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平和の君としてのキリストは私たち一人ひとりを復活させる [小説]

三月三十一日金曜日

午後八時に川崎悠人(はると)が訪ねてきた。

「きのうの、失われた息子の喩えを振り返ってみました。

大農場の息子が浪費して財産を失い、豚飼いに転落していたのが、良心に戻って農場に帰ったところ、父親は歓待した。

息子が小者に転落したけれど、父親の愛により、農場の息子に返り咲いた。

これが贖いであり、私たち罪人を繰り返し神の王子・王女とする物語となっているのですね」

神父は続けた。

「その通りです。

今夜は、復活について思いをはせましょう。

この『祈りのしおり』にある「21.復活日(イースター)の祈り①」を読み上げます。

すべての命と力の源である神よ、

あなたはみ子の力ある復活により、

罪と死の古い支配の力に打ち勝ち、

み子にあって万物を新しくしてくださいました。

どうか、わたしたちが罪に死に、

イエス・キリストにあって

あなたに生き、

栄光のうちにみ子とともに支配することができるようにしてください。

父と聖霊とともに、賛美と誉れ、栄光と力が、

今もまた永遠にみ子にありますように。

アーメン」


悠人が口を開いた。

「イエス・キリストの復活について、深く教えていただけませんか?」

神父は目を落とし、しばらく沈黙した。

「まず、この祈りには『支配』という言葉が二度出てきますね。

二度目の『み子とともに支配することができるようにしてください』ではよく意味が通じませんが、言い換えれば、神の王国でともに臨むことができるようにということでしょう。

支配の支は、漢字の成り立ちで言うと、一本の枝という意味です。

また、配は酒ツボにくっつく、または並べるというニュアンスがあります。

この一本の枝であるイエス・キリストに臨むというのが、教会であり、信徒一人ひとりです」

しかし、「支配」というのはきつい表現ではないか?

「『支配者』という言葉がありますが、マイナス・イメージとして聞こえます」

ウーンとうなって、言葉をつづけた。

「しかし、川崎さん、キリストは平和の君であるのだから、その支配下にあるのはよいことではありませんか。

確かに、国(國)や王という漢字には武力支配という意味が濃厚にあります。

しかし、ヨハネによる福音書で弟子たちに顕現した復活のキリストの第一声は「あなたたちに平和があるように」でした」

ここで、支配と復活が結びつくのかと悠人は思った。

「復活の復は、方向転換をして進むという意味があります。また活は、自由自在に流れるという成り立ちです」

前回のように、具体的に考えたい。

「聖書に照らして、復活を説明してもらえませんか?」

ここでまた沈黙した。

「ルカによる福音書に「エマオ途上の物語」というのがあります。

キリストが、処刑されて三日目の夕暮れ、二人の男性が暗い顔つきをして、歩いていました。

行き先は、エマオという町でエルサレムからはさほど離れてはいない目的地でした。

二人はくっつくようにして歩いていたのですが、ある男性が近づき、仲間に加わろうとします。

三人で並び、彼が(旧約)聖書の言葉を語りだすと、二人の心は熱気を帯び、その男性といつまでもいたいと思うようになりました。

夜になり、宿を取って、三人は食事を共にしました。

彼がパンを裂くと、二人の目が開けて、その男性がキリストであると分かりました。

そして、彼は視界から消え去り、二人はそのことをエルサレムにいる弟子たちに告げるべく出発しました」

悠人の頭に閃きが走った。

「二人が、キリストの言葉をきいた時、こわばっていた心が自由自在になった。つまり活気を取り戻したということですね。

食事の後すぐ、つまり夜間にもかかわらず、エルサレムに立ったとすれば、物理的にも心理的にも、大きな方向転換をした。つまり心も体もすっかり回復したということでもありますね」

神父は深くうなずいた。

「その通りです。復活したのはキリストだけではなく、二人でもあったわけです。そうでなければ、キリストの復活は意味のないことです」

一点だけ腑に落ちないことがあった。

「なぜ、キリストがパンを裂いたときに、目が開けてキリストだと分かったのに、すぐみえなくなったのでしょうか?」

鋭い質問である。

「それは、パンを裂き、分け与えることが平和のシンボルだからでしょう。ヨハネによる福音書とは対照的に、言葉ではなく、行為で平和を宣言しているのです」

聖書とは面白いものだと思った。

「分かりました。それでキリストは平和の君として、復活を宣言し、二人の弟子をエルサレムに派遣したのですね。言葉の部分と行為の部分が対照的です。家に帰って、聖書を読みながら、この物語を味わいたいと思います」

そう言って、悠人は去って行った。

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小者に転落した王子・王女を買い戻すための十字架の贖い [小説]

三月三十日木曜日

午後八時に悠人が訪ねてきた。

雑談の後、悠人が言った。

「昨日、サスペンスドラマで、誘拐事件のことをやっていましたが、身代金とキリストの贖いは関係あると聞きました。

イエス・キリストの贖いはなぜ、全人類の救いとなるのですか?」

神父は悠人の胸元を凝視し、しばらく考え込んでいた。

「それはまず、全人類が天の王である神によって造られたものであるという自覚から始まりますね」

悠人は、洗礼を受けて間もないので、詳しく知りたい。

「天の王とは何ですか?」

悠人が関心を示したことを嬉しく思った。

「人間とは異次元にある超越的存在のことです。私たちが父なる神と呼んでいるのと同じです。

この父が天地の造り主であると信じるならば、全人類もその中にいます。

死者の魂も消滅したのではなく、神の近くにいるという信仰です」

人類が射程に入るのは分かった。

父であるという前提には、子がいるということになる。

「父なる神が王であるということは、王に子どもはいるのですか?」

贖いの核心に入ってきたと思った。

「それが、独り息子であるイエス・キリストです。

そして、私たちはキリストの仲介で、つまり十字架の死によって、王の養子として迎え入れられているのです。

それが贖いです」

もう少し詳しく知りたいと悠人は思った。

「贖いとは何ですか?」

神父は漢字の成り立ちを調べて、罪とは小者に格下げされた存在を指すということを知っていたので、それを悠人に話した。

「王子・王女が欲望の虜になって、罪人すなわち「小者」に転落したのを、イエス・キリストを身代金にして買い取り、元の王子・王女に回復するということです」

悠人は具体的にイメージしたくなった。

「聖書にはどのように表現されていますか?」

「ルカによる福音書の『失われた息子』の喩えが参考になると思います。

大農場の息子が父親にせがんで生前贈与を申し込んできました。

父はそれを了解し、金を手にした息子は遠くへ旅立って、遊興に明け暮れ全財産を失ってしまいました。

豚の飼育をするという最悪の事態を経験した息子は、ふと我に返り、農場の労働者の一人として雇ってもらおうと気付きます。

父は門のところに立ち、帰還する息子を遠くから発見し、抱き寄せます。

最後に、息子に指輪をはめ、靴を履かせ、宴会を催すという物語です」

大農場の息子は、元の座に戻ったということか。

「生前贈与が、身代金であるとすると、受け取ったのは本人ということになりますが」

鋭い質問である。

「そうですね。しかし、モノでは何も得られませんでした。

息子が、本当に受け取れたのはいつも自分のことを心配し、温かく迎え入れた無償の愛であり、そのことに気付く息子の良心だったのです」

これを悔い改めというのかと悠人は思った。

「分かりました。失われた息子の喩えを反芻してみたいと思います。またお邪魔してもよいですか?」

楽しいひと時であった。

「もちろんです。キリスト教の根幹を対話できてよかったです」

もう間もなく復活祭(復活日、イースター)を迎えようとする。

悠人と復活について語り合う日が来るのを願った。















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信仰の継承をあきらめない「家族の祈り」 [小説]

三月二十九日水曜日。

午後三時に井口和代七十四歳が訪ねてきた。

新任の牧師になったのだから、これを機に、同居する息子四十六歳へ家族と共に礼拝に出席するよう促したのだが、応じようとしないとのことである。

そこで『祈りのしおり』(日本聖公会横浜教区作成の前掲書、以下同じ)にある家庭生活のため(25)を唱えているという。

慈しみ深い神よ、
あなたは人を創造し、
そこに生まれる家庭に豊かな祝福をお与えくださいます。
どうかこの家庭に主の愛を満たし、
聖霊をもってこれを清め、
悪魔の手だてを退けてください。
家族が助け合って恵みの道を歩み、
ともに生きる喜びを、
次の世代に伝えることができますように、
主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン

「先生、『悪魔の手だてを退けてください』というのがピンとこないのですが」

神父は腕を組みながら沈思黙考した。

「悪魔という人格的存在はいません。この祈りの冒頭にあるように神は人を造り、これを祝福しましたとあり、知恵の書でも、もし神が被造物を憎んでいたのならば、造らなかったはずであると述べられています」

改めて、「祝福」とは何かを説明してほしいと和代は思った。

「結婚式で新郎新婦を祝福すると言いますね。祝福を祈るとはどういうことですか?」

確かに、この言葉は頻繁に出てくるが、素朴な問いかけである。

「イメージしやすいように漢字で説明しますね。

祝の左はシメスヘンと言って、祭壇を意味します。

右は人がひざまずいている象形です。

また、福の右は徳利を酒で満杯にするさまを示しています。

井口さんが言うように、祝は結婚式、福は披露宴に象徴されるのでしょう」

息子は教会で結婚式を挙げたというのに、なんとも情けない。

「息子の家庭には二人も子宝に恵まれたというのに、孫にもキリスト教が伝わっていない、これは私のせいですか?」

神父は続けた。

「それは井口さんのせいではありません。ただし、あきらめないことが肝心です。

「悪魔の手だて」というのは大げさな表現ですが、主の祈りの「誘惑に陥らせず」と同じことです。

ですから、普段祈っていることと同じなのです」

なるほど、主の祈りと同じことかと和代は思った。

「では、先生、誘惑とは何ですか?」

「それは各自それぞれですから断定できませんが、惑という文字には心を狭い枠で囲むことという意味があります。

それは、先ほどの徳利を満杯にするとは反対のことを表現しています。

ヨハネによる福音書に、カナの婚礼という記事があります。

カナという町で婚礼が行われていた。

披露宴に招かれていたキリストの一行でしたが、母(聖マリア)は、ぶどう酒が足りなくなっていたので、そのことをキリストに催促します。

しかし、キリストは取り合いません。

結局のところ、水をぶどう酒に変えるという奇跡をキリストは起こすのですが、この物語の注目点は他にもあります」

福音書の中でもカナの婚礼は有名な箇所である。どんな注目点なのだろうか。

「この物語のどこにですか?」

神父は続けた。

「水をぶどう酒に変えて、それを振舞ったところ、世話人が試飲してこう言ったのです。

『普通、酔いが回ったころに劣った酒を出すものだが、この花嫁花婿は上質なぶどう酒を取っておいた。なかなか粋な計らいだ』。

つまり、キリストは常識というものを覆したのです。

母の促しを無視し、適切な時を選んで、人々の想定を上回りました。

悪魔というものは存在しませんが、先ほど誘惑のことで話したように、それは常識にとらわれた狭い考えに固執する性癖を擬人化したものと言えます。

井口さんは、喜んで聖餐式に出席しているのですから、大きな徳利を用意して、そこに満杯の喜びを注ぎましょう。

その時私たちは、神の養子である王子・王女として新たに「生まれる」ことができるのです。

繰り返しますが、息子さん、お孫さんのことはあきらめないでください。

ある主教が言っていますが、子どもは親の言うことは聞かないが、することは真似るものです」

することは真似る。辛抱が続くが、自分が喜んでいなければ、そこに参加しようとは思わないものである。

「分かりました。心を広く持って、祈り続けることが大切なのですね」

和代はそう言って、教会を後にした。

信仰の継承というものは容易ではないと神父は心を新たにした。



















































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人知れず祈ることも病人の心理的サポートの一つ [小説]

三月二十八日火曜日。

夜九時に、内山祐司五十三歳が訪ねてきた。

八十三歳の母親が乳がんで、ステージ4だという。

彼女は信徒ではない。

助かってほしい、でも医療にも限界がある。

だから、牧師を通して、神に祈ってもらいたいと足を運んできたということである。

そこで、神父は式文を用意した。

「内山さん、ご一緒にこれを祈りましょう」

「病人のため(出典:日本聖公会横浜教区『祈りのしおり 家庭での信仰生活のために』46)

天の父よ、
病のうちにある主の僕(—)のために献げる祈りをお聞きください。
どうかこの僕を憐れみ、
み恵みによって体と心を強め、
病に打ち勝たせてください。
また医師と看護する者とを助け導き、
その業を全うすることができるようにしてください。
主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」

神父は、しばらく沈黙した後言った。

「この祈りには欠けているところがあります。祈願が先行していて、信仰の表明と自覚が深められていないところです」

医療現場のことについてまで祈っているのに、何か不足はあるのかと祐司は思った。

「具体的にどういう欠陥があるというのですか?」

神父は、メモ帳の一枚を取り出し、書き付けて祐司に渡した。

そこにはこう書かれてあった。

「天の父よ、あなたは病気の内にあっても、絶えず避けどころをお与えくださいます。どうか~」

「祈祷書改正委員会が作ったものがすべてではありません。

これでよろしければ、もう一度唱和しましょう」

神父の言っていることが少し分からなかったが、心を合わせて祐司は祈った。

「この中の「病に打ち勝たせてください」という願いですが、どうもピンときません」

確かに大げさな表現とも言える。

「では、『病気を克服させてください又は乗り越えさせてください』にしたらどうですか?」

その方が受け入れられやすいが、ステージ4の母にどういう力が与えられるのだろうか。

「病気を克服するとはどういうことですか?」

神父は一呼吸おいて語り始めた。

「私たち日本国民は、漢字の教育を受けてきましたね。漢字は中国の殷王朝以来、約四千年の歴史があります。そこで、克服という漢字にも成り立ちから考えてみると思わぬ発見があるかもしれません」

でも、キリスト教は、欧米世界で発達してきた、漢字とリンクするのだろうか?

「分かりました。教えてください」

「克とは、人が重い兜を載せて、それに耐えているさまを描いています。

服は、船と船着き場の板がぴったりと付いている様子です。

つまり、耐えるという静止と、着付きする能動の二つが込められています」

確かに、病人もベッドで静養することもあれば、リハビリで運動することもある。

「母は、もっぱら静養といったところですが、耐え忍ぶよりほかないのでしょうか?」

神父はここで、聖書の物語を紹介しようと思った。

「マルコによる福音書には、生理の出血が止まらない女性の癒しの物語があります。

おおよその内容は次の通りです。

十二年もの間、出血の止まらない女性がいて、医者に診てもらったが、報酬を取られるどころか状態はますます悪化し、絶望的になっていた。

ある時、キリストのうわさを聞いて、この人なら癒していただけると思い、単身会いに行こうと決意する女性がいた。

その時、キリストは群衆に取り囲まれていたので、衣服にさえ触れればよいと後ろから近づき、そうすると、たちまち出血が止まったのを身に感じた。

キリストも自分から力が出ていくのを感じ、誰が触ったのか探し出した、という物語です」

物語とは言え、女性は十二年も耐え忍んできたのか。

先程の話だと、重い兜という十字架を背負っていたことになる。

衣服に触れるというのも、服とはぴったりとくっついている状態だから、薄着の古代イスラエルでは肌に触れたのと同じだったのだろう、と祐司は思った。

「触った女性は名乗り出てきたのですか」

神父は、祐司が関心を示したことを嬉しく思った。

「身震いしながら出てきました。

治療が効かなかったことを含めて、すべてのことを話したところ、キリストは『安心して行きなさい、あなたの信仰があなたを救った』と言って、彼女を送り出したのです」

祐司は、この大胆な行動をとった女性の勇気を想像した。

「十二年間もやぶ医者に騙されて、治療費も大変だったのでしょう」

そろそろ話をまとめようと神父は思った。

「治癒奇跡物語には、いくつかパターンがあって、仲間が病人をキリストのもとに連れていく場合と、本人自ら出向くとに大別されます。

本人の場合、当然キリストとの対話があるのですが、キリストは『何をしてほしいのか』という質問をします。

『目が見えるようになりたい』などと具体的に申告して、その通りになります。
二つ目は、本人が重篤の場合に、様々な補助をして、会話はなくても行動で示すというものがあります。

脳卒中による半身不随の治癒奇跡では、病人を担架に載せて屋根に上り、穴を開けて、キリストの頭上に病人を下したという物語がありますが、この女性の場合は単独行動だったのが特異なものとなっています。

つまり、「生理の血が止まるようになってほしいと言わなくても、大胆な行動のゆえに実現するのですが、必ずキリストは、何者がそうしたのかを探し出して、人格的な係わりを持とうとされるのです。

内山さんのお母さんの場合にも、キリストは逃れる道を必ず用意してくださいます。

ですから、重荷に耐えかねているお母さんを内山さんが心理的にサポートしてください。

人知れず祈っていることもその一つです。

それが信仰というものです」

「分かりました。

病人の母を載せる担架の役割に私はなりたいと思います」

訪ねた時は憔悴していた祐司だったが、少し希望を見出した顔つきになって去って行った。

牧師として祈るべき課題がもう一つできたと神父は思い、同じ年代の後姿を見送った。






































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牧師に求められるのは信徒の生命を最優先する信頼関係にある [小説]

今日は、三月二十七日。

午後八時頃、内藤香織三十一歳が訪ねてきた。

彼女も神父も未婚なので、牧師館で二人きりになるというわけにはいかない。

面談場所を教会の集会室に移した。

彼女は不満げに言った。

「前の牧師とは相性が悪くて、教会にはほとんど来ませんでした。

それに信徒だって、周辺に住む人ばかりでしょ。

なんか自治会と変わりないんじゃないですか?教会って何ですか?」

相性が悪いとは具体的にどういうことだろうか?

尋ねると、説教がとてつもなくひどいように聞こえたということである。

聖書のことなどに触れず、私生活のことを開陳していたというのだ。

「そうですか、教会とは何かということですが」

神父は宙を仰ぎながらしばらく沈黙した。

「この教会に赴任してからいろいろな質問がありました。

その一つひとつに漢字を手がかりにお答えしてきたつもりです。今夜もそれにならいましょう」

「教の字の右側は、ボクニョウと言って『〇〇する』という動詞を意味します。

左側は、老人と子どもが知恵や知識を学び合うという交流を意味します。

中国語では、教師のことを『老師』と呼びますから、「老人」には差別的な意味はありません。

それから、会の上部ですが、これは蒸し器のフタを表し、フタと器がぴったりと合わさっている様子を示しています」

確かに、教の字の左側は老人と子どもの合成と見えるが、会と蒸し器のフタの話は初めてである。

「教えを説く牧師と信徒との相性がぴったりと合うという理想を語っているのでしょうか?」

神父が言いたいのは相性というよりも信頼関係についてである。

説教もその一つであるが、もっと根本的な生命に関わることである。

「内藤さん、少し回り道をしますが、聖餐式文に「世の罪を除く神の小羊よ」という祈りがありますね。

これは、「世」と対比して「神」、「罪」と対比して「小羊」、そして祈りの中心は『(取り)除く』です」

なるほど、そういう対比関係にあるのか。

でも、我々の罪を取り除くのが小羊としてのキリストであるというのは当然ではないかと香織は思った。

「除くという動詞に何か特別な意味があるというのでしょうか」

香織が関心を示してきたことをしめたと思った。

「右側の先端はスコップの象形で、それで土砂を左右に払いのけるさまを示しています。

大雪であれば、通路を作るためにスコップなどで雪かきをしますね。

この通路が先ほど話した蒸し器のフタと関連すると考えます」

香織には何のことかよく分からなくなった。

「どういうことでしょうか?」

神父は続けた。

「蒸し器のフタには小さな穴がありますね。急須を見てもそうです。あの穴は、フタが飛ばないための安全弁です」

そうか、雪かきをするのは通行人が転倒しないための安全策であるから、フタの穴もそうであると。

「分かりました。会が牧師と信徒の交流を意味し、それを円滑にするには、不純物を取り除かなくてはならないのですね」

神父はうなった。

「その通りです。それは神との関係にも言えることです。

つまり、不純物が罪であり、それを取り除くためにスコップのようなもので、地面を掘るというイメージです。

十字架に釘付けられる過程で、キリストもそのような力仕事を強いられたと想像すると面白くありませんか?」

面白いとは思うが、話をそろそろまとめてほしい。

「教会と安全がどう結びつくのですか?教会は魂の平安を説く場所だと思いますが」

冒頭の質問は、教会とは何かということであると神父は振り返った。

「牧師は魂の平安より、命の確保を最優先にしなくてはなりません。

例えば、関東大震災が起こって、今年で百年目に当たります。

ですから、いつ起こるか分からない、それが主日であってもおかしくないのです。

また、冬の夜に大雪が降ったとしましょう。

降り積もった朝に、雪かきをするスコップを用意していなかった聖職は、牧師失格です。

『世の罪を除く神の小羊』とはキリストのことですが、キリストの手にはスコップなどの土木道具が隠されていることをイメージしてはいかがでしょうか。

牧師が赴任してきたら、まずそのことを尋ねてみてください」

神父は赴任してきたばかりである。

「先生は何を用意しているのですか?」

ここはモノではなくヒトのことを言わなくてはならない。

「昨日、自治会長と顔合わせをしてきました。

地震や大雨の際の避難ルートや防災備蓄庫について説明を受けました。

そのことは昨日の礼拝でお知らせしましたし、プリントにも書きましたから、持ち帰ってくださいね」

「分かりました。教会、特に牧師にはスコップが必要で、お互いの命を守る信頼関係が必要なのですね」

そう言い残して、香織は帰って行った。

ふたたび彼女は現れるのか、祈りたい気持ちに神父はなった。







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キリストの憐れみは十字架の道行きの内に成就されるもの [小説]

今日は、三月二十六日日曜日、大斎節第五主日である。

神父は、田神教会で初めての聖餐式司式・説教を行った。

そのこともあって、疲労感を覚え、牧師館で横になっていた。

午後三時頃のことである。呼び鈴が鳴った。

玄関先には、川崎悠人二十三歳が、立っていた。

部屋に招じ入れると、悠人は言った。

「今日の先生の説教、なんと言えばよいのか、とても感動しました。
エゼキエル書で描写されている枯れた骨が、霊によって復活するというあたりがとても気に入りました」

神父にとっても、この田神教会での初めての説教が、青年の心に届いたかと思うと、正直嬉しい。

「それは有難う。分からないところがあったら何でも聞いてください」

悠人は、昨年のクリスマス(降誕日)に洗礼を受けたばかりである。聖餐式の式文も熟知していない。

「聖餐式の冒頭で『主よ憐れみをお与えください』と連呼しますよね。では、神の憐れみとは何ですか?」

神父は、いつものように床を凝視しながら沈黙した。

「それは、キリストの『よろめき』を意味しているのですよ」

悠人にはイメージしずらい表現であった。しかし、もっと聴きたいと思った。

「キリストは復活して、力強い姿を弟子たちに顕し、聖霊を吹き付けて派遣したという印象ですが、よろめくとは?」

悠人の着眼は、今日のエゼキエル書に通じるところがある。

「今日の枯れた骨のとおり、聖霊は落ち込んだ者を起こす力があります。

また、霊はヘブライ語では息という側面もあります。

ですから、骨が枯れていたように、キリストも十字架を担いながら、ゼイゼイ息を吐いていたとするのなら、力強さとは別の苦しみがあったはずです。

マルコによる福音書には、キレネ人のシモンを徴用して、十字架を担がせたとありますが、逆に言えばキリストには刑場まで単独では運べる能力がなかったということです」

そこまで、聖書を熟読していないが、確かに徴用の理由になる。しかし、よろめきと憐れみはどう関係があるのか?

「キリストは、疲れていたのか怪我をしていたのか、想像が膨らみますが、それと憐れみとの結び付きは?」

神父はもう一度床に目を落とした。

「ここで漢字を活用して、両者の結び付きを説明しましょう。
憐れみはリッシンベンから成りますね。

これをキリストの愛としましょう。

右側の上は、炎を意味します。

その下は、両足です。

例えば、雨の中かがり火を両腕で支えつつ、四キロメートル先まで運ばなければならなかったとしましょう。

川崎さん、あなたなら無事に目的地までたどり着くことができますか?」

大雨で夜間であれば、転ぶかもしれないと悠人は思った。

「確かによろめきますね。キリストが刑場まで歩んだ道とはそのようなものだったと先生は想像するのですか?」

神父は続けた。

「きっと息も上がるでしょう。キリストに休憩などなかったはずですから。

ゼイゼイ息を吐いていたのが、実は聖霊であった、だから弟子たちに聖霊を授与する前に、キリストは人類一人ひとりに時間と場所を越えて、霊を吹き付けているとも考えられます。

それが神の憐れみであり、憐れみは苦しみの内に成就されるものです」

悠人が教会を訪ねたきっかけは、就職活動の失敗であり、人生初めての挫折であった。

そのもだえ苦しみと共にキリストも苦しんでいたということか。

「では、連呼する理由は何ですか?」

なかなか鋭い質問だと神父は思った。

「それは、礼拝の冒頭で不純物を出し切るという意図があるのだと思います。

例えば、貝を食べる前にはしばらく水にさらして、砂を吐き出させたほうがおいしく食べられますね。

そのあとに大栄光の歌という御馳走のようなものが続きますが、キリストの栄光を語る前に、感覚を研ぎ澄ます必要があるのです。

私たちは、罪の垢にまみれてますからね」

悠人は、最後に聞きたいことが出てきた。

「大栄光の歌を大斎節などに歌わない理由は、この期間私たちの不純物を出し切ることが目的であって、キリストの栄光に翳りができているわけではないのですね」

これも的を得ている。悠人とは今度もゆっくり話したいと思った。

「これから用事があるので、失礼しますが、また立ち寄らせてもらってもいいですか?」

「もちろんです。水の涸れた心に潤いを与えるようにね。お互いに」

意気揚々とした悠人の後ろ姿に、神父は主日礼拝の疲れを忘れた。
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我が身の罪と神の恵みを一つひとつ数えていくことが信仰生活の要 [小説]

今日は、土曜日。昨日と同じように朝の礼拝を司式しようとしたところ、聖堂には二人連れが座っていた。

飯野恵子六十歳と孫の昇平五歳である。

初対面だったので、細かい家族関係は分からなかったが、礼拝後の自己紹介の時に、昨日の飯野夫妻の親類だということが知れた。

恵子が尋ねた。

「先生、舅から祈祷という漢字の意味について教えてもらいました。なるほどと思いましたが、キリスト教会では犠牲獣は用いていませんよね。シメスヘンの説明がつかないような気がするのですが、いかがでしょう」

神父は、もっともな質問だと思った。立ちながら腕を組んで考えたが、こう誘った。

「集会室に行きましょう。ゆっくりとお話しませんか」

三人は、集会室に移動し、昇平はわきで遊び始めていた。

「聖餐式文には、『感謝・賛美の生贄を天の祭壇に至らせ、大祭司である御子によってお受けください』とありますね。私たちはユダヤ教の祭儀のようなものではなく、イエス・キリストがただひとたびの完全な犠牲になったことで、罪の赦しを得ることができるようになりました。そのため、キリスト教の礼拝では動物の代わりに賛美を神に向けるのです」

恵子は、シメスヘンがキリストのことであることを悟った。斧による傷が、手足の釘跡であり、右脇腹の槍傷であるということだ。

「でも、感謝と賛美では斧の刃の生々しさが伝わらないのではありませんか?」

確かにその通りである。それが漢字とキリスト教との限界かもしれない。しかし、神父はふっと思いついた。

「恵子さん、あなたはよい指摘をされましたね。感謝・賛美の生贄のほかに、「懺悔の生贄」というものがあると私は考えています。聖餐式文にも懺悔の部分がありますが、今日の朝の礼拝式文にも載っています。ただし、主日の朝夕の礼拝以外の週日はこれを省略することとなっています」

恵子にとっては、懺悔の生贄よりも、なぜ省略するのかが気になった。

「先生、主日以外は懺悔を省略する理由というものがあるのですか?」

神父は集会室にあるホワイトボードを使って、説明し始めた。

「懺は、リッシンベンとそれ以外から成りますね。それから「非」のようなものですが、これは食べ物のニラを指します。それ以外は切るという意味です。つまり、ニラを包丁で刻むように、細かく内心を砕くというイメージです。祈の右側の斧と包丁が重なりますね。次に、悔ですが、リッシンベンに毎がついています。下の部分は、母と同じで「繰り返す」という意味です。一日一日を繰り返して反省する。主日は日曜日ですから、この日が一週間の始まりです。そして実は、主日の朝の礼拝前が週の終わりなのです。懺悔しなくてはならないのは、この一週間の一つひとつの中に、繰り返し神の恵みからそれていないかを確認するのです。そのまとめを主日の朝の礼拝で総括します。ですから、週日の朝の礼拝は、省略することに『なっている』のです」

恵子は、説明が複雑でとらえきれないところがあったが、懺悔というものはまとめてやるものだというルールについて理解した。

「朝の礼拝で用いる懺悔とはどのようなものでしょう」

神父は、恵子が関心を持ってくれていることに安心した。

「こうあります、『憐れみ深い父なる神よ、私たちはしてはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと言葉と行いによって、多くの罪を犯しています。どうか、罪深い私たちをお赦し下さい。新しい命に歩み、御心に従い、み栄えを表すことができますように。主イエス・キリストによってお願いします。アーメン』ですが、冒頭が信仰宣言、私たち以下が自覚、どうか以下が祈願という構造で、これは聖公会の祈祷の基本パターンとなっています」

恵子は内心、この基礎構造は聖公会の特色であると、いずれかの聖職から教わったのを覚えている。

「罪とは、さっきのニラと同じようなもので、まだナマモノで調理・洗練されていないから、細切れを必要としているということでしょうか?」

「その通りです。したがって、私は懺悔の生贄と呼んでいるのです。ところで、恵子さん、あなたのお名前の恵は、神の恵みという言葉にあるように、頻繁に出てきますね。興味を覚えて、この漢字の成り立ちを調べてみました。心は心臓の象形ですが、それ以外は糸巻きを表しているとのことです。例えば、凧の糸巻きがありますね。凧を空に放した後には、無事に手元まで返すまでに、糸を手繰り寄せなくてはなりません。でも、風にあおられて、糸巻きが空回りしたり、糸が絡まりそうになってしまうこともあります。しかし、神の心は入念で、凧を無事に着陸させます。これが恵みの一端を示しているように私は思うのです」

恵子は、自分の名前のことまで、成り立ちをきこうとは思わなかった。

「懺悔の生贄ですね。今日の料理には、ネギかニラを使って、細かく刻みながら、我が身を振り返ってみたいと思います。罪だけでなく神の恵みも」

神父は大きくうなずいた。

「その通りです。我が身の罪と神の恵みを一つひとつ数えていくことが、信仰生活という旅なのです」

そろそろ昇平が飽きてきて、帰りたがった。丁寧にお辞儀した恵子は、孫と共に帰って行った。

今日も、神父は司牧に手ごたえを感じていた。








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波乱万丈な長い人生を肯定する「禱」(祷の異字体)の意味 [小説]

神父は、白百合聖公会から田神聖公会に引っ越しを終えて、今日で三日目である。あらかじめ、朝の礼拝を行うと信徒に知らせてあったが、誰も姿を現すまいと神父は思っていた。

ところが、飯野正敏・勝子両夫妻が、開始前三十分から着席していた。

神父は、一瞬驚いたが、これが本来の姿である。本腰を入れて司式しようと促された。

礼拝は、聖語「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もそこにいるのである」で始まり、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが私たちと共にありますように」という祝祷で終わる。

説教はしなかったので、時間に余裕があれば、集会室でお茶を飲まないかと夫妻を誘った。

二人とも年齢は八十代半ばを過ぎており、正敏は教会の長老格(実力者)であった。

雑談が一段落すると、正敏が神父の目を見て質問してきた。

「先月ですかな、教区の研修会で賛美歌についての講演がありました。賛美歌には、人の痛みに共感し、寄り添う側面もあるが、聖公会の歌集にはその側面が欠如しているとのこと。講師は、賛美歌とは、式文の一部であり、祈りであると結ばれました。ところで、先生、祈るとはいったい何を意味しているのですか?この素朴な疑問がわいてきました」

この率直な問いかけに、神父は感動を覚えた。

生半可な返事はできない。いつものように腕を組みしばらく沈黙した。

「そうですね。それは大変基本的な質問です。そのお答えをさせてもらう助けとして、漢字を活用したいと思います。なぜなら、祈りという漢字の偏は「シメスヘン」ですが、これは、祭壇に犠牲獣をささげるということを表し、宗教そのものだからです」

正敏は、戦前の教育を受けてきたから、当用漢字とは異なる異体字(旧字体)を知っている。

「確かに、シメスヘンは何の理由か分からないが、コロモヘンと見分けがつきにくくなりましたな。私の記憶では、それは祭壇のことであると」

神父は続けた。

「その通りです。しかし、より大事なのは右側の部分です。正敏さん、これは何だと思いますか?」

正敏は逆に質問され、少し意表を突かれた。

「それは、近いという漢字があるでしょう。祭壇に近づくという意味では?」

神父は深くうなずいて、ゆっくりと語り始めた。

「それは、実は斧のことを指しています。斧は、父と右側とから成っていますね。もし、そうだとすると、右側は犠牲獣を切りさばく道具と取れます。犠牲獣の中にはそのへんやつくりから、牛や羊、犬が見て取れます。これらを斧で屠って、形の良いようにさばいてから祭壇に載せます。近づくという意味もありますが、斧としてイメージした方が、躍動的だと思いますがいかがでしょう」

正敏は、やられたと悔しく思った。これまでは、新任の牧師に初日から難問を突き付けて、自分たち信徒を優位にしてきたのに、当てが外れたのである。

しかし、神父にとって「勝ち負け」は眼中にない。

「正敏さん、祈祷書の祷には長い道のりを歩いてきた高齢者を神が見守っているまなざしがありますよ。異字体で「禱」ですね。右側の一番上は「杖」を指し、その下は川の流れのように穏やかな流れもあれば、急流もあった、そのような波乱万丈な長い人生を表しているのです。私たち若輩者は、ご高齢の方から多くを学ばなくてはなりません」

これもまたやられたと正敏は思った。高齢者のメンツをつぶさないことをこの人はよく知っている。

「祈祷書の祈祷の字には、ダイナミックな点と高齢者に対する尊敬の念が示されているのですね。今日は、初対面でしたが、礼拝を共にし、漢字から学ぶことができました。今後ともよろしくお願いします」

神父は玄関まで二人を見送って、とてもいいスタートを切れたと思った。

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祈りの基本パターンから創作する各自の祈り [小説]

これから、『祈り』と題する小説をしたためたいと思います。

書き出しに当たって、以前書き留めた「神父」という小説のまとめとして、フィクションである白百合聖公会でのお別れ会から始める。

三月十九日日曜日、教会の集会室で昼食を兼ねて、正野友樹神父の送別会が開かれていた。

その席には、川田篤史・純子夫妻がいた。夫妻には十七歳の娘がいたが、原因不明の飛び降り自殺があり、憔悴しきっていたが、使徒信教の学びにより、立ち直ることができた。

純子が口を開いた。

「神父、学びの中で聖マリアと母なる聖霊が協働関係にあったということが印象に残っています。娘の美花も私のおなかで、霊の息吹により命を与えられたのですね。娘のことは残念ですが、彼女が私たちの信仰を深めてくれたと思います」

篤史も感慨深げにうなずいていた。

続けて、山野睦が発言した。彼女は早くして父親を失ったのだが、病床で祈りについて問われ、それに答ええなかったゆえに、主の祈りを神父からレクチャーしてもらった。

「あの時は、主の祈りの中心が聖霊を求めるものであることを教えていただきました。毎日、父の遺影の前で祈っています」

そのあと、加藤昭という十八歳の男子高校生が語りだした。彼は父親との確執から、「金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴に入る方が易しい」という言葉に関心を持ち、十戒を学んだ。

「不動の神がある。活動の聖霊がある。神の創造とは分けることである。うまく言えませんが、これからも聖書の言葉を深めていきたいです」

この場にはいないが、聖婚式を挙げた夫妻を通して、コリントの信徒への手紙の「愛の賛歌」を学んだこと、バプテスト教会の信徒を通して、聖公会の洗礼と聖餐を学んだこと、神学生を通して、マリヤの賛歌などを学んだことが、神父の脳裏によぎった。

神父は、短い別れの挨拶を述べた後、次のことを言った。
「皆さん、私がこの教会で奉仕する目標は、各自が自分の言葉で祈れるようになることです。
念のため繰り返しますが、朝の礼拝の特別な祈り(特祷)は、こうありますね。

天の父、永遠にいます全能の神よ、

今朝までわたしたちを無事に過ごさせてくださったように、

今日一日もみ手のうちにお守りください。

罪に陥らず、危険にも会わず、絶えず主の導きにより、み心にかなう行いができますように、

主イエス・キリストによってお願いいたします。

アーメン

『天の父』以下が、使徒信経やニケヤ信経と共通の信仰宣言です。

『今朝まで』以下が、自覚です。

『今日一日も』以下が、祈願です。

そして最後に、私たちの仲介者である平和の君イエス・キリストの名前で締めくくります。

『アーメン』は、複数の場合は、そのとおりである、一人の場合は真心を込めてという強い気持ちの表明になります。

このパターンが聖公会の祈りの基本であること、この基本から学習して、各自が自分の祈りを表明することができること、そのために私は遣わされたのです。

皆さんは、よく学習なさりました。

次の任地でも同じことを遂げるのが私の使命です」

こうして、神父(ちなみにローマ・カトリック教会の称号ではあるが、たまたま彼が独身男性だったための愛称である)は、次の任地、田神教会へと旅立った。

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