられている教育であり、訓練なのですね」
そう言って、悠人はこれまで受けた学校教育のことを思って、帰って行った。
地球規模のことも含めた心の目を開く信仰と祈り [小説]
四月二十三日復活節第三主日
午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。
「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」
神父は答えた。
「そうしましょう。
今日は、『御国が来ますように/御心が天に行われる通り地にも行われますように』についてイメージを膨らませましょう。
「まず、漢字を確認します。
御とは、凸凹をならして平らにすることを表しています。
国は、國とも書き、一定区域を統治するという意味があります」
「御には、そういう意味があるのですか。
デコボコというと、洗礼者ヨハネの登場を想い起しますが」
「そうですね。
この漢字は、敬意を表すものですが、元の意味をたどっていくと、面白い発見になるかもしれませんね。
御国の到来は、いきなり出現するのではありますが、心の備えというのが大事です。
きのう、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。
「私たちの信仰の視界を広げてください(意訳)。
原文は、Open the eyes of our faithです。
宗教というと、内面の問題とばかり受け止められがちですが、きのうの孤児のことのように、社会的なテーマも含まれています。
洗礼者ヨハネの登場もその文脈で考えるべきです。
ルカによる福音書には、ヨハネのもとに軍人や徴税人が来訪していたことが描かれています。
彼らは、恫喝やごまかしによって、金を搾取していた背景がありました」
「個人の魂の救済ばかりでなく、社会正義の問題にも目を向けるべきだということですね」
「その通りです。
続けて、来とは元は小麦のことを表す象形文字です。
古代中国に周という國があったのですが、私の使っている漢和辞典(藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社)によると、
『西北中国に定着した周の人たちは、中央アジアから小麦の種が到来してから勃興したので、神のもたらした結構な穀物だと信じて大切にした』とあります。
小麦というと、小麦粉で作るパンのことが思い浮かびますね。
ルカによる福音書にはこんな喩えがあります。
真夜中に隣の家の人が訪ねてきました。
来客があり、接待したいのでパンを三つ貸してほしいというのです。
しかし、当人としては子どもも眠っているし、無理だと断るのですが、隣人はしつこくお願いします。
根負けして、パンを提供したという喩えです」
「新しい穀物は、国のありようを変えるのですね。
日本も稲作が始まって、弥生時代になりました。
その喩えと周時代の小麦とのつながりは何ですか?」
「周の人たちが、小麦は神のもたらした穀物だと認識していたことにあります。
喩えで言っているパンは聖霊のことであることが、最後まで読むと分かります。
その意味で喩えと言えるのか判別しにくいのですが、父親だったら子どもがパンを欲しがっているのに石を与えるであろうかという反語が出てきます。
執拗に願えば、神はよいもの、大切にしたい聖霊を与えてくださるのです。
それが御国の到来であり、繰り返し祈ることが求められているのです。
先程の信仰の視野を広げてほしいという祈りに表れていますが、聖霊の働きとはそういうことも含まれているのです」
「父親が、子どもにパンではなく石を与えることは考えられないように、父なる神は聖霊を送ると」
「では先に進めて。
心とは、心臓の象形文字で血液を血管のすみずみまで行き渡らせる心臓の働きのことを示しています。
行とは、直進をなして進むという意味です。
また、〇〇しますようにという言葉は、文語にすると『請い願い奉る』とありますから、
請と願も調べてみました。
請とは、澄んだ目をまともに向けて応対することという意味があります。
願は、生真面目に考えることを表しています」
「まじめな人の眼差しと言ったところでしょうか?」
「その通りですね。
そのような人は、人の機微をよく読み、丁寧に接する誠実な人なのでしょう。
御心が天に行われる通り地にも行われますようにという祈りは、小さな事ばかりではなく、
地球規模のことも視野に入れなくてはならない時代になってきました。
ますます、心の目をよく開く信仰が求められているのです」
「心の目ですか。
きょうも有難うございました」
そう言って、悠人は明日からの生活を思った。
午後八時に川崎悠人(はると)二十三歳が訪ねてきた。
「きょうも、主の祈りを漢字の成り立ちから考えるのですね」
神父は答えた。
「そうしましょう。
今日は、『御国が来ますように/御心が天に行われる通り地にも行われますように』についてイメージを膨らませましょう。
「まず、漢字を確認します。
御とは、凸凹をならして平らにすることを表しています。
国は、國とも書き、一定区域を統治するという意味があります」
「御には、そういう意味があるのですか。
デコボコというと、洗礼者ヨハネの登場を想い起しますが」
「そうですね。
この漢字は、敬意を表すものですが、元の意味をたどっていくと、面白い発見になるかもしれませんね。
御国の到来は、いきなり出現するのではありますが、心の備えというのが大事です。
きのう、イングランド聖公会の聖餐式特祷(とくとう)を読んでいましたら、こんな祈りがありました。
「私たちの信仰の視界を広げてください(意訳)。
原文は、Open the eyes of our faithです。
宗教というと、内面の問題とばかり受け止められがちですが、きのうの孤児のことのように、社会的なテーマも含まれています。
洗礼者ヨハネの登場もその文脈で考えるべきです。
ルカによる福音書には、ヨハネのもとに軍人や徴税人が来訪していたことが描かれています。
彼らは、恫喝やごまかしによって、金を搾取していた背景がありました」
「個人の魂の救済ばかりでなく、社会正義の問題にも目を向けるべきだということですね」
「その通りです。
続けて、来とは元は小麦のことを表す象形文字です。
古代中国に周という國があったのですが、私の使っている漢和辞典(藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社)によると、
『西北中国に定着した周の人たちは、中央アジアから小麦の種が到来してから勃興したので、神のもたらした結構な穀物だと信じて大切にした』とあります。
小麦というと、小麦粉で作るパンのことが思い浮かびますね。
ルカによる福音書にはこんな喩えがあります。
真夜中に隣の家の人が訪ねてきました。
来客があり、接待したいのでパンを三つ貸してほしいというのです。
しかし、当人としては子どもも眠っているし、無理だと断るのですが、隣人はしつこくお願いします。
根負けして、パンを提供したという喩えです」
「新しい穀物は、国のありようを変えるのですね。
日本も稲作が始まって、弥生時代になりました。
その喩えと周時代の小麦とのつながりは何ですか?」
「周の人たちが、小麦は神のもたらした穀物だと認識していたことにあります。
喩えで言っているパンは聖霊のことであることが、最後まで読むと分かります。
その意味で喩えと言えるのか判別しにくいのですが、父親だったら子どもがパンを欲しがっているのに石を与えるであろうかという反語が出てきます。
執拗に願えば、神はよいもの、大切にしたい聖霊を与えてくださるのです。
それが御国の到来であり、繰り返し祈ることが求められているのです。
先程の信仰の視野を広げてほしいという祈りに表れていますが、聖霊の働きとはそういうことも含まれているのです」
「父親が、子どもにパンではなく石を与えることは考えられないように、父なる神は聖霊を送ると」
「では先に進めて。
心とは、心臓の象形文字で血液を血管のすみずみまで行き渡らせる心臓の働きのことを示しています。
行とは、直進をなして進むという意味です。
また、〇〇しますようにという言葉は、文語にすると『請い願い奉る』とありますから、
請と願も調べてみました。
請とは、澄んだ目をまともに向けて応対することという意味があります。
願は、生真面目に考えることを表しています」
「まじめな人の眼差しと言ったところでしょうか?」
「その通りですね。
そのような人は、人の機微をよく読み、丁寧に接する誠実な人なのでしょう。
御心が天に行われる通り地にも行われますようにという祈りは、小さな事ばかりではなく、
地球規模のことも視野に入れなくてはならない時代になってきました。
ますます、心の目をよく開く信仰が求められているのです」
「心の目ですか。
きょうも有難うございました」
そう言って、悠人は明日からの生活を思った。