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友のために立ち上がること [奨励]

5月5日(復活節第6主日)、日本聖公会における福音朗読は、ヨハ15:9~17です。ここで強調されているのは、「互いに愛し合いなさい」という二度の繰り返しです。

ポイントとなるのは、以前も申し上げたことですが、「友のために命を捨てること」にあります。

捨てるとは、ボクシングで言う「ノックダウン」のようなものです。

したがって、仲のよい友からひどい裏切りに会い衝撃を受けた時に非常に似ています。

最近、私には次のような体験をしています。

友と思っていた人から、「買い物係」扱いされていること、大けがをした家族を心配するというよりも食欲を優先している様を突き付けられたこと。

でも、その人と正面から向き合おうと思います。

それが、「命を捨てること」だからです。

そして、「これ以上に大きな愛はない」のです。

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信仰告白としての祈り [奨励]

日本聖公会の4月28日(復活節第5主日)における福音朗読は、ヨハ14:15~21です。

この箇所で気になるのは、「私の名によって願うものは何事でも、私がかなえてあげよう」という言葉です。

しかし、私たちの祈願に、主イエスの名を添えれば、いかなることも成就すると考える人は誰もいません。

例えば、主イエスの名によって、「金持ちになりたい」と願っても、そうならないのは常識です。

では、この言葉は何を言いたいのでしょうか。

先の奨励の通り、ノックダウンした者が立ち直ることを、主イエスの名前、すなわちイエスはキリストであると、何度も告白する(叶う、十回口にする)ことを意味しているのです。

キリスト教のすべての祈り、祈願とは信仰告白であって、現世利益を追求するものではありません。

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主イエスのノックダウン [奨励]

本日の福音日課は、ヨハ10:11~16ですが、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあります。

しかし「捨てる」と言うと、どうしても「ごみ箱に捨てる」ということを連想させます。

この動詞をある英語訳で調べたところ、lay downとなっています。layとは、原義では「横たえる」という意味です。downとは、例えばボクシングでノックダウンする光景を連想するとよいでしょう。

この箇所が復活節に読まれる意味は何でしょうか?

かつて、竹田眞主教が「大斎節には主イエスの復活を語り、復活節には主イエスの死を語るのが説教者の責務だ」というようなことを語っておられました。

主イエスの復活、すなわちstand upのことを語るのなら、まずダウンの深い意味を黙想する必要があるのです。

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主イエスが罪人を「贖う」ことと信仰者の「想起」という救済の両面性 [論説]

キリスト教の根本教理の中に「贖罪」がありますが、この言葉は正しくは「贖罪人」です。例えば、「汚名を挽回する」という誤った表現がありますが、主イエスは「罪」という概念を選び取って買い取る、すなわち「贖う」のではなく、「罪人」としての人間をまるごと選び抜いて、ご自分のものとするのが贖いであり、言い換えれば贖罪人ということになるのが私の主張です。
では、贖罪人とはどのようなことを指すのか考えていきましょう。ここであるイメージを用います。最近問題になった、ホストクラブに多大な借金を背負わされ、風俗店で働かされることになった女性を事例にします。この女性に仕組まれた構図こそ、「贖罪人」のイメージにぴたりとあてはまるケースだからです。しかし、彼女が罪人であると言いたいのではなく、構図そのものが「贖う」という意味を明確にする目的です。まず、彼女は風俗店に押し込められることになり、不本意な労働を強いられています。その労働から逃れようとすれば、風俗店と結託している暴力団に逃亡を妨害されます。つまり、彼女は監禁され、強制労働をさせられているのです。
ここで、主イエスの「贖い」が登場します。主イエスは「奴隷の家」である風俗店から彼女を救い出すべく行動を「起こす」とします。しかし、救出には暴力団と闘わなくてはなりません。主イエスは風俗店に乗り込み、かろうじて彼女を逃すことに成功しますが、暴力団のピストルの弾丸により、失血死します。このような様を「血による贖い」と言います。主イエスの十字架の血による贖い、しかも、ただひとたびの完全なそれによって、実はキリスト教徒一人ひとりは「奴隷の家」(ここで言う「風俗店」)から解放されているのです。
しかし、奴隷の家はどこか別のところにあるのではなく、実は自分の中にあるというのがキリスト教の奥深さであるとともに、ややこしいところです。そこで、自分の中の罪とは何かを具体的にみていきましょう。聖公会の『祈祷書』に「嘆願」というものが収録されています。そこには、「心の迷い、高慢、虚栄、偽善、ねたみ、憎しみ、恨み、またすべての無慈悲」及び「不品行」が列挙されています。これらの思い、言葉、行いと言えますが、「不品行」については、同性愛などのように、時代と共にその概念が変わっていくことに注意を払いたいと考えます。
つまり、心の迷い以下は、自分の心に巣食う奴隷の家であり、ここから逃れるためには自分の力では決してできることではなく、主イエスの命を懸けた起動により、完成されたと信じているのが私たちキリスト教徒なのです。これは、主イエスの失血死に留まりません。この罪人の贖いは、主イエスの死からの復活により、新しい「いのち」と一体化することにも及びます。
復活の教理もまた、説明を要することです。これは、神秘としか言いようのないことですが、あるイメージを用います。人間は死ねば、身を横たえますが、復活とはここから「立ち上がる」ことを意味しています。聖餐式の前に「チャリス」という盃に「パテン」という受け皿が乗っかっていますが、パテンには聖別される前の種なしパン(ホースト)が、置かれてあります。すなわち、聖餐式の前には「失血死した」ホーストが横たえられています。これが、感謝聖別祈祷により、会衆に向かって縦方向に顕示(エレヴェーション)されます。これが「復活」を示しているのですが、注意しなくてはならないのは、聖餐式において主イエスの死と復活が繰り返されているのではないということです。
ここで、会衆による想い「起こす」という救いに向けての行動が求められます。先に、私たちの救いは主イエスによるほかないと述べましたが、それは出発点であって、終点に至るには会衆の「想起」なしにはあり得ないのです。つまり、主イエスが行動を「起こしている」という信仰と、主イエスを想起するという信仰の両面性があって初めて成立することだからです。その前提として、私たちは「心の迷い」などの罪を負っているという自覚と、主イエスの起動による回復、そして復活のからだとの一体化、これらが目に視える形で行われるのが聖餐式なのです。

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(奨励)今(日)こそ私たちが誘われる喜びの世界の接近 [奨励]

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2024年12月25日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書2章から抜粋された「主イエス誕生」の物語です。

日本では、クリスマス前日を「クリスマスイヴ」と呼んでいるようですが、正しくは「クリスマス前夕」を指します。ルカの降誕物語には、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」とありますが、なぜ「今」ではないのかについて考えてみたいと思います。

そのことを比較するとき、シメオンの賛歌の「主よ、今こそあなたはお言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉があります。これは、シメオンが乳幼児主イエスを腕に抱き取ったときの感激を表しています。また、主イエスとともに十字架に付けられた罪人に対しては、「あなたは、今日私とともに楽園にいる」と言います。まもなく、処刑死するのに「今日」と言うのはちぐはぐなように見えますが、シメオンも罪人も主イエスとの距離がとても近いという点で共通しています。

その意味では、今日も今も同じであると言ってよいでしょう。今ダビデの町に主イエスが生まれた、この今こそ待望していた救い主が登場したという臨場感が湧いてきます。今日と言う言葉は他にもあります。故郷のナザレでイザヤ書の朗読をしたとき、「今日、あなたがたがこの言葉を耳にしたとき、この言葉は実現した」と主イエスは宣言します。内容は、キリストの誕生と社会的弱者の解放を表していますが、ナザレでは受け入れられません。

詩編95に「今日、神の声をきくなら、心を頑なにしてはならない」という言葉がありますが、これも今神の言葉をきいたときに、それを素直に受け入れるか否かという心が問われるのです。また、主の祈りでは、「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」とありますが、この前後が内面的なことを言っているのに、急に物質的な求めになるのは、奇異に感じます。私見では、ここで言う「糧」は、神の言葉、そして必ずしも聖書の言葉ではなく、新たな気付きを与えられる啓示の言葉であると思います。それは、今という臨場感であるのとともに、今日こそは御言葉をくださいというスパンでもあると言ってもよいでしょう。

ユダヤ教では、一日の始まりは日没後です。主イエスは夜間に産まれていますから、それは一日の終わりではなく、始まりです。天地創造の初めは、「光あれ」でした。主イエスの誕生は、闇を引き裂く物理的な光であるだけではなく、永遠の栄光、私たちが誘われる喜びの世界の接近なのです。
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(奨励)福音書の冒頭に来るのは「洗礼者ヨハネの福音の初め」である [奨励]

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2024年12月22日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書1章から抜粋された「マリアの賛歌」の物語です。

マリアの賛歌の後半は、裁きの言葉で満ちており、女性の言葉としては違和感があります。しかし、これを洗礼者ヨハネのものだとするならば、受け入れやすくなるのではないでしょうか。

思い上がる者を追い散らし
権力ある者をその座から引き降ろし

という箇所は、ヘロデ・アンティパスのことを想い起こします。彼は結局、悲惨な死を遂げることが使徒言行録に記されてあります。

また、主イエスに随伴した女性の中に、ヘロデの家令クザの妻ヨハナがいますが、ヘロデの身内から主に従う者が出ていたことは、洗礼者ヨハネの影響が大きかったことをうかがわせる記事となっています。マグダラのマリアやスサンナとともに、ヨハナが持ち物を出し合ったという表現からすると、彼女たちが資産家の出身であることも暗示しており、マリアの賛歌の

富める者を何も持たせずに追い払い

に反応したことをうかがわせるものです。このことも、ヨハネの影響によるものだと私は考えます。

マグダラのマリアが、罪深い女で娼婦だったという俗説がありますが、彼女が金持ちだったとすると、そのようなことはありえず、七つの悪霊を追い出してもらったという記事も精神障害を指すのではなく、夫や財産を投げ出す覚悟を示しているのだと思います。このように、マリアの賛歌をヨハネによるものだと想定すると、別の光景が浮かび上がります。

今から後、いつの世の人も
私を幸いな女と言うでしょう
の女を下僕であるヨハネと置き換えると、非業の死を遂げたヨハネですが、彼の業績は、永く残っている事実と符合します。

ヘロデの家令のクザの妻ヨハナは、主イエスの復活の証人の一人となっており、ヘロデ王の地位や振る舞いとは対照的です。このように、女性の「でし」たちの召命を具体的に記述しているのは、ルカのみです。

マリアの賛歌が洗礼者ヨハネのものだとすると、ザカリアの賛歌も彼によるものだと想定できます。両者に共通するのは、「アブラハム」に対する言及です。神とアブラハムの契約に当たって、割礼がしるしとなりましたが、これが洗礼に代わったことは、キリスト教を普遍的なものに大きく変えたことからすると、ヨハネの功績を称える表現とも言えます。

これらは仮説に過ぎませんが、ルカ3:18にヨハネが「民衆に福音を告げ知らせた」とありますが、その内容が何であったかを想像するとき、賛歌などはいろいろな素材を提供していると思います。

マルコの書き出しが「神の子イエス・キリストの福音の初め」の直後にヨハネの物語が続く意味では、「洗礼者ヨハネの福音の初め」と言って差し支えないのです。
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(奨励)社会的弱者に対する洗礼者ヨハネの眼差し [奨励]

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2024年12月15日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書3章から抜粋された「洗礼者ヨハネとの問答」です。

きょう、聖餐式で行われた福音朗読の中で「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」という言葉がありました。これはマタイの箇所なのですが、ルカでは「徴税人と罪人」という表現になっています。すなわち、娼婦は罪人という「隠語」になっているのがギリギリなのですが、マタイのような道徳重視の福音書としては、異例の表現となっています。

さて、洗礼者ヨハネのもとに徴税人や兵士が集まってきて、差し迫った神の怒りから免れるためにはどうすればよいかと質問します。これに対し、法に触れるようなことは避け、規定の収入で満足しなさいという至極当然の答えが返ってきますが、逆に言えば、決まりが守られていないのが現実だったということです。私は、徴税人や兵士だけではなく、娼婦もヨハネのもとに来ていたと考えます。しかし、娼婦のような社会的弱者に今の収入で満足しなさいでは福音になりません。

彼女たちにとっては、ヨハネを通した、神の言葉のみがすべてだったのです。では、ヨハネはどのような福音を語っていたのでしょうか。具体的には残されていませんが、主イエスが語った説教の中に、共通するものがあると考えます。例えば、
「貧しい人々は、幸いである
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は幸いである
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである
あなたがたは笑うようになる。」
というようなことを語っていたとしたら、娼婦にとって、慰めの言葉であったと思います。

では、娼婦は、どのような境遇にあった人々なのでしょうか。夫と結婚して、幼子に恵まれたものの、夫が病気や戦争などで他界し、シングルマザーとして生きて行く他なくなってしまったとします。当時は、女性が職業を持って自立することは難しく、売春をして暮らしを立てる他ありませんでした。望んでそうしているのではなく、泣く泣くやっていることなのですが、世間からは、口にするのもおぞましい存在でした。

彼女たちにとって、今泣いている人々は幸いである、神の国はあなたがたのものであると、ヨハネのような尊敬すべき宗教指導者から語られた言葉は、どんなに救いであったことでしょう。マタイは、祭司長たちよりも、娼婦たちのほうが、ヨハネが示した正義に忠実であったと記しています。そのことからも、ヨハネの周囲には、多くの娼婦が集まっており、預言者は彼女たちを蔑むことは決してなかったということです。

とかく、ヨハネは厳しい人物として描かれていますが、実は社会的弱者に対する眼差しは優しいものであったことを、マタイの異例の表現から知ることができます。
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(奨励)幼児洗礼で洗礼が形骸化してしまった中での堅信の学びの重要性 [奨励]

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2024年12月8日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書3章から抜粋された「悔い改めの洗礼の準備」についての御言葉です。

主イエスの公生涯の始まりの前に、洗礼者ヨハネの登場があります。もし、彼の活動がなく、悔い改めの洗礼がなかったら、キリスト教は、ごく限られた範囲にしか及ばなかった可能性が大いにあります。ルカのみが、引用されているイザヤ書の末尾に「人は皆、神の救いを見る」を加えているのは、その意図があるのです。また、イザヤ書で大事な言葉は、「主の道を備えよ」です。

洗礼や堅信の前に、使徒信経や主の祈り、十戒を学ぶのはそのためです。旧約聖書に始まるこの物語と福音書の末尾は、つながりがあります。こうあります、「私についてモーセの律法と預言の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」。詩編が出てくるのは、諸書の代表だからです。つまり、旧約聖書全体が真理であるということです。したがって、十戒を学ぶことは、とても重要なことです。特に、ロシアによるウクライナ侵攻の中にある現在、「殺してはならない」という戒めは現代的意義があります。

さて、「悔い改めの洗礼」とあることから、「幼児洗礼」の是非について、考えたいと思います。悔い改めとありますから、本来知性のある年代が洗礼の対象になります。しかし、旧約聖書では、割礼が契約のしるしとなっており、ユダヤ教では、生後八日目に割礼を施す慣例ができました。キリスト教もこれに倣ったものと言えます。しかし、前述の通り、信仰には準備が必要です。私は幼児洗礼の意義に重きを置きません。ここで、大事になってくるのが堅信であり、十戒を学ぶことです。

十戒はしてはならないことの羅列のようですが、実は自分を後回しにしなさいとの神の招きです。例えば、第一戒に「私の他に神々があってはならない」とありますが、これは他宗教の否定というよりも、自分を神にしてはならないということなのです。これは名誉欲と関係があります。例えば、会社の社長になったとして、机に自分の職名と氏名を刻んだネームプレートを置くのを見たことがあると思います。

これが、名誉欲の一つの例であり、刻んだ像というのは、ネームプレートのことなのです。それ自体は、悪いことではないことかもしれませんが、社長なき後に、誰がそれを引き継ぐかで、社内に骨肉の争いが生じれば、それは唯一神を否定し、偶像崇拝に陥っているということになります。したがって、十戒は自分のこととして捉えないと、単なる教条主義になります。このように、悔い改めの堅信(洗礼)のための学びは、幼児洗礼によって、洗礼が形骸化してしまった現代の教会で重要な位置を占めるのです。

つまり、洗礼者ヨハネではなく、「堅信者ヨハネ」なのです。
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(奨励)天変地異が起きたから急に祈るのはおかしなこと [奨励]

2024年12月1日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、ルカによる福音書21章から抜粋された「救いの兆候と祈り」についての御言葉です。

今回は、天変地異などが起きたのを神の国が到来するしるしとして受け止め、希望を持つことが描かれています。しかし、「もし〜ならば」という仮定が二つあることに注意してください。一つ目は、「このようなことが起こり始めたら」(28節)とあり、「天の諸力が揺り動かされる」ことを指していますが、これはあってもなくても、私たちの救いには関係のないことです。

なぜなら、「二日酔いや泥酔や生活の煩い」は天変地異とは無縁のごく日常であり、この日常の中でこそ、心を神の言葉に向けて、目を覚ますときだからです。二つ目も「これらのことが起こるのを見たら」(31節)とありますが、いちじくや他の木は、日々成長するサイクルの中にあります。その循環においても神の言葉の永久性に変わりはないのです。このような仮定があってもなくても、「いつも目を覚まして祈」るのが大事であって、天変地異が起きたから、急に祈り始めるとはおかしなことです。

大事なことは、神の国の到来を切望して、日々祈り、礼拝することです。22章には、主の晩餐の記事があります。「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」(19節)とありますが、主を囲んで、朝早くから話を聞く営みこそ尊いのです。

「あなたがたの救いは近づいている」(28節)の救いは、直訳すると贖うになります。贖うとは、戦争で捕虜となって苦しんでいた人に身銭を切って買い取るということです。つまり、身代金を用意して交換することです。主イエスは、御自身を身代金として、私たちを罪の鎖から解放してくださいます。ですから、身を起こし、頭を上げることができるのです。

天変地異が起きたから祈るのか?いいえ、なくても祈るのです。
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(奨励)盲人バルティマイの視力回復と復活の光 [奨励]

2024年11月24日、日本聖公会の聖餐式等で行われる福音朗読は、マルコによる福音書11章から抜粋された「エルサレムでの歓迎」の物語です。この物語から何を学べるのでしょうか。

主イエス一行のエルサレム入りは、直前の盲人バルティマイの視力回復と密接な関係があります。彼は、生まれつき目が見えなかった訳ではなく、人生半ばにして、全盲になりました。これは、南ユダ王国が、バビロニア帝国によって滅ぼされましたが、主イエスの到来によって、王国が回復するという期待を反映しています。また、視力の回復は、再び光をみるということです。

これは、誰も乗ったことのない子ろばと関係があると思います。誰も乗ったことのないということは、主イエスが初めて乗ったということです。初めてということの内に、天地創造の初めである「光あれ」ということの暗示があります。また、バルティマイが、上着を脱いで、喜び躍ったという描写はエルサレムの市民が一行を大歓迎したことの前触れとなっています。主イエスが子ろばに上着を掛けたのも、その意味があります。

なぜ子ろばだったのでしょうか。馬ではない理由はあるのでしょうか。子に対しては、父という存在を想い起こします。「父」という言葉はエルサレムの物語に集中しています。ゲッセマネの園での「アッバ、父よという」祈りと子ろばとの関係は通じるものがあるのです。市民は、主イエスの到来が政治的解放であると待望していました。しかし、そこでの意義は過ち、罪の赦しであり、永遠の命に道を拓くということです。

同じ11章に次の言葉があります。「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。王が家来の多額の借金を棒引きしたのに対し、その家来は同僚から少額の借金を取り立てようとしたという譬えや、マルコの夜福音書には登場しない「主の祈り」と通じるところがあります。

最後に、もう一度バルティマイの奇跡の意義についてですが、二人の匿名の弟子と関係があると思います。前述の通り、ペトロを首根っことしたツリーを十二人の使徒プラス三人とするならば、二人は男女を表し、バルティマイは社会的弱者を象徴しています。これは教会全体を示しています。それにとどまらず、聖餐式文では「天の全会衆」を加え、この「ホサナ」を歌い唱えます。エルサレム入りは、主イエスの肉体の回復、復活、教会の礼拝を意味しているのです。
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